新たなる全徳の無限の無限の輝きと言うけど、なぜ、無限の無限のって重ねるのか。
重ねる意味を本当に深く捉えないと、わからない。なぜ、無限だけではダメなのか。なぜ、もう一つ無限を重ねるのか。
新たなる全徳の無限の無限のって、なぜか?

まず、入れ子構造は、「無限の無限」って付く。一番大きい一段階でも、無限って広がる。これが、無限の段階だったら、無限に広がる。
必ず、無限の無限になる。一番下もそう。無限の広がりがある。それが、無限の段階だったら、無限の無限。
入れ子構造が無限の無限。重層構造もそう。1つのものが無限に広がっている。それが無限に重なる。
全部、波が違うから、無限に重なった波。だから、無限の無限。重層構造もそう。異次元構造もそう。
無限の次元があるから、一つの次元が無限に広がって、無限の次元があったら無限の無限。これもそう。

 ところてん式もそう。もうずーっと隙間なく、連なっている。奥にずーっと。無限に連なっている。今、無限に表れている。
奥にずーっと、無限のものが連なっている。無限の無限。ところてん式がそう。無限のスピードって、これもそう。
今、無限のものがあって、一秒で無限の変化が起こる。無限分の一秒で起こったらそう。無限のスピードっていうのも、
無限の無限の意味。一瞬一瞬新たに、という言葉もそう。一瞬って、無限の一秒かもしれない。
常に、新たに新たにというのが、無限の無限の意味。時間的に隙間なくというのが、間断なく。空間的に隙間がないのが間隙なくという。
どっちも無限の無限。一大瀑布もそう。大瀑布というのが、無限の大瀑布という。これが無限。
これが一大になったら、一大瀑布が無限になる。無限の無限の降り注ぐ姿。これは全部、無限の無限を表している言葉。
それが無限に無限に一杯。

自分一人でも、無限の無限のものを感じる。これが自分一人ではない。まず、無限の人がいる。だから、無限になってしまう。
時間も、過去の自分、未来の自分、全部、無限の自分がいる。時間を自由自在に動けたらそう。過去にさかのぼり、未来に先回りしてって、
全部把握できたら時間も無限にある。だから、それも無限に一杯となる。単に浅い言葉の意味ではない。
いくら言葉で深く捉えても、まだ違う。

本当の真の神さまの働きは何か。神さまが自分を通り抜けて、働いてくれなかったら、実感できない。
どうしたら実感できるか?本当に神さまを恋い慕うっていう、本当の永遠の恋人みたいに、どこまでも恋い慕うくらいの気持ちがなかったら、
心を神さまからそらしてしまう。虚の世界に心を向けているようだったらダメ。一番大きい、一番新しい真の神さまへ心を向け続けないとダメ。
一番大きいものに背を向けて、一番小さいものに心を向けている。虚の世界を見ているってそう。
大きいプラスがあるのに、一番小さいマイナスへ心を向けている。これは、誰がしているかって、自分がしている。

本当に真の神さまと一対一の関係に置いて、神さまだけをと言うのだったら、本当に真の神さまだけと言うのだったら、
これを徹底しないと、ウソって言われる。一秒でも忘れたらダメ。一瞬でも忘れたらダメ。
本当に真の神さまだけ、真の神さまだけ、ありがとうございますを与え続けないと。24時間+α、ありがとうございますを与え続けて、
やっと神さまに心を向け続けて入れる自分。そしたら、周りから全部、無限倍の支えや応援が来る。
絶対途切れることのない真祈りが流れてくる。鳴り響く。湧き上がる。そしたら、真祈りを祈れる自分。
一番幸せな無条件の幸せが一杯の自分になる。真祈りの伝授を受けた、悟った自分に戻る。

だから、自分が何を相手にしているか。虚の世界を相手にしているのか、マイナスを相手にしているのか、
そんなこと一切無視して、真の神さまだけを、それも本当の真の神さまだけを相手にしているのか。
たくさんの中から一つを選ばなかったら、選んでいることにならない。漠然と何でも受け入れているようだったら、選んでいない。
虚の世界が一番大きくても、真の神さまを選ばないとダメ。真の神さまだけなのに、虚の世界を選んでいるようだったら、正反対。
どれだけ真の神さまを無視しているか、拒絶しているか、神さまの心を傷つけて、痛めつけているかとなる。
一番神さまを悲しませている。自分がきちっとしないと。自分が真の神さまをしっかりと受け入れたらいいだけ。
そしたら、幸せな本心の自分に成る。神さまを無視して、拒絶して、全く受け入れなかったら、我の自分、地獄に落ちた自分。
どっちを選ぶか。自分が選ぶしかない。人は無関係。他は無関係。自分が選ぶかどうかだけ。

