これからの勉強会は、真の問答集を作るための勉強会にしていきたい。
本心の自分が質問を出して、本心の自分が答える。本心の自覚を深めていく勉強。
過去をつかむ我の思い、 我の自分では、どんな質問を出しても、本当の答えは出てこない。
本心側に立って初めて正しい質問が出て、その質問に対する答えが即座にスッと降りる。
それが、本心の自覚を深くしていく。だから色んな質問が出ても、それが本当の本心の質問かどうか、
点検する必要がある。本心の質問だったら、神さまの智恵がスッと降りて、答えがサッと降りる。
本心の自覚を深めてくれる。神さまについての理解が深くなる。
今日はその第一回目として、手紙で質問してきた人があったんだけど、それについて一回みんなで
考えてみようと思う。

質問 「…真の神さま以外に頼ることはやめて、真の神さまだけにすがることだけに努力させていただいています。
病があっても完全健康に生きるよう完全完璧の自分を生きるよう、言葉を定めて祈っています。
そうしていますと、周りから健康に関する情報が、色々と集まってきます。
なかなかどれが正しいものかわかりませんが、すべて神さまのお蔭です、と感謝しながら試しています。
より良い方向へ、完全健康へ向けて進んでいるように思いますが、真の神さま以外に、頼っていることに
なるのでしょうか?すべて神さまのお蔭ですと受け入れれば、真の神さまだけに全託していることに
なるのでしょうか?」

ちょっと考えてみて、これが本当の正しい質問か、また本当の正しい答えになっているかどうか。

出た意見)

・本心の神さまの世界には病がない。その病があると認めて、病を克服するよう努力をしているというのが、
文章の中に見えるような気がします。
・病気はあるかもしれないけれど、それよりも神さまのお手伝いを最優先にして、神さまに捧げ尽くして、
神さまが降り立って下さった時に、病気は一瞬になくなるのではないのかと思います。

病気だけでなく、すべての問題に絡んでくる。同じ問題。どこまで深くとらえるか。
まず本心側に立っているかどうか。過去をつかむ思いの側か、新たに受け直す本心側か。
真の神さまだけっていう祈りが、どういう祈りか、浅い祈りか、深い祈りか、そのとらえ方も違う。
どの辺まで深くとらえるかっていうのも。
もし自分自身が、治らない不治の病気になったとしたら、その時どうするか、治そうとするか。
本当に真の神さまだけ、無限健康、完全健康だけって本当に祈れるか。どうしてその病気を消せるか。

本当に真の神さまだけって言いながら、本当に真の神さまだけにすがっているか、頼っているか。
他のものに頼っていないか。また、真の神さまだけって言いながら、マイナスまで真の神さまのすがたに
見ていないか。それが正しいかどうか、本物かどうか、点検する箇所が沢山ある。

もし、こういう質問が来た時にどう答えてあげるか。答え方も何を目的に答えるか、色々ある。
病気を治してあげたら良いって言うぐらいだったら、病気が治るようなアドバイスかもしれない。
本当の悟りを開くためのアドバイスだったら、病気なんて相手にしない答えになるかもしれないし。
どういう答えが正しいか。

一例としてのある人の解答

「まず何事も本心の側から考える。答えも本心からの答えでないといけませんが、
質問・問題も、本心からすることが必要です。本心からの質問か、思いからの質問か。
本心からの質問ということになりますと、願い・目的は、本心に戻ること、悟りを開くこと。
思いからの質問だと、例え神さまと呼んでいても、自分の思いや願いがあり、病気が治りたいとか、
○○したいなどの希望が心のどこかに含まれている場合が多い。完全健康と唱えていても、
本心からの完全健康は、本心が輝いていることが、完全健康であって、その現れとして肉体も光り輝き、
完全完璧なすがたをとっている、またはそれを目指して、一瞬一瞬新たに受け直していくすがたであって、
つかまない。思いの側からの完全健康は、肉体をつかんだもので、その肉体を神さまの力で完全健康に
置き換えようとしている、任せきっていないから、下から上に上がっていく生き方で時間がかかる。

