真の神さまが降り立って下さったら、真の神さまが真の自分という本心の自分に戻る。
真の神さまに降り立ってもらうために何が必要か。我を消さないとダメ。
我を消したら、真の神さまが降り立って下さる。今度、真の問答集というのを作ろうと思う。
これはみんなのための本心開発の特訓。みんなが支え合いの心で作り上げる。
それで真の神さまに降り立ってもらう。だから真の問答集。

色々な人生問答とかいろいろある。これも本心の自分の質問と、我の自分の質問とがある。
本心の自分の質問に、本心の自分が答えないと本物ではない。
まず問答という言葉、門。虚の世界でも、無限の段階がある。
一つ一つの段階に、目に見えない関所、門関がある。無門関って、目には見えないけれども、
きちっと区分けできる門がある。上に上がるとしたら、その門を開けていかないとダメ。
何が必要か。上に上がるのは、与える心を起こして、与えたら門が開く。上へは門を押せばいい。
反対に、下への門は、引っ張ったら開く。求める心を起こしたら、門が開いて下へ落ちていける。
どれだけ大きく与え続けるかによって、上への門はどんどん開かれていく。
逆に、求める心を強く起こしたら、一番下まで落ちていく。門というのはそういう意味。

答え、問答の答えの方。竹かんむりに合うと書く。竹というのは、中が空っぽ、中空。
無我・無心・無欲の心。それで謙虚で素直。
そこへ神さまが、その時の心境に合わせて必要なものを降ろしてくるのが、答え。
虚の世界は質問する人、答える人は別個。対立する世界だから。
でも本心の世界、神さまの世界は対立していないから、神さまも自問自答なの。
神さまも自分が問いを出して、自分が答える。本心の自分もそう。
自分が質問を出して、自分が答えを出す。何のためか。これは理解を深めるため。
本心の自覚を深めるため。理解という言葉、理というのは、真理、神さまの働き。神さまの全て。
それをわかる、解釈できる、無限通りに解釈できる、区別がしっかりとつく。
理解というのは、神さまの働きをしっかりと深く、わかること。それが本心の自覚と一致している。
理解が深くなったら、本心の自覚が深くなっている。ここが違う。

虚の世界の問いかけは、わからなくても鵜呑みにして思い込んで、それを実行しようとする。
だから自分が納得していない、答えになっていない。人の意見。
まず自分が納得していないから、実行しないと思う。答えは見つからない。
まず我の心の質問は、みんな偽物の質問。全部、我欲の願いを叶えるための質問。
答えもそれに合った答えしか出てこない。でも、本心の自分の質問は本物。
本物は、本物が答えとして降りてくる。自分が本当に納得できる答えになる。

例えば人とは何か、自分とは何かという質問を出した時に、我の自分だったら肉体が自分、魂が自分。
その辺で終わってしまう。人間とは何か、自分とは何かって問いかけても、
自分は肉体だ、儚い虚しいものだ、死んで消えてなくなるものだ、こう思う。答えにならない。
まず自分が納得できない、虚しい儚い。苦しみから抜けられない。
魂が自分だって言っても、地獄に落ちる魂だったら永遠の苦しみを味わわないとならない。
これも答えにならない、納得できない。だから我の自分が出した質問に対しては、どんな答えも偽物。
肉体の自分は、100年位で死んでしまう。そしたら永遠の生命を保つためには、どうしたらいいか、
子孫を増やさないとだめだって言っている。そんなのバカ。納得できるわけがない。
答えにも何も全然なっていない。

だから色んな人生の目的を掲げても、みんな偽物ばっかり。何のために生きるかというのも同じ。
この世で成功するためにって言っても、この成功が本当の成功ではない。反対。
大きい借りを、借金を増やしているだけの、一時的な、まやかしの成功。
例えば十界の中で、人間界というのは、六道の中でもまだちょっと上の方。
でも人間界にいながら、国の争い・企業の争いなんてある。本当の生き馬の目を抜くといったらすごい。
このくらいのすばしっこさがなかったら、生き残れない、勝ち残れない。
そしたら会社を作って大金持ちになったって、本当に人の分を奪っている。
人から大きく奪って、大きい借り、借金を作って、一時的に成功と言っているだけ。
必ずその報いが来る。大きい借金返しの、大きい苦難が連続して長い間続くと思う。

このあぶく銭、宝くじに当たっても、ばくちで買っても、みんなあぶく銭。
金儲け、大もうけしたのも、全部あぶく銭。高利の利息付きの借金になっている。
そんなのいくら作ったって、幸せに絶対なれないのに、なかなか気づかない。
これはもう、五欲の心を正しいと思ったら、そうなってしまう。
でも、本心の心を生きようとしたら、まず求める心を捨てようとする。ちょっと与える心を起こそうとする。