  真の神さまがどれだけ愛深いかって、気付くだけでいい。普通だったら、拒絶されて無視されて罵倒されたら、もう助けになんか行かない。
勝手にしなさい、で終わる。ところが、真の神さまは、それをしない。何をされても、とことん助け続けている。
自分がどれだけ傷ついても、助け続けている。

そしたら、自分が地獄に落ちた人を一人、自分の縁者がいたら、助けに降りてみたらわかる。
一人の地獄の亡者を救うのに、自分がどれだけ大変な目に合うか。お祈りできるまで助け続けてみたらわかる。無限の年月がかかる。
どれだけ、そこへ行くまでに自分が苦しまないといけないか、大変な目に合うか、半端なものと違う。
そしたら、神さまに文句なんか言えるものと違う。どれだけ神さまが愛深く、忍耐強く、自分を護り続けてくれているか。
支え続けてくれているか。神さまは寝ていない。24時間ぶっ続けで、寝ないで、全部マイナスの尻拭いを全部しながら、助け続けている。
そしたら、自分が何かしているかなんて、絶対言えない。神さまは全部尻拭いして、マイナスを全部消し続けて、助け続けている。
「自分が何かしている」とか、「自分がした」とか言えない。我なんか絶対出せない。

100%神さまがしているのではない。1000%、1万%、1億%、1兆%、無限%、神さまが全部する。
この世の人は、100%で全てだけど、神さまのすることは、どこまでも奥深いから、無限%。人の知らないところで、
大きい働きをずーっとし続けて、支え続けている。それでなかったら、借金なんか減らない。みんなが借金を減らすと言って、
まだ無限の借金を抱えているというのは、神さまがその無限倍を消し続けた後の残りちょっとだけ。
無限の借金が残っていると言ったって、本当は、無限の無限倍、借金が残っているのが本当。ところが、その無限倍を先に消している。
無限分の一にしたのが、無限に残っている。

この世は違う。万分の一、億分の一に軽くして、消している。この世のマイナスが大きいのではない。
万分の一、億分の一しか出てないのを大層に言うだけ。どれほど罰当たりかって、考えたらわかる。神さまの愛の凄さがわかる。 そしたら、神さまのするお手伝いって、ありがとうございますを一心不乱に唱え続けて、真の神さまをどんどんどんどん前へ与え続けて、送り出す、
加速するお手伝い。一大循環の加速のお手伝い。自分が何かするのと違う。神さまを送り出す、加速するお手伝い。これが、真祈り。
自分が出てきたらダメ。人が出たらダメ。神さまだけが前面に出て、虚の世界を消し、マイナスを全部消してくれないと、神さまの世界に戻らない。
そして、真の神さまだけって断定する、断言する。どこにも真の神さま以外にない。

本当の一人神、独在神。真の神さま以外に何も無いのが本当。自分や人が出てきたらおかしい。ここに虚がある、マイナスがあるっておかしい。
真の神さまだけ。それも無限に無限に大きい、プラスだけの真の神さまだけ。そしたら、ありがとうございます一言に戻る。
ありがとうございます、ありがとうございますって、呼吸のように唱える祈りに戻っていくはず。
一大循環の流れのままの、ありがとうございますになる。

真祈りは、真の神さまの呼吸。一大循環の流れが真祈り。自分が祈るのは、真祈りとは違う。
自分が無くなって、神さまの祈りがそのまま流れてきたら、絶対奉仕の真祈りの祈り。護摩木を書くのも、自分が祈って書いているのは、偽物。
神さまの祈りがそのまま、宇宙船になり、護摩木になって、現れてくるのが、神さまの祈りの真祈り。それが神さまのお手伝い、絶対奉仕。

だから、真の神さまだけを思いつめる。これが、正しい自分を見つめる生き方。真の神さまだけが自分。その他に何もない。
真の神さまだけが、本当の自分。他は全部、過去の残像、偽物。残像を相手にしていたら、これが本心の自分。
それ以外、本当の自分はない。その自分を逃したら、みんな偽物。

(平成27年7月25日のお話④)