最近特に、本心の自分として神さまの教えを正しく受けて、正しく実行するというのが、必要になっている。
今までは肉体の自分が、受け取って勉強している。これは間違い。肉体が自分ってつかんでいるのは、
我の心、思いの心。肉体を自分と思うのは、大きい間違い。真の神さまが真の自分、
これが本当の自分と定めないとダメ。本心の自分が、神さまの教えを受けて、正しく実行して、本当の悟りを開く。
ここが一番のポイント。だからガラッと切り替える必要がある。そうしないと、全ての教えを正反対に受ける。
我の自分と本心の自分の受け方は、正反対。これが一番大事なポイント。

例えば支える。本当の支えるとは何か。表面で助け合うことではない。思いの心・我の心は、まだ表面的に
支え合う、助け合うと思っている。違う。神さまは一大循環の相象で、必要なものを的確に与え続けている。
これが本当の支え。必要なだけを的確に与え続ける、全てに対する、盤石の支え、無限の無限の支え、
これが神さまの支え方。この支えを受け入れたら、自分の中に、神さまの支えが通り抜ける。
その時に、自分が支える生き方をとる。自分が支えるのではない、神さまの支えが、自分を通り抜けた時に、
支える生き方に変わる。

だから自分の支えではない、神さまの支え。だから神さまの支えを大きく受け入れる、これが一番最初の大事なこと。
どれだけすごい支えか。これに気付くために、やっぱり言葉が、一番最初に必要になる。
真の神さまの無限の無限の支えが、無限に無限に一杯!これを言い続けないと、気付かない。
言葉通りの信念が出来上がる。信念通りに受け取れる。今、一つ言葉に使っただけで、
すぐに受け取れるわけではない。信念にまで変えないと、受け取る受け場が、出来ない。
だから常に、真の神さまの無限の無限の支えが、無限に無限に一杯!と言い続ける、唱え続ける、
そしたら神さまの支えが、どれだけ凄いかって信じられるようになる。そしたら受け取れる。

神さまの支えを受け入れたら、自分は支える生き方をとらせてもらえる。実行できる。
そこに行くまでは、まだ支える生き方になっていない。支え合うとなったら、全ての人が同じように、
神さまの支えを大きく受け入れて、それを全部一つに力を合わせて、大きい働きをすること。
これが支え合う。自分一人支える生き方になっても小さい。皆が、支える生き方になった時、無限倍に大きくなる。
その時に、本当の支え合う働きになって、全てを大きく変化させる力になる。
だから徹底して、真の神さまの支えを受け入れること。これだけが、大事なこと。
肉体の自分が、思いの自分が、我の自分が何かすることではない。したらダメ。邪魔するだけ。
神さまが全部してくれている。その邪魔さえしなかったら、全てが完璧なすがたで降りて来る。

神さまの世界は、本当は受けると与えるとが、分かれない。一つだから、受けると同時に与えている、
与えると同時に受けている。循環だから。本当は、上下は無い。ただ、上手に受けた方が、
たくさん与えられるから、受ける方が上って言うけど、本当は神さまの世界には、上下は無い。
受けたら即、与えている、受けただけを与えている。与えたら即、補充が来る。本当の循環だから全部そう。
でも虚の世界は、やっぱり上下が付く。プラス・マイナスがあるから、相対に分かれているから、
求めるよりも受ける方が上、受けるよりも与える方が上。どちらが、プラスが多いかによって判断できる。
与える方が、プラスが大きい。受ける方はその一部しか受けていないから、小さい。
求める方は、もう一つプラスがないから、求めている。だから差別が付く。

みんなの本当の目的。肉体の人間の目的ではない。本心の自分の本当の目的。真の人生の目的は何か。
元々、一切の我のない自由自在心、無色透明の自由自在心。この自分が、何を目的とするか。
神さまの目的を自分の目的にする。神さまの願いを自分の願いとする。
神さまの御心のままに、神さまと共に生きること。そしたら一大循環の流れのお手伝い。
本当に必要なものを、的確に与え続けるお手伝い。小さくも大きくも、全部そう。
だから、どれだけ大きい力がいるか。一人の人に必要なものを、的確に与えるだけでも、大きい力が必要。
本当にその人の変化を見抜かないとダメだし、一瞬一瞬、必要なものは変わるから、与えるだけでも大変。
一人の人に与えるだけでも、与えるものをたくさん用意しておいて、瞬間に、何でも与えられるようにして
与え続けないとダメだから、それを無限の人に対してできるか、って考えたら、本心の自分ですらできない。

そしたら真の神さまだけに、すがるしかない。虚の世界の自分がすがるのとは違う。
本心の自分ですら、全知全能無限力と言いながら、できない。本当の神さまの働きには、及ばない、
全然ついてもいけない。だからこそ、本心の自分は謙虚に、真の神さまに全託する。
大きい本心の自分に戻るほど、全託が深くなる。まだ小さく与えている間は、小さい本心の自分。
この時はまだ、ちょっとは可能性がある。自分の力を与えられるかなって、錯覚を起こすかもしれない。
でも、大きくなればなるほど、もう途方に暮れてしまう。今、与えられる自分の能力を無限倍にしたら、
無限倍のものを与えられるけど、神さまの世界は入れ子構造だから、一段上がるごとに、
無限倍のものを与え続ける、この働きが必要になる。不可能、絶対不可能。