答えはと言いますと、本心側からの答えも、いくつかの段階があるように思います。病気は自分のマイナス、
全部自分の責任、地獄のどん底に落ちているところをこんなに軽く済ませていただいて、何とありがたいか、
と喜べること、またこの病気は憑依なんだと少し離して見ることが出来る見方。
そして更に大きい見方になると、この病気は大勢の縁者の振り替えによるすがたであり、
神さまに使っていただいて、神さまの大きなお手伝いをさせていただいている、そうなると大きな喜びに変わる。
更に最近の勉強会のお話で、とてもすごいなと思ったお話がありました。(6月13日10ページの部分を紹介)…

受け方一つで、本当は大きく悟りへの道を歩ませてもらっている。とてもすごいことなので、
なかなか自分では何も問題が無ければ真剣になりにくいと思います。…質問が○○でしょうか?という
疑問形のところを、真の神さまだけと断定形にして、形が自然に移り変わっていくのをつかまずに、
ひたすら真の神さまと一対一の関係になっていくことが大切だと思います。
護摩の時のお話のように、無限のジグソーパズルを一瞬で作る、真の神さまの凄さを知れば、自分の力は何もない、
すべて神さまがして下さっている、と実感するのではないでしょうか。
実感して喜んでいることが、全詫に繋がっていくのではないかと思います。
そこに行くまでに、最初は肉体や心の苦しみで、眉間にしわが寄ることもありますが、
そのしわも伸ばして、明るい顔で無限の無限のプラスの言葉を駆使することから訓練が始まり、
その訓練をさせていただくことで、神さまの無限の無限の支えを実感することが必ず来ると思います。…」

どういう答え方をするか、みんな違うと思うけど、より正しい答えになるかどうか、その勉強。
問題がないと、何もわからない。理解が進まない。問題があった時に初めて、その理解が深くなる。
それがこの神さまを知る勉強、本心の自覚を深める勉強。問題はある方がいい。
質問が出てこないと、勉強にならない。それも深い質問がいい。難しい質問の方がいい。

神さまは、常に自分に対して自問自答する。質問を出して自分で答える。それは理解を深くするため。
全てを深く把握するため。本心の自分も同じ。真の神さまとは何か。何回も問いかけないといけない。
問いかけるごとに深く理解していける。一回で本当の答えが出るかどうか、わからない。全ての問題がそう。
真の自分とは何かっていっても、その質問に対してその時に出る答え、また次に発した時に出る答え、
みんな変化していく。人生の目的は何かって質問を出しても、すぐに最高のいい答えが出るとは限らない。
段階を追って順番に、その時にふさわしい、必要な答えになって来るかもしれない。
だから質問することは大事。その質問に対して、本当の答えを出そうとするのも、もうひとつ大事。

そしてその祈り方もそう。護摩木に、真の神さまは一大循環の相象で厳然と今ここに在しますって書いているけど、
真の神さまとは何か、一大循環とは何か、どの程度把握できるか、深く深く理解できているかどうかって、
大事なこと。

真の神さまだけっていう言葉には、どういう意味があるのか。本当に分かっているのかって、
本心の自分に問いかけないと。思いの心か本心の心かの違い。思いの心は小さくマイナスに受けている。
本心は、大きくプラスに受ける。同じ真の神さまってとらえても、正反対に受けていく。
だから本心の質問で本心の答えだったら、どこまでも大きく大きく、どこまでもプラスにプラスに答えて
いかないと、間違っている。ちょっとでも小さくなって、マイナスになったら間違っている。

言葉だけで分かっているつもりでも、本当に分かっているかどうか。
それが思いの心だったら、小さく、浅くになってしまっている。本心に対してだったら、より大きく、
深くなっていくはず。それも程度が色々。

(平成27年7月11日のお話①)