今は人生80年。40年の余裕があるから、真剣さが足りない。あと一年しかないと思ったら、たいぶ変わる。
一年、一年と変わらないと。いつまでも続くように思っていたら間違う。
常に新たにというのが一番大事。

本当は何のために生きているのか?一番大事なことを皆忘れている。神さまの御心を本当に生きないと。
神さまの目的をしっかりと生きないとダメ。我の目的を生きているとつまらない、時間が勿体ない。
祈り続ける、これでは足りない。まず祈り続ける。祈り続けたら、本当の信念になる。
信念が行動化して現実化しないと、祈りにならない。だから単に祈っているのは、祈りだけ。
それが信念になって行動化して、真祈りに変わる。祈っているだけの時は、神さまは降り立たない。
現実化して行動化した時に降り立つ。降り立っている。

最初は言葉を選んで整えないとダメだから、プラスの言葉を一心不乱に唱える。それが大事。
マイナスの言葉を交えたら、神さまは降り立たないから、本当の真のプラス言葉を選んで唱え続けて、
一心不乱に命懸けで唱える。これが必要。その後プラスの信念になって行動化したら、真祈りに変わる。
座って祈るだけだったら、神さまは降り立たない。まだ観念の遊戯の域で終わる。力がない。
下座に生きないとダメ。徹底して下座に生きて行動化したら、神さまは降り立つ。

神さまの後押しだから、応援だから、循環させないとダメ。行動化しないと循環していない。
止まっている。だから絶対に支えに回る循環、行動がいる。それをしないと循環しない。
いくら神さまが応援しようと待っていても、動いていないと応援できない。動き出したら光が流れる。
動くまでは流れない。だからどんなことでもいい、支える働きを下座の働きをしないとダメ。
そしたら循環が始まる。

この世の循環は枝葉の小さいものだけど、心の中の循環が必要。
現実に循環を始めないと、心の循環は起こらない。止めてしまっているからダメ。
肉体を捨てて死んで、あの世に行くなら別だけど、肉体を持ったままだったら、肉体を行動化しないと。
動かさないとダメ。それもスピード化するほどいい。肉体の動きをスピード化するほど、
神さまの循環が大きく流れる。

どんな仕事もスピード化してする方が楽。神さまの働きが大きく入るから、スピード化する程疲れなくなる。
だらだらしたら疲れる。武道の達人は皆スピード化の練習ばっかりする。鍛えぬくのは、スピード化。
スピードが力の根源。ゆっくり押しても、どんな力で押してもなんともない。
小さい人でもスピードを入れて、さっと突いたら物凄い衝撃が来る。
指一本でも、スピードがあったら物凄い力になる。神さまの働きは無限のスピード。
神さまは自分で自転している。神さまの自分の回転のスピードは無限。
だから必要なものがさっと、無限のスピードで飛ぶ。

直線で無限のスピードを出すのは大変。エネルギーをどんどん補給しないと、できない。
でも回転だったら、回転を止める方が大変。スピードを上げて回転する、
あとはちょっと力を加えるだけで回転が速くなる。一番楽な省エネの働き。
回転する駒でも止めるのが大変。でも、まっすぐ進もうと思ったら、だんだん力が衰えて止まってしまう。
だから神さまの回転に合わせて、祈ったらいいだけ。邪魔しなかったらいいだけ。
それで自然にスピード化する動きになったら、神さまが大きく降り立つ。

スピード化の訓練が悟りへの道になる。武道で悟る人は皆そう。スピード化訓練ができている。
女の人が、こまねずみのように働くのもそう、スピード化で悟る。他のことも全部そう。
将棋や碁でもそう。物凄いスピードで頭が回転する。名人ってそうでしょう?
何倍・何百倍っていうスピードではない。もっと凄い。ありとあらゆる可能性を読む。
物凄いスピードで読み取る。頭の回転が、物凄くスピード化している。

あれはみんな、本心開発。神さまが降り立つから、心境がよくなる。
勝負や勝ち負けに拘らない名人はそう。思いやりの深い自分になる。
全体を支えようとする自分になる。見ていたら大体わかる。
全体を支えよう、全体を面倒見ようという生き方をとっている。
立派になって、将棋なら将棋界だけでなく、社会全体に奉仕しよう、貢献しようという
気持ちになって頑張っている。あれが単なる勝ち負けの世界だったら違う。
我の強い、求める心の強い人間になる。