だから真の神さまに降り立ってもらう、自分を通り抜けて自分を使ってもらう。
神さまに本当の全託が必要になる。そしたら、いつも神さまと共に歩む。無条件の安らぎ、喜び、 幸せが、
全部湧くように出てくる。与えただけ、幸せが大きくなる。本心の目的は、この生き方だけ。
虚の世界に転落して、苦しみの苦海に落ちてどうしようもないっていうのは、自分を小さくしたから。
小さくなればなるほど、苦しみの苦海に沈んでしまう。自分が大きくなったら、全部抜けている。
だから大きくなるほど、幸せ。

大きくなる方法は一つだけ。神さまを受け入れるだけ。神さまを大きく受け入れたら、大きい自分。
小さくだったら小さい自分になる。だからどれだけ大きく受けてもまだ、神さまの方が大きい。
無限に無限に受け入れても、まだ神さまの方が大きい。どこまでもどこまでも、大きく受け入れることがまず、
一番大事な必要なこと。それをまず言葉で定める。言葉がまず先に来る。真祈りって言うけど、
真のプラスの言葉は、何か。絶対の中心から、新たに新たに、降り注いでくる神さまの働きの言葉。
その言葉を、本当の意味で駆使する。これは、真の神さまの一大循環の相象、与え方。
これをしっかりと受け入れること。そしたら、すぐに大きい本心に戻る。言葉通りの自分になる。
全て言葉通りになる。

真実の世界も言葉通りの自分。虚の世界も言葉通りの自分。全て、言葉通り。
どういう言葉を、自分がたくさん使っているか。全部言葉通りになっている。
だから大きい本心の自分の生き方は、大きいプラスの言葉が必要。だから大きく支えに生きようと思ったら、
必ず、真の神さまの無限の無限の支えが、無限に無限に一杯!って、常にそれを受け入れようとしないと。
そしたら必ず大きく支える自分に、言葉通りに置き換わって来る。それが全て。言葉を変えたら、
変えた言葉通りになってしまう。

普段、日常生活で、何を言葉にしているか。虚の世界があるって言ったら、虚の世界に転落している。
ここが神さまの世界って断定すれば、断言すれば、神さまの世界になる。
祈り言葉、「真の神さまは一大循環の相象で厳然と、今ここに在します」は、なぜ断言するのか、
断定しないといけないのか、それを言葉にしないとその世界に住めないから。
それを感じる自分になれない。現実に、今ここに神さまの世界があるのに気付かないのは、言葉が違うから。
言葉で波が合わない。祈りの力って言葉の力。全部言葉の通りに実現している。
言葉さえ正しく選んだら、大丈夫。新たな、真のプラスの言葉。これが最高の威力を持つ。
過去を全部消せる。最高のすがたを現実化出来る。どこにも最初から問題はない。
だから本心の自分に戻って、もう一回、神さまの言葉を理解しなおさないといけないと思う。

例えば、ありがとうございますの16項目がある。その中にありがとうございますは、真の神さまへの恩返しとある。
真の神さまへの恩返しって何か。虚の世界の解釈とは、全然正反対。虚の世界は、与えてもらったものを受けて、
喜んで万分の一でも返そうとしている。これが虚の世界の恩返しのすがた。でも真の恩返しはそうではない。
どんなすがたで理解するか。本心の自分の、真の神さまへの恩返しという意味は、恩=因の心。
一番の本源の心、真の神さまの絶対の中心、ここへ立ち返る。絶対の中心へいつも立ち返るのが恩返し。
そこから出発して、真の神さまを与え続ける生き方をとる。常にそこへ返らなかったら、
本当のお手伝いはできない、恩返しではない。一瞬一瞬、絶対の中心へ立ち返るのが、真の恩返し。
受けたものをちょっとだけ残してお返しするのとは違う。常に、絶対の中心へ、一瞬一瞬、立ち返ること。
そしたらどんな言葉もそう。本心の理解・解釈と、思いの心の理解・解釈とは、正反対になっている。

今までの肉体の自分としての解釈は、全部間違っている。もう一回本心の側に立って、もう一回、
全ての教えを受け直したら、本当の理解が進む。神さまのことが良くわかって来る。
神さまと一体感が深くなる、実感できる。もう一回、本心の自分に立ち返って、勉強し直さないとダメ。
これが今、神さまが真剣に願ってくれていること。そこに行かないと、真祈りの伝授が不可能。
肉体の自分が、真祈りの伝授を受けることは、絶対できない。思いや我では、神さまの光を受けたら、
降りたら、瞬間に消えるだけ、何も残らない。悪魔やサタンというような、思いや業の大きい塊、
これが、真の神さまの無色透明の光をちょっと受けただけで、とろけるように消えてしまう。
神さまの光が降りて消えるようなものはダメ。我や思いは、全部瞬間に消える。
こんなものに頼っても何もならない。

(平成27年7月4日のお話①)