まず本心の自分と思いの自分の違いをはっきりさせる必要がある。

本当の自分、偽の自分。真実の自分、虚偽の自分。例えば、鏡に自分のすがたを映した時に、
鏡に映るすがたは虚、偽物。いくら映っていても、見えていても、感じてもそう。実物とは違う。
虚の自分は、どうして生まれるか。真実の自分だけが本物。だから神さまのすがたを受け直した自分、
真の神さまが真の自分って受け直した自分だけが本物。鏡に映ったのは偽物、虚の世界は全部偽物。
自分ではない。本心だけが自分で、思いは偽物。自分ではない。

そしたら虚の世界はどうして生まれるか。ちょうど闇を見た時に、ガラスでも鏡になる。
闇を向いた時に、虚が生まれる。そしたら闇はどうして生まれるか。光を与えて与え尽したら、闇は無い。
ところが光の与え方が足りないと、自分の前が闇になる。真の神さまを大きく大きく与え続けないと、
自分の前に闇が現れる。その時に、自分のすがたが鏡に映る。それが虚のすがた。
その虚のすがたを見て、これが自分とつかんだら、つかんだ自分が思いの自分。
虚の世界にはまり込んでしまう、思いの心はそう。虚の世界にはまり込んで、抜けられない。
でもそれは、本心ではないから、自分ではないから、本心はいつも神さまの世界にいるから、
心の向きだけを神さまに向けたらいい。だから光の方に向いたら、闇は消える。
光をたくさん与え続けたら、闇は消える。だから神さまの方に心を向けることと、神さまの光を大きく大きく、
与え続けること。

そしたら本心の自分だけになる。そしてもう、一番根本の大事なこと。真の神さまはどういうすがたか。
どれだけ大きくとらえるか。この真の神さまを大きくとらえるほど、本物になる。
どれだけ真の神さまの全体をとらえるか。無限分の一では、小さい自分に成ってしまう。
無限分の一をとらえて、光を与え続けても、与え方が足りないだけ、闇が目の間に出て来る。末端に行くほどそう。
だから、真の神さまをどれだけ大きくとらえるか。これが一番根本の一番大事なこと。
そしたら真の神さまとは何か、真の神さまの全体像とは何か、しっかり言葉で定めないとダメ。

護摩木に書く言葉、真の神さまは一大循環の相象で、厳然と今ここに在します。
新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!そして真の神さまだけ!と定めている。
これも相当言葉を省略して、簡単に現わしているけど、これは本心の自分だったら、一を聞いて十以上悟る。
一を聞いたら百、悟るかもしれない。本心の自分だったらそういう生き方をとる。
だから沢山の言葉を聞いたから、わかるのではない。本心は常に、一つを聞いたら神さまの心を汲み取ろうとする。
神さまの心の全部を汲み取ろうとするから、一を聞いて万を、億を、悟るかもしれない。
少なくとも、本心の自分だったら、一を聞いて十を悟るはず。

だから言葉が足りないからどうのこうのは言わない。言葉がなくても、汲み取ろうとする。ぱっと観(感)ずる。
神さまは何を願っているか、何を必要としているか、言葉なしで感じるはず。それが本心の自分。
本心は、常に真の神さまだけを相手にする。真の神さまの願いだけを生きようとする。
真の神さまが必要としているお手伝いだけを、しようとする。だから神さまの御心をしっかりとらえようとする。

自分が今、どれだけ真の神さまを正しくとらえているか、大きくとらえているか。これが一番大事な問題。
真の神さまは、絶対の中心、一番大きい立場から全ての全てに、これは本心の全ての全てに、
真の神さまを、全体像を、これも一回きりではないから、無限に無限に一杯、与え続けている。
そしてそれを循環させて受け続けて、繰り返して、与え続け、受け続けを同時にして、与えるのと受けるのを同時にして、
循環させ続けている。それも無限のスピードで。

そして絶対の中心から入れ子構造で、重層構造で、異次元構造で、全方向から、無限のスピードで、
一瞬一瞬新たに、時間的・空間的に全く隙間なく、間断なく間隙なく、本当に一大瀑布のように、
新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯、こういうすがたで降り注ぐ。これが真の神さまの全体像。

そしたら、一段階落ちたら無限分の一。入れ子構造の一段階落ちただけで、無限分の一。
二段階落ちたら無限の無限分の一。小さくとらえて真の神さまとは言えない。爪の先の垢ほどのものをつかんで、
ああこれがこの人だって言ったら、笑われる。真の神さまと言う限りは、絶対の中心から現れる、一番新しい、
一番大きいすがたがそう。一番大きいすがたの中に、真の神さまの全てがある。全ての全てが中に、実在している。
そこにすべてがある。

だから一番新しい一番大きい真の神さまが、独在する神さま。一人存在する実在する神さま。それ以外は違う。
どれだけ立派な神さまが、一杯真実の世界にいるからって、部分の小さい神さまではダメ。
一番新しい、一番大きい神さまだけが、真の神さまとして独在する、ただ一人存在する。
それをしっかりとらえて、真の神さまだけって断言して、祈る。それでないと、真祈りとは言えない。
真の神さまを小さく落として、いくら祈ったって、真の神さまを馬鹿にしているだけ。

仏教で仏を誹謗したら、地獄に落ちるという。仏のことを悪く言ったら、即地獄に落ちるという。
そしたら真の神さまを小さく落として見て、これが真の神さまだ、って小さいものを真の神さまと言ったら、
大きいマイナスの言葉。即、虚の世界に転落。即、地獄に落ちる。なぜか。
悪く言いながら助けを、支えを受けるわけにいかない。悪く言ったからそれが原因で落ちるのではない。
元々落ちるのはわかっている。地獄に落ちる自分が、神さまの支えで食い止めてもらう。
この支えがなかったら落ちるのは当たり前。悪口を言ったから、それが原因で地獄に行くのではない。
悪口を言うことで、支えを、助けを、自分が拒絶したことになる。自分で受け取らない。
悪口を言って、人の助けを受けられない。それが原因。虚の世界に転落するのも、地獄に落ちるのも同じ。

そしたら真の神さまをどれだけ大きくとらえるか。どれだけ大きく言葉にするか。最高に、褒め称える必要がある。
言葉だけでも。この護摩木に書く言葉は、ちょっと省略しているけども、本当はもっと沢山、いい言葉を沢山連ねて、
褒め言葉として一杯使った方がいい。ただそれが長すぎると、知識としてとらえるけど、本心の智恵としてとらえない。
たくさん並べたら、知識としては覚えている。だから思いの心でも、知識として覚えて、真似はする。
でも本心の生き方とは違う。本心の生き方は、少ない言葉で汲み取らないとダメ。それでわざと少なくしている。
どれだけ汲み取って書くか、祈れるか。

だから真の神さまを本当にとらえようと思ったら、最高の言葉を無限に連ねても無理。
そんな無限の言葉をずーっと唱えて書くなんてできない。忙しい(笑)。
だから本当はありがとうございます、一言でもいいんだけど、それだとあまりにも中身が無くなったら困るから、
ちょっとだけ残している。それで真の神さまを大きくとらえたら、そのとらえた分が、真の神さまが真の自分。
本当の大きい本心の自分。その時、受けたら即、与えている自分。全体を支える自分。
もう一つ大きく見たら、支え合う自分をそこに現わすことになる。神さまの世界は、与えると受けると同時。
同じ。与えて、空っぽのところにまた補充してもらって、という、こういう区別はない。同時。常に同時、一つ。
与えると同時に受けている、受けると同時に与えている、それが循環のすがた。



(平成27年7月18日のお話①)