祈り方のコツって、一杯ある。まず、姿勢も正さないとダメ。姿勢を正さなかったら、絶対神さまは降りない。
神さまは、姿勢が悪くない。ちょうど、霊媒に降りる神さまを見ていたらわかる。高い神さまは、どんな姿をとるか。
もう本当に姿勢が、すーっと通っていて、威儀端然とした姿。高い神さまは全部そう。一瞬にスーッと変わる。威厳がある。
ところが、低い低級霊が神がかりしたら、くねくね体をくねったりしている。
その心境のままのすがたをとる。動物霊なんか憑いたら、動物のように跳ねたりする。跳び上ったりしている。
ヘビのようにくねくね体を動かしたりしている。

真の神さまが降り立って下さる自分と言うのだったら、本当に姿勢一つ見てもそう。
それにふさわしい姿勢を保とうとしないとダメ。しんどいからって、姿勢を崩したらダメ。
足が痛いからって、足を崩すようだったら、まだ足りない。
自分の顔の表情でも、どういう表情をしているかって。鏡を見るのは何のためかって。自分の心を見るため。
心の通りの表情をとっている。信念通りの表情。神さまが降り立ってくれる表情はどういうものか。
眉間にしわを寄せているようではダメ。神さまは降り立たない。不平不満、不足の心を持っていて、顔が暗い顔になっていたら、
そんなところに神さまが降り立つわけがない。いつもニコニコ笑わないと。

天岩戸開きで、天照大御神様を引っ張り出す時、全てが笑い転げて、引っ張り出した。
一人では足りないから、みんなが笑い転げて、天照大御神様を呼び出した。
真の神さまは、そのもう一つ大元。真の神さまを引っ張り出すと言ったら、もっともっと喜び続けて、笑い続けて、
引っ張り出さないと降りてくれない。病気で苦しいから、しんどいからって、暗い表情をとったら、反対に神さまは逃げ出す。反対。
祈りの特訓だったら、そこで、喜び続けて、笑い続けないとダメ。

悟りを開いた人はみんな、見ていたら分かる。例えば、黒住教祖。親孝行で、お父さんが下駄を履いて行きなさいって。
お母さんは、草履で行きなさいって。ちんばで履いて行った。そのくらい親の言うことを素直に、はいはいと聞いた、親孝行な人。
その両親が相次いで亡くなった。その悲しみって大きかった。
だから、悲しみの極に、もう明日も知れないくらいの病気になって、お医者さんも見放す。
もう明日、死んでしまうって断言するようになった。もう明日、今日一日の命だって。
もう治る見込みもない、回復もしない。もう今日一日だけの命だって、宣言されてしまう。

その時に初めて、こんなことしていて、親孝行かどうか?って、反省する。こんなことで、親が喜ぶわけがないって。
そしたら、今日1日、本当に感謝し続け、喜び続けて、笑い続けて、この寿命を全うしようと反省した。
そして、それを実行しようとした。悲しみの極にある自分が、本当に全力を尽くして、喜び続けて、笑い続けた。すごい努力が要る。
悲しみの極にある自分が、喜びの極に立とうとする。でも、やった。実行した。そしたら、そこへ天照大御神が降り立った。
黒住教ってそう。天照大御神様を感じた時から始まった。本当の奇蹟が起こった。
もう、明日死んでいないというのが、完全に治って消えて、悟りが開けた。

大きい問題があるから大変ではない。反対。大きい問題を与えてもらった時が、悟りのチャンス。真祈りの伝授のチャンス。
みんな勘違いをしている人が多い。楽になろうとして、反対にマイナスに見て、逃げようとしている。違う、反対。
真の神さまだけにすがったらいい。どんな問題も全部解決する。本気ですがったら、一日で悟りが開く。

お釈迦様は、6年間苦行をした。王子として生まれて、贅沢三昧できるのに、全部捨て切って、6年間の苦行って大変。
本当に骨皮筋衛門になっている。ありとあらゆる苦行を体験する。
それで、6年間苦行をして、本当に悟りが開けたかって、悟っていない。
苦しいばっかりで、その時の自分の姿を見たら、幸せな顔をしていない。
いかに苦しみ続けて、大変かっていう、不幸な顔をしている。

その時に、近くの乙女が牛乳を下げて通る。それをちょっと恵んでくれる。この時にハッと気づいた。
自分は6年間苦行をして、悟りを開く為に一生懸命努力をして、偉いと思っていたけど、違う。乙女の方が幸せな顔をしている。
何の修行もしていない、若い乙女が牛乳を運んでいる、そのすがたを見ただけでも、幸せ一杯の顔をしている。
自分は、いかに不幸な顔をしているかって。その差に気付いた。いかに愚かな生き方をとったかって。

その時、嫌と言うほど、本当の天地の恵みを感じた。大自然の本当の愛の光を感じ取った。
その時に、金星から大きい光がサッと降りた。それで、一瞬に悟った。本心の自分に戻った。太陽からではなかったけど、
明けの明星、金星から大きい光が降りた。やっぱり、大自然のどこかから降りる。
必要なところからスッと、縁の深いところから、大きい悟りの光が降ろされてくる。
これもお釈迦様も、本当の喜びをつかんだから。喜んだから。苦行をして、苦しい苦しいと言う間はダメ。どっちでもできた。
まだ10年でも20年でも苦しみ続けることはできた。

