(答えを考える上で)一番難しいのが、やっぱり真の神さまとは何か。
あまりにも大きすぎるから、どの程度にとらえるか。自分が受けただけの程度になっていく。
本心ですらそう。真の神さまをどうとらえて受けるか。受け方に応じて、段階が変わる。
それがどんどん小さくなっていくと虚の世界にもなっていく。

一番大きい受け方はどこにあるか。ちょうど群盲象を評すっていうことわざがある。
一匹の象を、お腹を触って壁だって言う。足を触ってビア樽だ。鼻を触ってホースみたいだ。
これは全体を見ていない。全体を見なかったら部分を見ている。
そしたら象っていうのをどう表現するかって見たら、部分を触って表現したって、象を表現していない。
象の一部だったら、象にはならない。真の神さまって、象よりも遥かに遥かに、無限に無限に大きい。
そしたら真の神さまの全体をとらえないと、真の神さまって言えない。

絶対の中心から、新たに今現れた真の神さまの大きさは、ものすごい。言葉では表現できないくらい、大きい。
それが一段階降りたら、無限分の一になる。無限分の一になった世界なんて、表現したらないのと同じ。
一段階降りただけで、それを真の神さまってつかんだら、真の神さまを何も表現していない。
無限分の一つかんで言っているだけだから、真の神さまではなくなってしまっている。
それがどんどん小さく小さくなっていったら、そこに真の神さまがいるかどうか。いない。

そしたら真の神さまだけって言っている言葉が、どうなるのかってなって来る。
本当に、どこまで真の神さまをとらえているか。真の神さまだけって断定する言葉を使いながらもまだ、
中身が違う。言葉だけになっているかもしれない。だから、虚の世界から真の神さまを、
ずーっと探し求めて把握していこうと思ったら、虚の世界をまず無限倍にしないと、真実の世界に入れない。
そこからもう一つ無限倍といっても、一段階上がるだけ。それを何回も無限倍・無限倍にしていって、
絶対の中心に近づこうとしたら、真の神さまって遥か無限に彼方。
どこまで行っても、まだ真の神さまの無限分の一も、とらえられない。

そしたら真の神さまだけと言っている言葉が、全部嘘になって来る。中身がないから届かない。
下から追いかけても無理。一番最初の絶対の中心から、今新たに降りるのが、真の神さまの大きいすがた。
一番大きいすがたが、順番に段階を落として小さくなっていくというのは、受け方の見方。受ける方の見方。

一番大きく受けた中、一番最初の中に、全部完璧に収まっている。大きいのが小さくなっていくのと違う。
大きい中に、無限に小さいものまで全部完璧なすがたで、入れ子構造で収まっている。
大きいのが順番に変化して小さくなっているのではない。大きい中に、全部ある。
完璧な一つとして、最初に全部備わっている。大きい中に全部。全ての段階の すがたが全部。
完璧なすがた、入れ子構造のすがたで、一瞬にサッと現れている。それが真の神さまの全体像、完璧なすがた。
それが一瞬一瞬、新たに新たにって置き換わるけど、一瞬一瞬置き換わるのが、完璧な真の神さまのすがた。
一番大きく受けたらそう。真の神さまだけ、真の神さまだけって、一瞬一瞬受け直せる。

でもそれが一段階下に落ちた受け方だったら、無限分の一になるから、小さく受けているだけ。
もう一つ無限分の一小さくなって、どんどん小さく受けているだけ。
虚の世界に入ったら、もう一つ残像を小さく受けている。受け方が、無限の段階がある。

真の神さまは最初から一つ。絶対に変わらない。真の神さまだけって、断定して祈る限りは、
一番最初のおおもとの絶対の中心から、一瞬一瞬新たに出てくる、最高の完璧なすがた、
一つのすがたをしっかりと認めること。それが全て。これが本当の真の神さまのすがた。
これをしっかりと認めたら、真の神さまだけっていう祈り。そしたら、どんな奇跡でも起こる。
虚の世界をどんな風に変えるのも、一瞬で置き換わる。

本当の大きい真のプラスだけの世界には、マイナスなんか何もない。無限に小さいものでも大きいプラス。
完璧な本当のプラスばっかりの本当に素晴らしいすがた。これを本当に実感できるかどうか、受け取れるかどうか。
本当はこれを受け取るために、真祈りを祈りに祈る。
本当に真の神さまへ心を向けて、祈りに祈って受け取ろうとしている。ありがとうございますの一言、
真の神さまと出会うために、真の神さまの全てを受け取るために、 本当に実感するために唱え続けている。

一大循環の相象ってものすごい事。絶対の中心から全ての全てに、真の神さまを無限に無限に一杯与え続ける。
与えることが即受けること、受けたら即与えている、これが循環。一番大きく与え続けて、一番大きく受け続けて、
一瞬一瞬変化している、これが循環のすがた。受けてから与えるのではない。与えたから受けるのではない。
受けると与えるが同時。これが、真の神さまの一大循環の相象。これが無限に大きい入れ構造のすがたから、
一番無限に小さい入れ子構造のすがたまで全部、本当の一大循環の相象をとっている。
その全体が、真の神さまのすがた。小さい部分がどうのこうのではない。全体が真の神さま。

