武道の心をうたった歌もある。武士道とは、死ぬことと見つけたり。こういう言葉がある。
これが本当に武道で悟った人の言葉だったら、死ぬとは何を指しているか、みんな考えてほしい。
武士道とは、死ぬことと見つけたり。これも悟った立場からみたら、ものすごい言葉。深い意味がある。
浅くとらえたら、浅いなりの解釈だし、おかしく感じる言葉かもしれない。

だからどんな言葉でも、深くとらえていったら、悟りへの言葉。
柳生流の悟りの歌、心こそ、心惑わす心なれ、心に心、心許すなってね、極意の歌。
心をしっかり把握できたら、柳生新陰流の奥義を体得できている。その心の一つ一つを区別しないとダメ。
同じ心という言葉でも、中身が全部違う。表面の現実の浅い言葉の定義とか、
解釈に縛られたら、奥の意味が全然分からない。

まず武士道、武士道ってどういうことか、武士って何か。武ってどういう意味か。深い意味がある。
まず武。矛を止(とど)むという意味。矛というのは攻撃する道具。盾が守る防御の道具。
昔、矛と盾を売りに行った行商人がいて、この矛はどんな盾も貫けると言った。
一方で、この盾は、どんな矛も防げると言った。どっちが正しいかといったら、両方自分が売っていたら矛盾。
成り立たない。

武士道の武。矛を止む、この武とは何か。争い心を全部消さないといけない。争うというのは、対立する。
善悪を決めたりして、対立させたらいけない。敵があるって認めたらそう。
争いの心、対立の心を全部消しきって無くしたら、愛の心一つ。武って言うのは、本当は思いやりの愛の心。

そしたら武士道とは、死ぬことと見つけたりとは、一切の争いを無くす方法は何かということ。
現実に肉体の自分が死んだから、どうのこうのではない。武将同士が争っていて、自分が死んだら、
それで戦いは終わる。相手は死んだ人に対しては、相手を褒め称えて畏敬の念を表現してくれる。
死んでからまで戦わない。本当に味方以上の大事な扱いをしてくれる。
でも、この場合の意味は、肉体が死ぬことではない。死ぬっていうのは、我の心を消しきること。
争いの心を全部消しきること。本心の愛の心に戻ること。一切の敵がないという心に戻ること。
全部味方なんだ、みんな神さまなんだと見ること。これが本当の意味での、武士道とは死ぬことと見つけたり。

だから、そういう悟りとは関係ない言葉でも、悟りをうたっている。
本当の真の神さまだけなんだという意味を示そうとしている。だからそういう色んな言葉を通して、
どれだけ奥深い意味をとらえるか。同じ言葉でも、少なくともプラスの10通り以上の解釈を施すようにと
言われているけど、本当は無限通り。神さまの世界の言葉の解釈は、沢山ある。この世は限定される。

でも神さまの世界は、自由自在に沢山の解釈を施せる。死ぬっていったら、死ぬことなのかといったら違う。
生きること。例えば、火を斬り殺すと言ったら、火というのは、斬ったら燃え盛る。
だから火の神を斬るといったら、その神さまを大きく活かすこと。
だから斬り殺すは、大きく生かすっていう意味がある。だから解釈は、神さまの世界では自由自在。
幾通りもの解釈が生まれてくる。だから本心だったらわかる。
一つの言葉を聞いても、神さまの御心をそこに見出そうとする。
どんな解釈でも自由自在に施して、神さまの心をとらえることが出来る。

これをみんなが集まった時に、一人ひとりが色んな解釈を施せないと、違う解釈を施せてこそ、
みんなが支え合いになって、気付きが増える。自分一人の一通りの解釈だったら、浅い小さい、限定される。
でも違う解釈を施せる人が出てきたら、気付きが大きく増える。
だから一つのテーマ問題に対して、幾通りも解釈できないとダメ。
浅い解釈、深い解釈、小さい解釈、大きい解釈、沢山の解釈を施して来て初めて、全体を大きく一つにとらえて、
正しい本当の解釈に近づく。それが本心の気付き、本心開発に直結する。気付いたら本心開発。
深く理解したら、本心が大きく輝く。

だから本当の勉強は、神さまの御心をしっかりととらえること、把握すること。
特に今、絶対必要、今必要という神さまの御心をとらえて、実行に持って行くための勉強をすること。
今必要な勉強、これが大事。それを目指して、いろいろ工夫を凝らす。
だから、一週間前にこのテーマで、と言われてする勉強もいいけど、その時にサッと出すのも大事。
多分、時間があったら、思いの心で勉強すると思う。時間がなかったら、本心が出てこないと出来ない。
本心をどうしても引っ張り出さないとダメ。ギリギリの状態に置けるから。

どっちが本当の勉強になるかって考えたら、その時に自由自在に変えないとダメだけど、
どういう形を、すがたをとっても、常に真剣勝負。神さまとの真剣勝負。神さまとの問答、やり取り。
人と人との話し合いではない。みんな一人ひとりが、神さまと一対一で問答する。
それで、神さまをどれだけ引っ張り降ろせるか。答えをどれだけ引き出せるか。
引き出した分が、みんなの大きい気付きになって出てくる。本心開発。
本心が輝くすがたででてきてくれるから、これが大きい幸せと直結する。

一人ひとりが勉強会ごとに、幸せが大きくなっていかないと、偽物。
「今日の勉強会、つまらなかった。」と言うのは、思いの心。本心の心だったら、そういう言い方はできない。
常に幸せが大きくなるという勉強を、本心だったらするはず。勉強会ごとに幸せが大きくなった、と言わないと。
それで、神さまの気付きが増えたと言わないと。実際それを言葉にしないと、また神さまの助けを否定したことになる。
拒絶したことになる。

実際、プラスに言葉を使う限り、その言葉通りに実観が伴ってこないと、損をする。
だから、実観が伴うように支え合う。本当に支え合うという気持ちでした時は、必ず、神さまが降り立って、実観を添えてくる。
だから、どれだけ実観を与えてもらうか。支え合いがどれだけ支え合いが出来ているか、これで決まる。
だから、支え合いの心で、神さまの心を知る、神さまの御心をとらえる勉強。
これが出来たら、本当に幸せを大きくする勉強、楽しい勉強になると思う。

(平成27年8月15日のお話②)