世界には色んな問題がある。でも、その問題をどうしたら解決できるか。問題の原因はどこにある?
どうしたら、その問題が消えていくか。どこに根本の原因がある?
これは、本心の自分を生きるか、思いの我の自分を生きるか、このどちらか。本 の自分を生きたら、プラスだけになる。
思いの我の自分を生きたら、マイナスだけになる。問題が一杯になる。

 例えば、イスラム教は、一神教。アラーの神の他に何もないという。
その教えを受けた時、本心の心だったら、アラーは、天照大御神のアラー。略したら、アラ。真の神さまだけという意味。
アラーの神が全てを支えて、幸せ一杯にしようとしているすがた。
本心の心だったら、全ての教えを中に一大包容して、全てを生かして、支える働きをする。本当の平和の働きをするはず。
ところが、思いの我の心だと、イスラム教だけが最高で、他はダメだと言う。ものすごく排他的。
他を全部滅ぼしてでも、イスラム教だけを残そうとする。
同じ教えを、本心の心で受けるか、我の思いの心で受けるか、全く正反対になる。
教えが悪いのではない。神さまが悪いのでもない。受け方。
本心の自分を生きているか、我の思いの自分を生きているか、この違いだけ。

仏教でも、法華経が最高の教えだと、説かれている。この法華経を受ける時に、本心だったら、
例えば、法華経の中に観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)ってある。
観音様は、33身に身を変じて、一切を救うと言う。全ての教え全部が、観音様の救いの働きのすがたをとっているはず。
だから、全ての教えを褒め称えて、支えて活かさないとだめ。絶対に排他的にならない。
本心の自分が法華経を信じるのだったらそう。
ところが、我の思いの心が法華経を信じたら、これだけが最高、これ以外全部、邪教だ、間違いだって決めつける。
本当に排他的な一宗一派に捉われた生き方をとってしまう。法華経の教えが悪いのではない。
本心の心で信じているか、我の思いの心で信じているか、その違いで正反対になっている。

だから、自分が本心の心を生きていたら、全部プラスに変わる。反対に、本心を忘れて、我の思いの心を生きたら、
全部大きいマイナスになっていく。そしたら、全てを、全ての問題を右左に解決できる自分になる為にどうしたらいいか。
我の自分から、本心の自分に戻るだけ。それで、全部解決する。迷っている自分が悟ったらいいだけ。
真の神さまと一体の自分に、本心の自分に戻ればいいだけ。どうして戻っていくか?
一人一人の自分自身の問題として捉えるのだったら、小さい生き方でもできる。五欲の心に負けない自分になっていけばいい。
求める欲の心に負けなかったらいい。本心の愛の心を生きられるようになったら、全部問題は消えてしまう。

そしたら、思いの自分に打ち勝つ、本心に戻る為の修行って、どんな修行がある?たくさん色々あると思う。
私も、小さい時に、一つの道を歩ませてもらった。私は、幼稚園に通っていた。背広を着て、ネクタイを締めて贅沢三昧だった。
ある時、神さまが、本当の修行、悟りへの本当の修行は何か、真の神さまと一体化する為に何が必要か、
神さまの本当の力をもらう為にどうしたらいいか、一切の問題を右左に解決できる自分になるにはどうしたらいいかって、質問してきた。
色んな修行が世の中に一杯あるけど、断食したり、滝に打たれたり、色んなものがあっても、そんなのは本物ではないって言う。
これから本当の修行をさせてあげるって、させてもらったのが何かって。耐乏生活。

先ず、父が時計屋をしていた。時計屋を辞めさせられた。それで、借家や家を全部売り払って、お金ももらえない、
時計屋も辞めさせられた途端に、お客さんが一人も来ない。それまで、日に10人くらいは来ていたのが、ピタッと止まる。
家財道具を全部、質に入れたり、全部売り払って、もうスッカラカン。何も無くなった。ちょうど、私が小学校の1年生くらい。
これから、本当の修行をさせてあげるって言う。

家も無い。着る物も着替えも無い。食べ物も無い。仕事も取られてしまっている。どうして生きるかって。
先ず、トタン葺きの6畳の物置を近くの人から借りられた。そこへ家族6人、布団が無かったから、ワラ布団。
もう家財道具、一切が無い。全部無くしてからの話。水も無い。遠くに貰いに行く。
まず、食べ物が無い。どうするか。野菜くずを拾いに行く。畑の捨てている野菜くずを拾いに行く。
焚く木が無い。道に落ちている木を拾い集める。まず、調味料が無い。シャツが破れたら、繕う糸が無い。針が無い。着たきり雀。
そこまでまず落としておいて、そこから耐乏生活をしなさいって。

一番安い内職だけは、させてくれた。それが何年続いたと思う?神さまの導き方は上手。
「1年だけ頑張りなさい。」「あぁ良くできたね、あと1年。」「あぁますます良くなった。良い修行ができている。もう1年」って。
1年延ばしで12年間。小学校1年からずーっと、高校卒業まで。本当にお金が無いの。
安い内職をしても、1か月2000円ぐらいしかなかった。それで何が買えるかって、1食分の小麦粉が買えなかった。
そしたら、学校でも、PTAの会費が要る。給食代が要る。払えない。給食を食べられない。
遠足なんか行けない。映画鑑賞も行けない。そんなお金が無い。本当に着る物は着たきり雀。着替えが無かった。
高校へ行っている時もそう。開襟シャツ1枚。1年の時、背中をかぎ裂きにした。
1枚きりしかないから、ずっとかぎ裂きのシャツを着ていた。食べ物も、ずーっと無かった。
三食は絶対食べていない。一食ぐらい。