バラモン教なんか、一生苦行に励む人が多い。一生クソを食べ続ける人が多い。修行だと思ったらそう。
でも、見方を変えたら、一瞬に大きいプラス思考に変わる。全てをプラスに見て喜べる。一瞬。心の向け方ひとつ。
そしたら、どういう言葉を使って、どっちへ心を向けるか。これだけ。真の神さまへ心を向いたら、全部プラス。
反対に、背を向けたら、みんなマイナス。

だから、真の神さまと一対一の関係に立つ。真の神さまだけって、しっかりと認める。これも本物かどうか。単なる言葉ではダメ。
本当に実感できているかどうかが問われる。この世を眺める時に、単にこの世って認めたら、神さまを無視している。
でも、この世を真の神さまの救いのすがたと見たら、真の真のこの世って見るのだったら、
まだ、神さまの働き、愛の姿だけ見ている。一切をマイナスに見ていない。全てを大きいプラスに見る。
どんな姿も神さまの愛のすがた、振り替えの愛のすがたって見ていたらいい。

そしたら、全部、マイナス半分ずつ、取って消してもらっているすがた。マイナスは、どんどんどんどん半減していっている。
マイナスが消えていく、消えていっているだけ。消してもらっているだけ。絶対増えていない。どんどん減っていっている。
それで、大きいプラスがどんどん加わっている。そしたら、必ずプラスだけに置き換わる。本当の大きいプラスに置き換わってくる。
全てが真の神さまの真のプラスだけが降り注ぐ、というふうに感じられてくる。

虚の世界から出発しても、神さまの世界へすぐに戻っていける。真の神さまの一大循環の世界へすぐに戻れる。
だから、本当に真の神さまを、真の神さまの働きだけを認めているかどうか。
もう徹底して、本物だけを言葉で、言葉を使わないと認めるのは難しい。
真のプラスの言葉を使って、真の神さまの働きだけをしっかりと認めていく。そしたら、真の神さまと1対1の関係に自分を置ける。
プラスだけがどんどん大きく増えてくる。そして、悟りの世界へ戻してくれる。

色んな問題、大きい問題を与えてもらった時ほど、神さまに大きく愛されている時、悟りへのチャンスを、
真祈りの伝授のチャンスを、大きく与えてもらっている時。苦労の多い時ほど、大勢の神さまが付き添って、
助けに来てくれている時。反対に見ると損をする。表面、幸せそうに見える時は、ほったらかし。ほっといてもいいと思っている。
でも本当は、この世的な幸せで満足してほしくないから、本心の自分に戻って、無条件の幸せが湧き上がらないと幸せでないから、
どんな時も本心に戻そうとしてくれている。真祈りを祈れるように、一生懸命、護りに護ってくれている。

 小さい自分は幸せでも、周りに不幸な人が一杯いる。マイナスを抱えた人が一杯いる。
それを本当に支えて助けようとしたら、支え合いの心の勉強で、同じ勉強を一緒に全部できる。
みんなの勉強が、みんな自分の勉強。自分の為の勉強を、みんなが肩代わりして、代わりにしてくれている姿。
それを支えようとしただけで、自分も同じ勉強したことになる。
そしたら、もう一つ楽にできる。人ごとではない。あの人は勝手に苦しんでいるというのは、違う。
自分の為に、自分の身代わりに、悟りへの特訓を受けてくれていると思わないと。

 真祈りの伝授を受けるために、本当は、自分も同じこと以上をしないとダメ。
でも、周りの人がいろんな姿、形で、その真祈りの伝授のための特訓を、いろんな姿、形で受けてくれている。
ただみんなを支えて一緒に、真祈りの特訓を受ける。もう命懸けで祈り続ける。
真の神さまだけ、真のプラスだけ、本当に神さまの光だけを認めていくというのが必要。

どれだけ真剣に真の神さまだけって言えるかどうか。表面のプラス、マイナス、善悪にとらわれたらダメ。
神さまの愛の姿だけって、徹底してプラスだけに心向けないと。マイナスに見て、かわいそうなんて大間違い、違う。
マイナスの大きい人ほど幸せ。ああ、いい勉強している。悟りの特訓を受けて、ああ幸せな人って、
私もあやかりたいから支えましょうって。その位の気持ちでないと、真の神さまをとらえていない。

神さまの御心、願いは何かって。まず自分が絶対の中心へ戻ること。そこに本当の幸せがあるから。
そして、みんな支え合って、力を合わせて、そこへ戻ろうとしないとダメ。一人だけ戻ったらいいのではない。
一人では戻れない。みんなを先に戻そうとすると、一番先に自分を戻してくれる。自分が戻れる。
悟りというのは、みんなそう。自分一人が悟ろうと思う人は、偽の悟りで終わってしまう。
みんなを神さまの世界へ戻して、絶対の中心へ戻そうとしたら、自分を一番先に戻してもらえる。
これが支え合いの心。だから、支え合いに生きる。そして、祈り続ける。大事なのは、これだけ。
支えを忘れたら絶対にダメ。

(平成27年6月13日のお話③)