神さまの御心を汲み取るって一番難しい。御釈迦さんの弟子でも、なかなか御釈迦さんの御心って解らなかった。
十大弟子でも奥深いことは、なかなか解らない。大勢、何万人って集まった弟子でも、ちょっと高い教えを説いたら、
みんな逃げて行った。本当にさーっと逃げ出してしまう。浅い教えだったら、いくらでもついてくる。
ご利益信仰を説いたら、いくらでも集まって来る。ちょっと奇蹟を見せたら、一杯集まって来る。
でも、本当の教えを聞いたらみんな逃げ出す。

十大弟子でも、本当の御心は分からなかった。それで、ある時、お釈迦様が蓮華の花をちょっと握って、
ちょっとひねってニコッと笑った。その時、大勢の観衆の中で、一人だけ、「ああわかった」という
ニコッとした顔をした人がいる。
それは、誰か。摩訶迦葉(まかかしょう)。その人は、十大弟子の中でも座禅ばっかり組んだ人。祈り続けた人。
説法なんかしない。ただひたすら祈り続けた。その眼を見たら、みんなビビった。震えが来るくらい、恐ろしかった。
そのくらい真剣に祈り続けた人。その人の周りに集まる弟子も、祈りばっかり。他に何もしない。祈り続けた人ばっかり。
そこまで命懸けで祈ったから、お釈迦様の御心をちょっと汲み取った。それで、お釈迦様の後を継いで、第二祖になっている。
祈り続けた人。でもまだ、それが本物かどうかわからない。もっと奥深いものをお釈迦様は持っている。
ただ、まだそこまでいかなくても、ちょっとは汲み取った。

そしたら、第三祖の阿難尊者(あなんそんじゃ)は、どういう人か。お釈迦様の付き添い人。
ずーっとお釈迦様の身の回りのお世話から何から何までして、付き添っていた人。言われたことを「はい」って素直にした人。
でも、だんだんとお釈迦様の心を汲み取ろうとした。遠く離れていても、いつでもお釈迦様の心を汲み取ろうとした。
今、お釈迦様は何を願っているか。何を必要としているか。離れていても分かるようになった。
あっ、今熱いお茶が欲しいのかなって、さっと持って行ける。それは、表面的な浅い意味だけど、
本当に、お釈迦様の心を汲み取ろうとした。命懸けで。そしたら、やっぱり、お釈迦様の奥深い悟りの心も汲み取れるようになる。
そしたら、迦葉尊者の後を継いで、第三祖になっている。

だから、神さまの御心を汲み取るって、どれだけ大変か。祈りに祈る必要がある。
常に、神さまの御心を汲み取ろうとしないと解らない。表面の言葉ではダメ。
表面の言葉は、お釈迦様の説法でも、表面の言葉は、少なくとも、十通りの解釈がある。十界ってある。
心境ごとに大きく分けて、全部違う受け止め方をしている。

だから、お釈迦様の説法は、如是我聞というふうに聴く。心境の違いで、全部言うことが違う。聴いている内容が違う。
同じ話を聴いていて、中身が全部違う。「私は、こういう風に聴いた。」
別な人は、「私はこういう風に聴いた」って、全部聴き方が違うから如是我聞というふうに定めている。
だから、お釈迦様がこう言ったって、言わない。絶対言ったらダメ。
これは、間違い。大きい間違い。お釈迦様は、そんな一通りの話なんかしていない。全部に通ずるように話をしている。
本当は、無限通り。

無限通りに話をしている。そして、1番最高のものを説こうとしている。無限の段階の下を説こうとはしていない。
1番最高のものを1つだけ説こうとしている。ただ、受け方、汲み方が違う。
だから、お釈迦様がこう言ったというのだったら、最高の言葉を言葉にしなかったら間違っている。
低い段階の言葉なんかを、お釈迦様がこう言ったって言ったら、お釈迦様をバカにしている。罵倒しているのと同じ。
悪く言っているだけ。お釈迦様は、そんな低い教えは説いていない。こっちの方が正しい。

だから、神さまの御心を汲み取るって、もう一つ大きい。単なる人ではないから。
真の神さまが全体だから、真の神さまの御心を汲み取るって言ったら、
どれだけ凄いか。少しでも、マイナスを認めたらダメ。少しでもつまらんプラスを認めたらダメ。
少しでも小さく認めたらダメ。部分ではダメ。常に、1番大きく、本当に最高に完璧に、認めなかったら、
神さまの御心を本当に無視して、拒絶しているすがた。

