真の神さまだけっていうのが、本当の真祈り。ただその中身が、本物かどうかってこれだけ。
一番新しい、一番大きいすがたで、常にとらえること。本心の自分っていつも、絶対の中心から新たに出てきた
自分だけ。過去の自分は、みんな偽物。思いの自分、我の自分。絶対の中心から新たに出てくる自分だけが、
本心の自分。それも、一番新しい一番大きい自分が、真の本心の自分。真の神さまと離れたものは、偽物ばっかり。
真実ではない。鏡に映る偽物。錯覚。幻。蜃気楼みたいなもの。そんなの偽物ばっかり。
鏡に映るのも、色眼鏡を通すのも、全部偽物ばっかり。

それで、正しく真の神さまの全体を言葉にして受けて、そして与え続ける。与えて与えて、与え続ける。
無限に無限に一杯、与え続ける。そしたら闇が消えて、虚の世界が消える。虚の世界の問題を解決するためではない。
光で埋め尽くすだけ。真の神さまで、埋めて埋めて、埋め尽くすだけ。無限のスピードで、祈って祈って、
祈り続ける。どこにも真の神さま以外のものは存在できないようにしてしまうだけ。これが真の祈り、真祈り。

虚の世界の求める、受ける、与えるお祈りではダメ。そんなのでは闇を埋め尽くすことはできない、
消すことは不可能。真の神さまを与えるのでも、一回ではダメ。無限に無限に一杯、与え続けないと出来ない。
一切の闇を無くしてしまう。だから与え続けるだけの真祈りが必要になる。

虚の世界の話だけど、天の岩戸開きってある。一回闇が生まれて、天照大御神様が奥に引っ込んだらそう、
顕界という光の世界に引っ込んだら、闇がそのまま。だから闇が残っている。
そこへ天照大御神様を引っ張り出したら、呼び出したら、闇が消えていく。そこへ天照大御神様が大きく降り立ったら、
闇が消える。光だけの世界、光一元の世界に変わる。

その後に注連縄、しりくめなわっていう円環の輪を張る。注連縄というのは、天照大御神様のすがたなんだけど、
この注連縄の中が、闇の世界。小さいから。その闇の世界を光り輝かせたら、縮んで一点になる。
注連縄の中に絶対入らない自分に成ったらいいだけ。闇の世界に入らなくなったらいい。そのための注連縄。
今の世の中は反対に見ている。結界って、中が光で、外は闇の方に錯覚している。解釈が正反対。
神さまは無限に光を放射する方。注連縄、しりくめなわ、これが天照大御神様で全方向に光を放射する。
無限に無限に一杯。これが顕界の、光の世界のすがた。

その闇を無くしたら、光源だけがあって、全方向に光が放射される。闇が消えて、光だけの光一元の世界が
そこに生まれる。虚の世界でもそう。そしたら真実の世界から虚の世界を消す方法は何か。

真の神さまを、大きく与えていく。真の神さまの分身、入れ子構造の天照大御神様。この天照大御神様を、
虚の世界に与えて与えて、与え尽す。そしたら虚の世界の顕界という光の世界も、大きい光の世界に変わる。
幽界という闇の世界も、もう一つ大きい光の世界に変わる。

どれだけ真の神さまを、天照大御神様の入れ子構造のすがたを、大きく大きく与え続けるか。
それによって虚の世界も消える、真実の世界に置き換わる。本当の一大循環の、完璧な一つの世界になってしまう。
これを本心の自分は、本当は目指している。本心の自分の真祈りの生き方はそう。
虚の世界を変えようなんて思っていない。本当の一大循環の世界にしてしまうのが目的。
真祈りを祈って祈って、循環を加速するだけ。流れを無限に無限に速くする。どこまでも早くする。
必要なものが即座に与えてもらえる世界に、変えてしまう。

そしたらよくわかる。本心の自分とは何か、本心の自分の目的は何か、願いは何か。
どういう生き方をしたらいいのか。真の神さまのお手伝いは何か。本心の自分が質問を発するのは、
神さまをしっかりと理解して、とらえて、再確認するため。その質問に何か言葉で答えてもらうのとは違う。
質問を発した時に、神さまが降り立って実感させてくる。神さまと自分との差をとってくれる。
悟る、悟って(差をとって)くれる。一体感をそのまま与えてくる。これが答え。
本心の質問に対しては、神さまが答えとして降り立つ。

だから常に神さまは自問自答する。自分が質問を発して、自分が答えとして降り立つ。だから本当に実感する。
これが思いの心だったら、知識として質問を出して、言葉で教えてもらって、ああわかったなって、
ちょっとわかったのでは、何もわかっていない。何の実感もない。真の神さまと一体感なんかない。
思いの自己満足だけ。これはもう偽物、ダメ。

だから本心の自分が一番謙虚、素直、真剣。真の神さまに降り立ってもらった時はそう。
真の神さまの全体像の凄さがいやというほどわかる。無限分の一になっただけでも、どれだけ小さくなったかって
わかる。そしたらもっと入れ子構造的に下に降りたら、どれだけ今の自分が小さいか、
その自分と真の神さまを比較したら、自分なんか存在できない。だから自分という我は出せない。
自分がなんて絶対言えない。本心の自分ですらそう。本当は一番末端の小さい天照大御神様でも、
虚の世界の全体よりはるかに立派。入れ子構造の大きい天照大御神様をとらえた自分だったら、かなり上。
でも、この上に上がる自分ほど、真の神さまの前に立ったら、謙虚に謙虚にへりくだる。
微塵も我を出さない、出せない。真の神さまの凄さに圧倒される、ものすごい凄さに圧倒される。
本当に微塵も我が出ない。そこまで真の神さまを大きくとらえないと。
どこまでもどこまでも、大きくとらえること。

これもどうしてとらえるか。祈り言葉を唱えることが、神さまへの質問。例えば、「入れ子構造的に」と
言った時に、入れ子構造という質問。その時、真の神さまが入れ子構造に降り立ってくれる。実感させてくる。
「重層構造」と言ったら、重層構造の凄さを目の当たりに感じさせてくる。
「異次元構造」と言ったら、無限の次元のある世界をサーッと出してくる。真の神さまが降りて、実感させてくる。
「全方向から」って、これも実感させてくる。「無限のスピード」って、ものすごい事。
五感や六感の感覚では、全然わからない。これも、真の神さまが降り立って、実感させてくる。
「ところてん式」って、ところてん式も、この世のところてんではない。
本当に隙間なく、無限の力で押し出してくる力。これも全方向から全部そう。
全ての言葉が本当に、一体化した言葉。どれだけ凄いか。その言葉を質問として出した時に、
神さまが降り立って、実感を与えてくる。それで、何回も何回も祈り言葉を繰り返す。
真剣に、命懸けで、神さまに問いかける。神さまが降り立ってもらったら、実感が降りて来る。その為の祈り。



(平成27年7月18日のお話②)