本心の自分でないと、真の神さまを受け入れることは不可能。だから本心の自分に立ち返って、
そこで真の神さまを受け入れる。本当に自分が無色透明の自分に戻らないと、
神さまの世界の無色透明が見通せない。本当の水晶のような、中が無色透明で、全部奥に姿かたちがちゃんとある。
入れ子構造のすがたが厳然とある。それを奥の絶対の中心まで、全部見通さないとダメ。
無色透明だから見通せる。見通す自分は、無色透明の自分でないと出来ない。
だから元は、一切の我のない、無色透明の自由自在心。これが本心の自分の定義。
この自分に立ち返って、神さまをしっかりと受け入れる、これが必要。

そしたら、この世の生き方なんか無関係。本当に本心の自分に立ち返って、神さまを相手にするのだったら、
この世の変化なんて、自然に移り変わって消えているだけのすがた。本心の自分がしっかりと生きたら、
真のプラスだけが降り注ぐ。全てがプラスだけに置き換わる。プラスが減って無くなるのではない、反対。
無限の無限のプラスが、無限に無限に一杯!っていう風に降り注ぐだけ。

だから、勇気を持って、本心の自分に戻ること。虚の世界は、捨てたら消える、無くなる。
でも本心の世界、本心の自分にとっては反対。自分を空っぽにすればするほど、神さまが流れ込む。
大きく流れ込む、循環する。だから与えることが即、受けることになる。
与えれば与えるほど、大きく受けることになる。プラスだけの本当の循環が起こって来る。
そしたら永遠の、本当の幸せが保証される。この世だけではダメ、この世の幸せなんて、儚い虚しいもの。
この一生が終わったら、何もなくなってゼロ。永遠の幸せをしっかりと把握しておかないと。

あの世へ行ったから幸せになるのではない。虚の世界を抜け出て、本当の神さまの世界に住める自分に
変わらないと、永遠の幸せは保証されていない。本心の自分に立ち返ったら、一切の問題は消えてなくなる。
消えてない。後は、神さまを深く、体感・体得する喜びだけが、待ってくれている。
神さまの理解が深くなればなるほど、幸せが大きくなる。神さまの支えが、どれだけ大きいか気づくほど、
幸せが大きくなる。

同じ虚の世界を眺めるのでも、本心の眺め方と思いや我の眺め方とは、正反対。
本心の自分だったら、虚の世界の一番下に立つ。地獄のさらに下に立つ。そこから、光一元、プラス一元に、
真の神さまだけを見つめる。そして、神さまの全てを受け入れようとする。
だから、マイナスの極で受け入れるほど、神さまのプラスの価値が増す。ただ、真の神さまだけを相手にする。
真の神さまだけしか見えない。マイナスの極に立っているから。途中、いい加減なものは見ない。
全部プラスに見える。

本心の立ち方は違う。常に、一番謙虚な心。プラス・マイナスの立場には立たない。
一番謙虚な立場に、立っているだけ。真の神さまを受け入れる為に。それも、全てを受け入れる為に。
もう、全ての段階を全部受け取るのは、一番下。自分の立場が上だったら、上のすがたしか受け取れない。
絶対の中心からは全てを与えたらいい。その全部を受け取るのだったら、一番下から受けないとダメ。

本心の自分は、自由自在心だから、同時に絶対の中心に立ち、同時に一番下に立つ。立場が変わらない。
同じ立場にいる。絶対の中心と一番虚の下のマイナスの極とを、同じ立場に見ることができる。
極端に離れたものを、一点に見る。そこで与えて受ける。自由自在心は出来る。上下は無い。
与える・受けるが、分かれていない。同時に両方一つになる。だから、虚の世界があるから、
マイナスに引っかかるということはない。常に、真の神さまだけ。ただ、真の神さまの凄さを、
入れ子構造で見通すだけ。一番幸せな受け方になるだけ。これが真の本心の自分に戻るだけで、出来るようになる。