そしたら、どれだけ強くなれるか。まず、食欲には、絶対負けない。もう小学生の時に断食をしている。
給食の時は、みんなと一緒に食べられない。必ず外へ出ている。家に食べに帰るようなふりをして、外にいた。
家に帰っても何も無い。本当に家に帰っても無かったら、やっぱり親がまず、自分が食べないで子どもに与えようとする。
それを見ていると、食べられない。そしたら、自分から小学生の時に、一週間二週間断食する。
別にお腹が空いてないからって、頑張る。水だけは飲む。水道の水を一杯ガブガブ飲んで。

本当にお金無しでずーっとくると、人と同じ真似は絶対にできない。
最初は、人と違うことをするのがやっぱり嫌だった。同じことをしていると、まだ仲間外れでないような感覚だけど、
常に人と違うことばっかりさせられる。人と同じことは何もできない。

お正月でみんな遊んでいるところでも、大勢の遊んでいるところへ行って、溝の泥を掘って、ドジョウを捕っている。
みんな見ている。みんな着飾って遊んでいるのに、何で自分だけが氷の張った泥の中に入って、
手袋も靴下も靴もない裸足で、手肌なんてひび割れして、松の木の皮みたいになっている。
石鹸もないから水洗いだったら、黒いのが取れない。

でもその中で、必要なことを一生懸命する。それでいつも教えてもらう。
人の本当に嫌がる仕事を喜んでしないと、神さまの御心と違うのだ、神さまの御心ではないんだって、喜んでくれないって。
神さまが喜んでくれなかったら、助けに降りてもらえないと言う。
だから、本当に人が嫌がることを、喜んでしなさいと言う。嫌々したら駄目だ、喜んでしなさいと。

食べ物は、断食したり、色々して耐えられるようになった。家の前にパン屋さんがあったから、売れ残ってカビが生えたものは貰えた。
カビを取って焼いて食べるのが一番のご馳走。借家で、家が下にあって、貸していた人の住んでいたのは二階だった。
ある時、その子供が寝小便か何かで、小便が上から落ちてきて、炊いたお粥の中に流れ込んでいる。さぁ、どうするか?
普通は捨てる。捨てたら食べるものが無い。だから、そのまま食べる。捨てられない。捨てる訳にはいかない。
食べられない。何も食べないよりはいい。そのまま喜んで食べる。喜んで食べないといけない。

私の姉も、小学校の体育祭の時、体育用の黒か紺のブルマーが無かった。だから、色んな色がついた布を寄せ集めて、
継ぎはぎのを作った。とにかく、何かを履いていかなくてはならないからって。それを担任の先生が「風車」って冷やかした。
もう、それっきり学校に行かなくなった。本当に何も無かった。

私も小学校の時に総代で卒業式の時に出た。何を着ていったか?女の子の服を着た。無かったから。
男の子の服が無かった。女の子の服を着て行った。みんなの前で。でもそれで、恥ずかしいと思ったら、
五欲の虚栄心、名誉欲、名声欲に負けている。もうどんなことがあっても、負けない自分にならないとダメ。

色んな体験を与えてもらって、絶対に人の思いや考えや言うことや態度やって、人に振り回されない自分にならないといけない。
人がどう思うかなんて思っていたら、虚栄心に負けている。自分をよく見せようとしたら、虚栄心。
人を一切相手にしない自分にならないとダメだと思った。

だから、人の評価なんかどっちでもいい。神さまがどう認めてくれるか。これしかないと思った。
それで、神さまだけを相手にするように仕向けてくれた。絶対人は見ない。今も頑固だから、人の言うことを一切聞かない。
小さい時からそうなっている。ただ神さまの言うことだけは、「はい!」と聞く。
何が何でも、「はい!」って聞く。神さまへの絶対奉仕だけは、もう絶対守る。
だから、神さまへの「信」は、絶対崩れない。

病気したり怪我しても、薬やお医者さんに頼るお金が無い。
最初は、風邪を引いたらアスピリンって、風邪ひきの薬、熱さましの薬を、お金が無いのに買いに行く。
「アスピリンちょうだい」って行く。貰ってからすぐに、「あぁ、今日はお金忘れた。すぐに持ってくる」って逃げて帰る。
二、三回はこれで通る。でも、そんなことをして、人を騙して、借りてまでしたらダメ。
それで懲りて、絶対借りたらダメって思う。返せないのに借りるのだから。
必ず返せるという見込みがあるのならわかるけど、絶対返せないのが分かっているのに、借りに行ったからバカ。
やっぱり神さまに叱られる。

神さまは、借金は絶対したらダメって厳命を下してくる。そしたら、どうしたらいいか。
これも、神さまに縋るしかない。どんな病気をしても神さまに縋って、治してもらうしかない。
そしたら、神さまはちゃんと答えてくれる。神さまだけに縋ったら、どんな病気でもさっと治してくれる。
怪我しても、すぐに治してくれる。

それで神さまに縋る、頼る「信」だけを深くしてくれた。神さま以外に一切頼らない。
今もそうだけど、小さい時からそうだった。だから、人にも頼らない、物にも頼らない、何も頼らないって。
もう神さまだけに頼るんだって、これを鍛え抜いてくれた。

(平成27年6月20日のお話①)