昔から大きい聖、大聖は、町に潜む、小さい聖、小聖は山に隠れるという。
小さい我の自分は、悟りを求めて、世間から隠れて独り修行をしている。悟れない。
どんどん小さい自分に成ってしまう。大聖は、町の中へ入って、自分を出さずにみんなを支えようとする。
現実の町とか山ではない。全体を支えようとするのが、町に住む。
自分だけ孤立して、一人悟りを求めて生きるなんて言うのが、山に隠れる。小聖は山に隠れる。
これも支える生き方を選んでいるか、求める心を生きているかの違い。

昔から下座に生きて全体を、みんなを支えた人は、心境が上がる。日本でも、女の人って家族の面倒を見る。
大家族で、寝る時間も惜しんで、下座の仕事ばっかり。家族のみんなの面倒を見る。
それでいて、まだ外に出て野良仕事をしたりする。本当にこまねずみみたいに動いて支え廻っている。
そしたら、そういう人がどれだけ立派になれるか。本当に、こまねずみの様に一杯働いた人は、
悟りを開く人が多い。天理教祖でも、大本教祖でもみんなそう。働き者。自分を捨てて働いた。

日本では婦道という。悟りへの道、婦道。求める心を一切出さない。
ただ奉仕するだけ、みんなを支えるだけ。支える生き方だから悟りに近づく。
悟りたいからってお寺に入って、頭を丸めて尼さんになって出家したからって悟るのとは違う。反対。
自分のことだけ考えて、悟りを求めて生きたって、心境は上がらない。
生活の場が、本当に支える生き方の場が、悟りへの道になっている。
ここでも本物か偽物かって、はっきり区別される。

真理を学ぶって、何のために学ぶかっていうのも、まず人を悟りの彼岸に渡すために、
真理を勉強するという人は、本物になる。でも自分が悟りたいから、幸せになりたいから真理の勉強する人は、
絶対本物にならない。小さい生き方だから、そこに真の神さまは降り立たない。だから神さまの智恵が降りない。
まず、他を彼岸に渡そうとする。悟りの世界にまず他を渡そうとする。
真理の勉強も、他に真理を渡すために、自分がしっかりと勉強する。

しっかりと自分が体得しないと渡せない。他のために勉強する。これだったら本物になる。
だから口移しで教えるのだったら誰でもできる。真理を他に伝えるのは、自分が体得しないとダメ。
自分が体得したものを他に渡せる。本心だったらわかるはず。
いくら本を読ませても、CDを聞かせても、受け売りでは何の力もない。伝わらない。
真理の言葉だから伝わるか、そうではない。真理の言葉を伝えるには、本当の真祈りがいる、本当の体得がいる。
体得したものは伝えられる。ここでも、支えるというのが大事。表面いくら与えたって、抜け殻。
真理の言葉に本当の命を吹き込むのは、万倍以上のお祈り。
自分が命がけで体得したら、その真理は相手に伝わる。だからどれだけ自分が深く体得して理解したか、
これが相手の心にスッと伝わる。表面いくら伝えても伝わらない。
心と心が以心伝心で、スッと一つにならないと伝わらない。

だから勉強というのは、知識ではない。知識は思いを溜めるだけ、縛りになるだけ。役に立たない。
反対。真理、智恵というのは、以心伝心で体得した人が伝える。だから真理の体得というのが、絶対に必要になる。
そのために真理の勉強を、命を懸けてする。自分で問いを出して、自分で答えないとダメ。
そうしないと実力がつかない。学校の勉強でもそう。算数の勉強があって、答えを出す時に、
虎の巻に答えを書いてあるのを見て写しても、ダメ。実力は絶対付かない。
また似たような問題が出て来ても、答えられない。実力がないからダメ。
実力をつけるのは、自分が時間をかけて、とことん自分の力だけで答えを出そうとしないとダメ。
時間がかかる、苦労する、でもそれで実力が付く。

絶対最初は、模範解答とかお手本というのが必要。答の出し方を教えてもらうというのが、大事、必要。
でもどんな問題も、他の答えを見て書いているようだったらダメ。問題の解き方を教えてもらったら、
どんな問題でもとことん解かるようにならないと。それも、さっと解けるように練習しないと、
実力は絶対に付かない。

だから本心開発というのは、本心の自分は、やっぱり全知全能無限力、これを発揮するのが、本心開発。
何でもできる自分に成る、これを目指す。この世でどんなことも出来る自分に成る、というのが目的。
そのために、真の神さまも、虚の世界の高い神仏も全部応援につく。
ありとあらゆる能力を発揮させようと力を添えてくる、支えに来る。
ただ自分が、全部順番に勉強して体得するのは、難しい。ほんのちょっとしか自分は出来ない。

