そのうちに、真祈りシールが誕生する。真祈りシールは、出来たのを護摩の祭壇の前に持って行って、
真の神さまに降り立ってもらって、本当に光を込めてもらう。その時に、シールが真祈りシールに変わる。
これは、ご利益信仰の御守りではない。本心開発の為の御守り。思いを消して、本心に戻す御守りになる。
これは、誰かれなしにもらえないと思う。まず、数量が限定されるから、本当に必要な人に渡されると思う。
本当に、本心の自分に戻りたい人。その人に御守りとして神さまから与えてもらえると思う。
大きく思いを消してくれて、本心を引っ張り出してくれる。

神さまのお手伝いに、色んなことを次から次へと与えてもらって、させてもらうと思う。
ただこれは、支え合いがないとダメ。みんなで支え合わないと、真の神さまと波が合わない。
一番大事なのがそこ。自分は、神さまの為に絶対奉仕に生きて、支える心をしっかり生きている、
これがまだ一人だったらダメ。そういう人が大勢、力を合わせた時に支え合い。
そこへ、真の神さまが大きく降り立つ。この時に本当の奇蹟が起こる。

だから、一人ではダメ。本当に神さまへの絶対奉仕に生きるって決めて、支える心を生きる人が大勢集まって、
手を握らないとダメ。それで、支え合いの輪を作る。その輪の中へ神さまが大きく降り立つ。
その輪へ、みんなを誘い込めばいい。大きく思いを消して、本心に戻してもらえる。
この為に、神さまが一生懸命、今、応援してくれている。

だから、祈り方が小さい祈りでは、神さまは降りない。大きい心で祈ることが一番の大事な事。
神さまの助けは、必要なだけしか降りてこられない。個人の小さな祈りだったら、必要性が小さい。少ない。
だから、真の神さまが降り立つほどではない。だから、大きい心で祈る、これがもう絶対必要になる。

例えば、仏の四無量心(しむりょうしん)ってある。仏の四無量心。四つの無量の、功徳ある心。
菩薩は、まだ小さい。仏くらいにならないと、本当のお祈りの心ではない。
慈悲喜捨の心。四つの無量の功徳ある心。慈というのは、楽を幸せを与える働き。
悲というのは、抜苦、苦を除き、悩みを消す働き。
喜って、喜ぶ。他の喜びを自分の喜びにする。他の幸せを自分の幸せにする。
みんなの幸せを自分の幸せにする心。

捨って、捨てる。捨てるというのは、一切執着しない。一大循環の流れのままに任せること。
だから、来たるものを拒まず、去る者は追わず、という言葉がある。
必要なものが来る、必要無くなったら、全て去る。
ところが、思いの執着の心は、選り好みして受けようとする。
それで、執着していると、消えていくのを追いかける。これはやっぱり、苦しむ心。
だから、神さまに全託して、流れるままに、受け取るのが必要。これが捨の心。捨てる心。
全てを神さまにお任せ、全託する心。だから、仏の四無量心の心に自分がなって祈ると、真の神さまの助けが大きく降りる。

自分の心、我が心、神の無限の愛、仏の四無量心と一体。そして、虚空に広がって、宇宙に満ち渡って、
全ての衆生を見て、そして、その苦しみを和らげ、楽を与えようとしている、このくらいの祈り方。
四無量心の祈りが要る。そしたら、真の神さまが自分を大きく使ってくれて、降り立ってくれる。
宇宙船護摩木がそれを目指している。全てに真の神さまを与え続けて、一切の思いを、マイナスを、
我を全部消し切って、大きいプラスをずーっと与え続ける、本心の自覚を与える、幸せ一杯にしてしまう。

宇宙船護摩木を書く時も、最初はまだ、小さい自分が書いている。小さい祈り方。
これをどんどんどんどん大きくするほど、神さまの力が大きく降りるようになってくる。だんだんと大きくなっていくはず。
大きくしてもらえる。そして、宇宙が自分と言っても、まだ小さい。虚の世界の宇宙だから。
神さまの絶対の中心へ戻していく。絶対の中心から全ての全てに、真の神さまを無限に無限に一杯与え続けるだけという風になる。
そして、みんなに本心の自覚を大きく与え続けるだけって。それが、ありがとうございますになる。

言葉が心になり、行いになる。これが本当の原則。根本の原則。まず、言葉が一番大事。これはもう変わらない。
言葉を選んで、唱え続ける、祈り続ける。必ず、その言葉通りの信念が生まれる。その信念が現実化する。運命となる。
形に表われてくる。それで、消えていく。全て言葉通りに移り変わって、消えるだけ。
だから、真のプラスの言葉を選び続けて、祈り続けたら、必ず、信念も形の方も、全部神さまのすがたを表す。
もう徹底して、祈り続けるだけが本当は正しい。