科学者でも同じ。スピード化の勉強で、本心開発してもらっている。
スピード化して、ありとあらゆる勉強をしている人は、大自然に対して、謙虚で真剣な心を起こす。
科学迷信に陥っている人は、知識だけ勉強して分かったつもりになっている。
こういう人は科学迷信に陥る。神さまを否定し、大自然を否定する。
本当の大自然を、命を懸けて勉強する人は、本心開発になる。神さまに対して謙虚になる。
科学迷信には絶対に陥らない。科学迷信に陥るのは、単なる知識の実現。
大自然の本当の自然を相手にする人はならない。

謙虚な心になるだけ。神さまの波にちょっと合わすだけ。神さまに倣う、随神(かんながら)。
真似事をするだけで神さまの助けを大きく受ける。自分が何かをするのではない。
神さまに倣うだけ、真似をするだけで、神さまの助けが大きく流れ込む。
ジグソーパズルでも、1000ピースぐらいだったらまだ楽かもしれない。
2000ピースは大変、3000ピースはもっと大変。神さまは無限ピース、同じものは何一つない。
それを全部一瞬で、適材適所にはめ込む。神さまのジグソーパズルが、どれだけ凄いか分かるでしょう?
何をするにしても人間の力と違う。神さまじゃないと、適材適所に配置できない。

本心の16項目の中にある「すべてを適材適所に配置する自分」、
これは真の神さまが降り立たないと、本心の自分でないからできない。
無限ピースを、一瞬で振り分けないとダメ、それも新たに新たにって。
そしたら自分の力は、邪魔するだけ。「自分が」って言っただけで邪魔する。
「私が」って言っただけで、神さまの邪魔をする。お任せしないと。
「私がします!」って言ったら、一瞬で邪魔をしている。何にもできないのに。
まず無限ピースの違いも分からないのに、どこに配置したらいいかも分からないのに、
配置できる訳がない。一切の我を捨てて 「ありがとうございます」で全託しないと。

自分が何かをするというのが、どれだけ間違っているか。計らい心がどれだけ大きい間違いか。
無為の心は、計らい心を全部捨てないとダメ。老子さんの教えは、無為の心。
これは、計らい心を全部完全に捨てきる。神さまが全部してくれているという、徹底した見方。

本心の自分は、神さまの本当の凄さを理解しようとする。理解しただけが本心の大きい自分に戻っていく。
だから、本当の違いを全部見抜かないと。全ての要素が、全部違う要素。どの組み合わせも違う。
だから理解するということは、どれだけ凄い違いがあるか、その違いを見抜く勉強。

そしたら神さまの本当の偉大な支えがどんなものかということが、分かる。
大きい支えで支えられて、生かされている。我なんて出せない、絶対に。
邪魔するだけの我なんて、出したら馬鹿。人が何かをしているのとは違う。
神さまが一瞬一瞬、全部置き換えている。一瞬一瞬全部置き換えているのに、
置き換えに気づかないだけの馬鹿。人が何を動かしてしているのと違う、何もしていない。
神さまは無限のスピードで、一瞬一瞬、全部置き換えている。全部、無限分の一秒で置き換わっている。
一秒で無限回置き換わっている。それだけの働きをしてくれている。

人が何かをしているのかって、何もしていない。できる訳がない。全部神さまがしてくれている。
本当に必要な物を与え続けてきている。プラスだけが流れてくるのが本当の理想だけど、
大きいマイナスがあったら、マイナスを消す働きを同時に加えてくる。
だから、自然に「去るものは追わず来るものは拒まず」で、全部お任せ。
どれだけ神さまの働きが大きいか凄いか分かっただけで、お任せになる。
そしたら指一本、神さまが動かしているって分かる筈。神さまに使ってもらう、
使ってもらっている、この幸せって凄い。神さまに使ってもらうっていうのが、無条件の幸せ。
本当の喜び、幸せ、安らぎが湧き上がる。浮き上がってくる。
無条件の幸せが湧き上がらなかったら、まだ我がある。神さまに使ってもらったら、
無条件の幸せが湧き上がる。だから、「自分が」って、自分勝手に何かをしようとしたらダメ。
全て神さまがして下さっている。神さまが全部して下さっている。これで無条件の幸せが湧き上がる。

だから、ありがとうございますの一言になる。ありがとうございますの確認。
印可書を読むよりも、ありがとうございますだけ。本当の意味はそう。
真の神さまの本当の支えを、感じるのが印可書であり、ありがとうございます。
読んだから分かるのではない。本当の支えを感じて、ありがとうございます、がいい。



(平成27年6月27日のお話 第2部)