でも、支え合いの心が本当に身についたら、バックが大きい支えになって出てくる。
自分に出来なくても、出来る人が背後につく。どんな能力もさっと出てくる。全部そう。
真の神さまの支えが出てきたら、何でも出来る自分。ただそれは支え合いに生きていないと、
支えてもらえないから出てこない。だからいつも謙虚に下座について、支え合いの心を生きようとして、
神さまに降り立ってもらって使ってもらう練習、これを繰り返さない限り、
まず神さまに降り立ってもらうのも、練習が必要。いつでも降りられるのではない。
降りやすいところにしか降りられない。

まず波が合わないと降りられない。霊媒になる人がそう。色々な神がかりで、降りてもらうのでも、
波を合わせていかないと降りられない。だから精神統一する、お祈りをして、
ある程度、波を合わせていく練習をする。波の合うところが一番降りやすい。
心境が低かったら、低い波に合ってしまう。心境が髙かったら、高い神さまと波が合う。
これもやっぱり、自分がどういう波を発するか、自分が選ぶ。常に自分を捨てる、絶対奉仕に生きる。
我を死に切って、捨て切って、神さまのために全部投げ出して、神さまに使ってもらう、
この気持ちになったら、真の神さまがスッと降りられる。
支える心、支え合う心を起こしたら、もう一つ神さまがスッと降りられる。

だから、本心開発で、本当に大きい本心に戻る方法、一番早い最速の方法は、支え合いに生きることだけ。
自分一人でどれだけ命懸けて真剣に頑張ったって、支え合いの働きと比べたら無限分の一。不可能。
いくら一人一生懸命祈ったって、そんな力はわずかな力。支え合いというのは、
どれだけ大勢の支えが来るか。この世の支えもある、あの世の支えも一杯ある。
虚の世界でも、あの世の高い世界の支えって大きい。肉体の自分の働きなんて、もう微々たるもの。
虚の世界だけでも大きい支えが来たら、無限倍。支え合いに生きたら、それだけの大きい支えが来る。
その上に、真の神さまの支えは無限倍の無限倍。支え合いに生きるかどうか、ここで決まる。

表面的に何かするのが目的ではない。支え合いの心を起こせるかどうか。ここがポイント。
自分を捨て切って捨て切って、死に切って死に切って、消しきって消しきって、
それで神さまに使ってもらおうとする。自分が何をしたって意味はない。
神さまの邪魔ばっかりしているだけだから。どんなことしたって我の自分のすることは邪魔ばっかり。
いいことをしているって全部邪魔なの。ここで謙虚さが無かったら間違う。
神さまが元から全部動かしている。一大循環の相象というのは、無限のスピードで、
全部動かして、必要なものを的確に与え続けている。それを邪魔したのが人間。

だから我の自分が、邪魔ばっかりし続けている。神さまのしていることを自分がしているって、
つまらないことをしているのに言い張っているだけ。
そしたら自分が何でも出来るかって考えたら、何も出来ない。命を止められたら動けない。
太陽を消されたら生きていけない。空気をぱっと消されたら瞬間に死ぬ。
大地を消されたら宙に迷う。自分で何も出来ない。全部、神さまがしてくれていること。
虚の世界ですらそう。神さまの働きの残像が映っているだけでも、神さまの働きだけがプラス。
人間のしていることなんて何もない。何も出来ていない。邪魔だけをしている。
自分がこうしたああしたって邪魔。我でするのは大きい邪魔。
それだったら我ですることは、全部しない方がいい。邪魔が少なくなる。
そしたら後は、神さまが動かしているだけになる。

神さまの支えがわかってこないと、本心の自分に戻れない。
我の自分から本心の自分に戻してもらうために、みんな一生懸命、頑張っているように思うんだけど、
頑張ったらダメなの。ここでも、やっぱり自分が悟りたいからって、
自分が本心の自分に戻りたいからっていうのは、間違い。反対にならないとダメ。
皆を先に本心に戻そうとしないと。自分が一番最後でいいって、言い切らないと、間違う。
この一生、自分が本当に下積みの支えるだけの働きでもいい、
それでもみんなを一人でも本心に戻すお手伝いが出来たら、このくらいの気持ちだったら、
周りも同じようにしてくれる。そしたら自分が一番支えられて、本心に戻る助けを、大きく受けられる。



(平成27年6月27日のお話②)