六道の人間界は、与える心と受ける心、求める心が同じくらいの量。
天人の世界になると、与える量がちょっと増える。求める心が与える量よりも少ない。
まず与えて求める。でも修羅道なんて、求めるばっかり、奪うばっかり。
人間界よりはるかに下へ、堕落して落ちている。でもそれでは六道の世界は抜けられない。
やっぱり六道の世界は思いがいっぱいだから、七難八苦の思いが、いつも影のように付きまとう。
そこから抜ける方法は、思いの雲を抜けないとダメ。

そこからが真理を求めて生きる、声聞・縁覚・菩薩・仏の生き方。
プラス思考で、与える心を生きようとする世界。徹底して与えようとする。
自分の全てを与え尽そうとする。でも自分のものを与えたって、大したことない。
小さい自分が与えても、小さいものしか与えていない。仏くらいになったら大きい自分。
大きい自分が与えたら大きい与え方だけど、それでも本心の自分と比べたら、無限分の一以下。
そしたら本当の自分、本当の幸せ、本当の人生の目的をもし追求するとしたら、もう虚の世界にはない。
どうしたらわかるか。思いの心、我の心では、答えは絶対に見つからない。
どこを探し回っても答えは出ない。人生の目的をいくら探しても出てこない。
本当の幸せを探しても、どこにもない。そしたら、本心の自分をしっかり生きようとしないと、
どんな答えも与えてもらえない。

この我っていうのは、本当に曲者。昔、達磨大師の頃に、中国の梁で武帝っていう王さまが、
仏教を興隆するための大きい働きを一杯した。お寺を一杯建てたり、僧侶を一杯育て上げたり、
仏教興隆のためにありとあらゆることに力を尽くしてしてくれた。
でもこれは、自分がした。我で、した。自分はこれだけのことをしたって。
その功徳はどれくらいか、ご褒美はどのくらい貰えるかって言った。本当にバカ。
達磨大師から無功徳って一喝される。我の心でしたことは、全部、本当に何十年命懸けでやったって、
神さまの邪魔だけをしている。何一ついいことをしていない。邪魔ばっかりしたことになる。
我でしたことは全部そう。自分がって、自分がするのはみんな間違い。根本は、神さまがしてくれている。
一大循環の相象は、完璧な神さまの働き。それが映って来る。
だから、神さまが全部してくれている。それに気付かないようだったら、我が強い。

だからお蔭さまでって。すべて神さまのお蔭でって。謙虚に謙虚に、ならないと、我の強い自分に成ってしまう。
そしたら何をしても、大きい邪魔ばっかりしている。神さまのためにって言いながら、
神さまの邪魔ばっかりしていることになる。これでは、本心に戻れない。
我の強い所には、真の神さまは、絶対に降り立たない。まず真の神さまに降り立ってもらおうと思ったら、
謙虚に、謙虚にならないと。そこへ神さまが降り立つ。そして本心の自覚を与えてくる。

支えるというのと与えるというのは、全然違う。与えるは、まだ自分のものを与える。
支えるは、神さまを与えるっていうのは、神さまに降り立ってもらうこと。
例えば、トイレ掃除をする、道路掃除をする、お手伝いしていいように思うでしょ?
これはまだ借金返しか小さい恩返し。支えるというのは違う。
支えるは、神さまのお手伝いだから、大きく下から全体を支えないとダメ。
支えるというのと、ちょろっとお手伝いというのは違う。支えるは、無限の力がいる。
大きく支えようと思ったら、大きい力がいる。そしたら余った力をちょろっとするのと違う。
一番大事なところを大きく支える。一番大変な仕事を支える。これが支える。
残った仕事をちょろっとするのは支えるではない、借金返し、小さい恩返し。
これでは神さまが降り立たない。だから奉仕だからって違う。
常に、全体を支えないと、真の神さまは降り立ってくれない。
だから大きく全体を見て、何が一番大事か必要かって、一番大事なところを支えないとダメ。

ここでも我の自分は間違う。勘違いをする。全体のために何かをしているように思う。
本心の自分だったらわかるはず。本心の自分は、神さまのお手伝い。
神さまが一番大事で必要とすることを、一番大事で必要なものを自分が全力で支える。
まず真の神さまは一番大事なところへ降り立つ。だから全体にとって、今何が一番必要か。
その一番必要なところを自分が支えに行かないと。
そうしたら、真の神さまが一番自分の中に降り立って下さる。

だからそういう気付きが絶対に必要。どこにでも神さまが降り立つのではない。
まず自分の生き方と同じ波のものしか、自分は受け取れない。
真の神さまの働きは、本当の支え合いの心を起こさないと受け取れない。支え合う前に、支える。
支えるというのは、本当に下座について、下から全体を押し上げるように、
支えるように大きい力を発揮しないとダメ。昔から縁の下の力持ちと言うけれど、自分を出さずに、
大きい力を出して、大きい建物を支えないとダメ。一番大変な仕事。
でもそれが真の神さまの力が降り立つすがた。お山の大将になってはダメ。
お山の大将というのは一番小さくなる。小さい山のてっぺんに立つ。一番小さくなっていくのがお山の大将。
必ず引きずり落とされて、また小さい砂粒になって一番下に落ちる。



(平成27年6月27日のお話①)