真のプラスの言葉って、具体的に現実にあるのではない。
常に神さまの絶対の中心から、新たに新たに生まれ出てくる言葉が、真のプラスの言葉。
単なるプラスの言葉は、過去のものでもいい。でも、真のプラスの言葉は、神さまから新たに新たに、与えてもらう言葉だから、
ありがとうございますという祈り言葉も、今新たに現れる、一番新しい神さまの言葉。これに最高の力がある。
新しい真の神さま。真の神さまの全て、全体になる。これが、新たな一言のありがとうございますになっている。
これは、真のプラスの言葉を選んで使ったことになる。これが本当の祈りになる。

ありがとうございますを絶対の中心から与えてもらって、受けて、使っているという祈り方、
これを一回一回、新たに新たに祈り続けると、本当の祈り。本当の「信」が生まれる。
信念でも、積み重ねた「信」よりも、今の一瞬に出来上がる「信」が本物。
過去の言葉を積み上げて創った「信」は、まだ偽物の方。新たな一言で創り上げた「信」が本物の「信」。
これは、一瞬に全てを変える力がある。一大奇蹟を一瞬で起こせる力がある。積み上げた「信」は、縛られた「信」。
それ以外のことは、起こらない。他のことは出てこない。積み上げた言葉通り、「信」通りにしか出ない。

ところが、今、新たな一言の「信」は、自由自在に何でも生み出せる「信」。
虚の世界の方は、ほとんど積み上げた「信」。だから、自由がない。積み上げたものが形に出てくるだけ。
でも、神さまの方の新たな「信」というのは、いつでも一大奇蹟を起こせる「信」。
真の神さまの絶対の愛だけを信じ切って、神さまの本当の力を信じ切って、自由自在に何でも起こせる「信」。
これが、新たな一言のありがとうございますの「信」。これを本当は目指す。
そしたら、常に、新たなる真の神さまだけ、本当の一大循環の相象、これも新たな一大循環だけ。
本当に流れるまま。次から次へと移り変わるのは、より大きいプラスになるだけ。全て良くなるだけ。

だから、何が問題かって、何も問題は無い。本心の自分を生きたらいいだけ。
本心の自分を生きていたら、全てうまくいっている。忘れた時に、思いの世界にはまり込んでいる。

本心の自分を生きる、これは、祈り続けたら、それだけで大丈夫。
ありがとうございますって祈り続けたら、本心の自分は絶対消えない。
ありがとうございますだけで、本心の自覚はどんどん大きくなる。
そしたら、思いを消していける力が、もうそのまま備わっている。思いの影響を絶対受けなくなる。
思いがあるからどうのこうの言うのは、まだ本心を生きていないから。言い訳みたいに言う。
本当に自分が本心の自分を生きようとして生きたら、思いの影響を一切受けない。

だから、どれだけ真剣に真の神さまと出会おうとしているか。神さまを本当に受け入れようとしているかだけ。
真の神さまに本当に出会いたいって、これだけがあれば大丈夫。神さまの方から喜んで飛び出してくる。
その代わり、真の神さまだけを選ばないとダメ。他の誘惑に負けたらダメ。偽物に負けたらダメ。
本物は、真の神さまだけ。最高のものは、それだけ。真の神さまだけに出会いたいという気持ちがあったら、
喜んで飛び出してくる。そしたら、絶対に負けない自分。

本当の人生の勝利者って、本心の自分が、我の思いの心に負けない自分になればいいだけ。
思いを消せる自分になったら、本当の人生の勝利者になる。それで、本心の自分を生きる為に、
常に自分に言い聞かせる言葉がある。絶対奉仕に生きますとか、全託に生きますとか、恩返しに生きますとか、
色々たくさん言葉がある。随神(かんながら)、神催し、神任せって、これも最高の生き方の言葉。
また、空、無為、全託というのもそう。本心の自分を生きるという誓いの言葉。無心、無我、無欲もそう。
宇宙に1本のロープを渡して、綱渡りをしている時に、本当に心が揺れ動かないかどうか。
揺れ動かない心は、虚心坦懐の心と言う。本当にお任せしたら、神さまにお任せしたら、神さまの懐の中。
神さまの手の上。絶対に心を動かさない。

どれだけ神さまの愛の御手の中って信じられるかどうか。全て神さまの愛の中って思ったらいい。
そしたら、心配することは何もない。どこへ落ちても大丈夫。これもやっぱり言葉通り。
どういう言葉を選んで、どれだけ繰り返しているかで決まっている。それで、ありがとうございますに絞り込むこと。
必ず、神さまが出て来てくれる。自分の中を通り抜けて、実感(観)を与えてくる。

(平成27年6月20日のお話③)