やっぱり他のために、自分を捧げた、与えた人が早く心境を上げる。
昔、パリに友達二人で絵の修業に行った。外国で修業するとなったら、一人が働かないとダメ。
生活費を稼ぐ。一人が絵の修業をする。二人一緒に絵の修業をしても、中途半端で、
働きながら絵の修業って大変。どっちかが犠牲になる。でも絵の修業をした人は有名になる。
一流画家になって、有名になって、お金が儲かるかもしれない。
でも友達のために自分を捨て切って、死に切った人は、ただ支えただけ。
でも神さまから見たら支えに回った人が立派。心境を大きく上げたことになる。
本当の大きい本心の幸せな自分に戻る。

世間的に立派に見えても、反対。大きい我が出て、借りが一杯。どっちを選ぶか。
一人ひとり、自分が選ばないと仕方がない。支えに回った人は、幸せになる。
本心の自分と我の自分の価値観が正反対だから、本心の自分は、支えに回って、大きい自分に戻る。
幸せが大きくなるってわかる。でも、我の自分は、反対にしかわからない。
支えに回ったら、損と思う。自分が上に出たら、幸せになった、得したと思う。
正反対だから、この時、自分が本心を生きているか、我を生きているかで、正反対の選び方をする。
本当の本心の自分を生きているかって、これも本当の悟りを求めて、本心の自分を生きようとしたら、
本心の自分を生きられる。それだったら、支えに回るはず。お山の大将になりたいと思わない。
本当に下に降りたいと思う。下座に降りたいと思う。

本当の真の神さま、宇宙の大神さまって、別名、谷の神、谷神と言う。
「谷神は死せず」って、老子さんが言っている。生まれた神さまは、また死ぬ。永遠ではない。
真の神さまは、永遠。死なない。生まれたのとは違う。元からある神さま。永遠に死なない神さま。
これは、谷神。谷の神さま。上には出ない。一番底へ、下へ降りる神さま。
上に出るのは、虚の小さい神さま。下へ下へ降りるのが、真の神さま。
だから、一番大きく入れ子構造的に支えるのが、真の神さま、谷神。

だから、支えに生きると、そのバックアップは真の神さまからくる。これは、半端ではない。
この世でも、みんなを支えたら、支えてくれる人が増えてくる。
それは、表面の僅かなすがただけど、そのバックがあの世でも、虚の世界からも、一杯支えが来る。
支える生き方をとる人には、大きい支えが、次から次へと与えてもらえる。
でも、真の神さまの支えは、そんな小さいものではない。本当に、無限の無限の後押し、応援。
盤石の支えでも、本当の無限の無限の盤石の支え。どれだけ大きい支えかわからない。
そして、その全体から、みんなから、大きく支えてもらった自分が、全部を自分のものにする。
全体の大きい支えの力をもらう。全体が自分という、大きい自分に戻してくれる。
支えるって、そういう意味がある。奥から大きく大きく支えてもらって、自分が大きく戻してもらう。
虚の世界は反対。

神さまの世界は、支えるほど大きく支えられて、一番大きい支えの自分に戻る。
元々、神さまの世界は一体感だけ。全体の為に生きたら、全体が自分に与え返される。
全体が自分になる。真の神さま、全体に自分を捧げ尽くしたら、真の神さまを、全体を、
みんなを与え尽してもらえる。それで、真の神さまが自分、全体が自分になる。
これは、元から一体だから。

虚の世界は反対。元からバラバラだから。与えても、与え返されるとは限らない。
まず、上から下へ与えても、下からは返ってこない。自分より力のある上へ与えたら、
自分の与えたよりも、ちょっとは多く与えてもらう。でも、無限倍になんかならない。
そんな物ないから。与えるものが少ない。

でも、真の神さまの世界は反対。無限に無限に一杯ある。だから、いくら自分が大きく支えても、
神さまからは、大きい支えが無限の無限倍くる。そして、大きい本心の自分にどんどん戻してもらう。
入れ子構造的に、どんどん大きく引き上げてくれる。それで、この支え合いが本心開発の特訓になる。

この宇宙船護摩木を書くのも、支え合いの特訓。皆で真の神さまを与え続けるという、
この支える働きをすることで、その力を全部1つに束ねて、大きい支え合いに変えて、
真の神さまに、全体へ大きく降り立ってもらう。その時に、一人ひとりが大きい本心の自分に戻してもらう。
自分の努力や力は、僅か無限分の一。それを支え合いの輪の中に入れてもらうことによって、
その無限倍の支えをもらう。それで、本心の大きい自分に戻してくれる。
何億年かかるところを、短期間で、本心の自覚を大きくしてもらう。