我が、思いがあるから出来ないのではない。反対。本心の自分を生きないから、我が残されている。
思いが残されている。それだけの話。何も無いよりは、ちょっと残像でも残した方が良いだろうという程度。
本心の自分は、いつでも生きられる。元々本心の自分が、自分にとっては全て。その他に自分はない。
思いの心は、色んなものをつかんで、これが自分と言うけれど、これは、みんな偽物。
本心の自分だけが、本当の自分。思いの心でつかむ自分は、みんな偽物だから、自分ではない。

だから、全てを受け入れる。真の神さまの与えてくる、全てを受け入れる。これが本心の自分。
それで、真の神さまの全てを与え尽くす。与え続ける。これも本心の自分。本心の自分そのもの。
全部自分。真の神さまが真の自分という、本心の自分、これが全て。その他に、自分はどこにもない。
虚の世界に無限の次元があって、自分の分身がいるなんて、間違った考え、錯覚。
真の神さまとしての自分だけがある。それだけが厳然とある。実在している。
これもやっぱり、言葉で定めないとわからない。言葉通りに感じる、実感する。
つまらないマイナスの言葉を使ったら、虚の世界に転落する。それを感じ取る。それも言葉通り。

だから、もう一回、ありがとうございますの16項目を本心の心で見直さないとダメ。本心の16項目も同じ。
本心の心で見直したら、深い理解が進む。全然、理解の仕方が変わると思う。
真の問答集をこれからみんなで作ってもらうというのも、その勉強。

本心の世界は、質問が即答え。分かれていない。質問と答えが分かれない。質問したら、即、答えになる。
本心の質問は、即、答えが出てくる。神さまの世界は、そう。いつも自問自答。
理解を深めるためだけの働き。真の問題集をしっかりと作り上げたら、神さまの理解が、深く深くなって、
一体感が進む。その為の勉強になる。だから、しっかり本心の側に立って、もう一回勉強し直す。
それが本心の自分の自覚を大きく深めることになる。それで、幸せを大きくする。
気付きがどんどん増えると思う。

それで、神さまの支えも無限に無限に一杯って、よくわかる。もう既に与えられている、
支えられているって気づく。これから支えてもらうのでも、与えてもらうのでもない。
もうすでに与え続けてもらっている、これに気付く。今まで気付かないのは、思いの側に立ったから。
本心側に立って勉強したら、すぐに気付く。一大循環の相象に気付いたら、
その時に真祈りの伝授を受けたことになる。真祈りが、一大循環の相象そのもの。
必要なものを全てに的確に与え尽す、神さまの愛の働き。これが一大循環の相象。
これを感じ取ったら、本当の祈り。神さまの祈り。真祈りの伝授を受けたことになる。
必ず、神さまは、真祈りを伝授してくれる。その為に今、神さまは一生懸命働いてくれている。
ただ、自分が本心側に立たないと、受け取れない。全て本心の自分が動かしている。
本心の自分をしっかりと生きたら、我の自分、思いの自分に惑わされない。

惰性というのは、惰性だけがあるのではない。本心の自分の、発揮した力の、余分なものが惰性。
車でもそう。車を運転する時、アクセルをふかす。惰力が生まれている。出しすぎたら、ブレーキを踏む。
足りなかったら、アクセルを踏み返す。アクセルもブレーキも踏んでない時、本心が働いていないのかというと、
違う。惰性で動いている時も、本心が働いた結果が、惰性になっているだけ。だから、常に本心が、
必要なだけ働き続けているすがた。そしたら、我の力、思いの力では何もしていない。それは、錯覚。間違い。
常に本心がしている。本心の自分の働きだけが常にある。正しく理解出来たら、そうわかるはず。

常に、本心側に立ったら、本心の働きが何をしているかってわかるはず。我や思いは、何もしていない。
本心の働きの惰性、痕跡だけ。そしたら、自分をつかむのも、我や思いが自分なんてつかまない。
常に、本心だけが自分。それ以外に何もない。言葉が大事。肉体が自分、我が自分、思いが自分なんて言ったら、
間違っている。そうではない。本心だけが自分。もう常に、本心だけが自分って断言する、断定しないとダメ。
そしたら、本心の自分がしっかりと出てきて、生きる。それだけが大事。

(平成27年7月4日のお話②)