 真の神さまだけっていう言葉が、どれだけ大きいプラスの言葉か。中途半端ではない。無限に無限に大きい、
これでもまだ足りない足りない。無限を無限倍してもまだ足りない。もっと無限倍無限倍になる。
そのくらいの大きいプラス。だから本当に真のプラスしかないと断定できる。

そこまで本当の中の内実のある、中身のある言葉を使っているかどうか。ここも必要な大事なところ。
空念仏か中身があるか。同じ積み重ねにしても、中身がある言葉の方が、力がある。
空念仏は籾殻、中身が無かったら空っぽだったら力がない。だから思いの心だったら、過去をつかんでいる、
残像の殻だけをつかんでいる、空念仏のすがた。本心は違う。中身をとらえようとする、
新たに新たに、中身を濃くとらえた祈りをしようとする。大きく全体まで行かなくても、
より大きく深くとらえようとする。

真の神さまにすがるっていうのは、どの辺にすがっているのか。本当に真の神さまにすがっているのかどうか。
虚の世界のすがたにすがっているようだったら、どれだけプラスって見ていても、真の神さまなんてそこにはない。
虚の世界に現れていたものを真の神さまなんて言っていたら、神さまを馬鹿にしている。
虚の世界って見ていること自体が、残像の思いの世界。神さまではない。
いくら完璧と言っても、小さい完璧なすがただったらそれでも神さまではない。
一番大きくとらえて、中身が本当に完璧なすがたで一杯に成っているすがたじゃないと。
それが全部、真の神さまのすがたってとらえられてこないと。

この神さまの全徳のすべてがそういう風になっている。本当の祈り言葉ってバラバラではない。
神さまの全徳、沢山の徳性があっても、その祈り言葉を唱える時、バラバラに見るのは思いの心。
本当に一つに見るのが、本心の心。

例えば愛という風に祈り言葉をとらえたとしたら、愛というのは、どういうすがたで、祈りが現れるか。
愛という祈りのバックが、他の全徳が全部あって、それに支えてもらった祈り。
愛が表面に出ている、そのバックが他の全徳。全てに支えられたすがたの愛っていう祈り。
愛っていう祈りだけが出てくるのだったら、虚の世界のバラバラの、偽の祈り。
他の全てに支えられた愛っていう祈り、それが本当の祈りのすがた。

他の徳性の祈りも全部同じ。他の全てに支えられた祈りだから、本当の力のある祈りのすがた。
それでいて全て循環する。自ら回転する、自転する。一つの祈り言葉自体が、大きいらせんを描きながら、
自分も自転して回転しながら、舞い降りてくる。

そうすると、今、表に出た愛と言うのが、次の瞬間、隠れる。他のが表に出る。
ちょっと回転するだけでそう。表が全部入れ替わる。一瞬、表に出るのは、愛という言葉かもしれない。
他の時間はほとんど、他の徳性が出てくる。それでも、愛というものを順番に繋ぎ合わせていってとらえたら、
愛という祈りが、大きく支えられながら、浮かび上がってくるすがたの愛と言う祈りになる。
だから、時間的にも空間的にも、全てに支えに支えられたすがたで、愛と言う言葉が浮かび上がる。
他の徳性も、全部同じように浮かび上がる。それが一大交響楽の響きになる。

虚の世界は、全然違う。小さくとらえて、バックがない。愛なら愛という一つだけ、ポツンとある。
他の徳性、全部バラバラでポツンとある。それを寄せ集めたって、何にも支えてもらってない祈り。
支え、支え合いのない祈り。そしたら、我の出し合いの祈りになる。強い方がのさばる。
弱い方が引っ込む。調和なんかとれない。支え合いがないから。そういう祈りだったら、我の祈り、
念力の祈りになる。同じ言葉を使っても違う。本心は、一番奥の大きい支えをとらえるから、正しい祈りになる。
我の心は、支えを何も受け取らない。同じことをしていて違う。正反対のものになっている。
同じ一つの祈りも同じ。ありがとうございます、一言でもそう。全部束ねる祈りだから、大きい。
こういうのは、我の祈りになる。そういうとらえ方ではない。

本心のとらえ方は、そんな浅いものではない。一つのありがとうございますの中に、
入れ子構造のありがとうございますが、厳然と在る。その一つのありがとうございますが、
新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!という、全てを表現する祈りとしてある。
そしたら、一言のありがとうございますの祈りが、どれだけ大きく深いものか。大きい小さいではない。
どれだけ大きい支えがあるか。本物は、真の神さまの大きい支えによって、生まれて来るもの。
末端の残像のバラバラのをくっつけるのと違う。バラバラのものをくっつけたって、一つにはならない。
元からある大きい一体の一つのものをらせんで降ろしながら、自転で回転させながら、
全てを調和させて響かせてくる。これをどうとらえるか。同じ言葉で言っていても、
本心のとらえ方と思いの我のとらえ方が全く正反対。同じことを言っている。同じことを言っていて、違う。
正反対。

(平成27年7月11日のお話②)