そしたら、どういう生き方が絶対必要かって、わかるはずなんだけど、我ではわからない。
本当に、本心の自分をしっかり生きようとしないと、命懸けで支え合いに生きようとしないと、
わからない。だから、肉体の自分、魂の自分を生きようとしたら間違う。それは、我だから。
小さすぎるから。本心の自分は、真の神さまが新たに新たに降り立った真の自分が、本心の自分。
常に、真の神さまから、新たに新たに受け直した自分。それも真の神さまに降り立ってもらったら、
本心の自分。常に降り立ってもらわないと、本心の自分から外れてしまう。

お祈りでも、真祈りは、24時間+α。24時間では足りない。真祈りは、24時間+αのお祈り。
一番おおもとのαが、プラスされないとダメ。真の神さまって、一番おおもとの根源のプラスαが
加わらないと、真の祈り、真祈りではない。ありがとうございますって唱えるだけで真祈りかって、違う。
真の神さまが降り立って初めて、真祈りに変わる。真祈りって、何かあるのではない、形ではない。
真の神さまが自分の中に降り立ったら、真祈りになる。それで、絶対奉仕に生きる。支え合いに生きる。
これだけが必要。真の神さまに降り立ってもらう唯一無二の方法。他には無い。

まず、絶対奉仕。絶対奉仕って、自分があったら絶対奉仕ではない。
神さまと自分が対立するから、対立は絶対ではない。絶対奉仕は、自分を神さまに捧げ尽くして、
神さまに使ってもらう、神さまの働きだけだから、絶対奉仕。絶対奉仕に生きないと。
自分がって出たらダメ。常に、神さまに使ってもらう、これだけが必要。

それで支え合いの心。与えるではダメ。支えるという気持ちが大事。真の神さまを送り出す、
支える働きが絶対必要。それで、自分一人ではダメ。全体から、みんなから支えてもらえないと、
真の神さまの働きにならないから。それで、支え合いに生きる。常に、全体を支えようとして、
支え返してもらう。しっかり支えないと支えてもらえない。命懸けて、全体を支えようとする。
そしたら、全体から、みんなから自分を支えてくれる。やっぱり、自分のすがたと同じすがたで現れる。
自分の生き方に波の合うすがたしか出てこない。徹底して、絶対奉仕と支え合いの自分に成らないと、
真の神さまの世界の波に合わない。一番大事な根本は、そこ。そして、あとの枝葉は全部、
支え合いの心で、みんな勉強でも何でもしないとダメ。

真の問答集を作るのでも、本心の自分が祈りに祈って、色んなアイデア、知恵をもらわないとダメ。
でもこれは、一人ひとりだったら、まだ降りないと思う。
皆で支え合ったら、真の神さまが降り立った分だけ、知恵やアイデアが降って来る。
どれだけ大きく真の神さまが降り立つか。だから、支え合いがいる。
そこで、真の問答集が出来上がると思う。そしたら、真理の理解が、本当に読んだ人に深く入っていくと思う。
単なる知識としての本だったら、役に立たない。それを支える真の神さまの働きが降りないとダメ。
支え合いによって作り上げた本はそうなる。バックに、支えが、響きがちゃんとつく。
表面を見て同じかもしれないけど、中身が違う。中身が真の神さまの支えが一杯って、これが「真の問答集」。
形だけだったら、単なる問答集。人生の問答集って、いくら答えが書いてあってもダメ。力が無い。
思いを消して、我を消して、本心を覚醒させる、引っ張り出す大きい力が無い。

勉強会も、そういう勉強会にこれから変えていかないと。一方的に話を聞いたって、本心開発の特訓ではない。
まず、自分が命懸けで質問を出して、自分が本当に納得できる答えを引っ張り出して、答えにしないとダメ。
これをみんなで支え合ったら、みんなの力、全部自分の力になる。
みんなの体得したもの、みんな自分が体得したのと同じになる。これが支え合いの力。
自分一人で全て勉強して、答えを出してって、時間がかかりすぎる。何億年かかる。
でも、これが支え合いになったら、僅かな短期間で済む。同じ本心開発でも、真理の勉強でも、理解でもそう。
支え合いでしたら、スピードが無限倍になる。

だから、一切我を出さないで、支え合いに生きること。そしたら、これから良いものがどんどん生み出されてくる。
全部、支え合いに生きる特訓として、本心開発の特訓として、神さまが順番に与えてくる。
何億年かかるところを短い時間で、本心開発を出来るようにしてくる。
印可書にあるように、真祈りの伝授を本当に神さまは命懸けでやってくる。だから、我は絶対出したらダメ。
我は、自分が消さないとダメ。自分が我になって出るようだったらダメ。
本心の自分が、自分の我を一切消し切らないと。負けているようだったらバカ。
五欲の心を全部消し切らないとダメ。我欲を全部消して、本心側に立たないと。それは自分の責任。
我の自分がどうこう言っていたらバカ。本心の自分をしっかり生きること。
それで、支え合いに生きて、真の神さまに降り立ってもらう。これが、本当の働き、お手伝いになる。

(平成27年6月27日のお話③)