だから、真の神さまが何を願っているか、何を現実化させて、実現してほしいかって。本当は、虚の世界を変えたいのではない。
虚の世界の何かを実現したいのではない。そんなつまらないものではない。
絶対の中心から真の神さまの与えてくるものは、入れ子構造的な大きいプラスばっかり。それを邪魔せずに、受け続けてほしいだけ。
大きい流れを止めないで、受け続けてほしい。だから、執着して、これが自分のもの、これが自分ってつかんで欲しくない。
最高のものだけを、一瞬一瞬新たに、永遠に受け続けてほしい。だから、絶対に一大循環の相象を邪魔してほしくないだけ。

だから、虚の世界に何かプラスのものを実現する、こんなのは嘘。こんなことをしたって、
神さまの御心の無限分の一も何も出てこない。神さまの世界だけでも、絶対の中心から出てくるものが大きく流れて、
末端まで行ったら、無限分の一以下。虚の世界なんて、神さまの御心なんて何も出てこない。
だから、神さまへの奉仕なんだと言って、何かプラスをしたから神さまへの奉仕かって、全然違う。
そんなものに神さまの御心、何一つ出ていない。反対。

神さまのしてくるのは、マイナスを、思いを、我を全部消すこと。全部消そうとして、助けてくれている。
そしたら、消してもらう方法は何か。神さまに自分を預けること、全託すること。全託って何か。
自分の全てを神さまの為に、与え尽くして、捧げ尽くして、使い切ること。神さまに預けないと、渡さないと、消えない。
元から我というのは、神さまのものをつかんで、盗み取っただけ。
つかんで自分のものにしなかったらいいだけなのに、残像ってみんなそう。
過去のものをつかんで、本当は、つかめないけど、つかんだと思って、自分のものにして、思いを溜めたら残像。虚の世界。
それを消してもらうのは、もう1回、神さまへお返しするだけ。それが絶対奉仕の生き方。

ただ、絶対奉仕と言っても、自分一人では、自分の全部、お返ししきれない。いくら消そうと思ってもキリがない。
次から次へと湧いてくる我を、思いを、神さまに捧げ尽くしたって、際限なく湧き続けるから、疲れ果てておしまい。
だから、支え合って、大きい相乗効果を起こして、一緒に自分にできない時は、一緒に助け続けてもらわないと、
同じ我や思いを消すのでも難しい。これも、この世の人だけの支え合いでは、無理。
あの世のすべての、支える力をもらわないと出来ない。また、神さまの世界の悟った、本心の大勢の支えが要る。
だから、支え合いの心を起こさないと、支えてもらえない。波が合わない。

なぜ、支え合いのことを、いつも言うのか?この世の支え合いなんて、本当の支え合いではない。
ちっぽけすぎて、表面だけだから。でも、支え合うという気持ちが無かったら、奥の支えは、絶対受けられない。
本当の大きい、無限の大きい奥からの支えは、絶対感じ取れない。

でも、支える心を起こしたら、支え合う心を起こしたら、ちょっと感じ取ってくる。
感じ取れた分だけ、大きく支えが入ってくる。どんどんどんどん、支えてもらっている。
どれだけ大きく支えてもらっているか、これを感じたら、全部消してもらえる。

だから、虚の世界の十界を、十界を眺める時に、どういう見方ができるか。
もう、大抵の人は、ミニ十界に落ちて、落とし穴にはまって、抜けられない。
正しく十界を見る人でも、順番に心境を上げていくのは、無限の年月をかけても、仏界やそこまで上がらない。
菩薩になるのは、とても大変。それでは、真の神さまを一つも認めていない。
いくら、菩薩界、仏界に上がっても、完全に無視したすがたをとっている。

そしたら、真の十界とは何か。これは、真の神さまが常に降り立って、マイナスを半分ずつ背負って、
消し続けているすがたで、ああ助けてもらっているという、こういう支えを感じた時が、真の十界。
もう一段上に上がらないと、真の真の十界にならない。これは、真の真の十界の方は、神さまと共に、
マイナスを半分背負って、消し続けて、みんなを救おうとする働き。
救ってほしいは、小さい。救いに立つ方が、大きい。そしたら、真の神さまの支えの凄さが、実感として出てくる。
その大きい支えを実感した時から、本心の自分に戻る。そして、本心の自分に戻ってからが出発点。
そこから、大きい支えを順番に感じ取って、入れ子構造的に大きい自分に戻っていく。
本心の大きい自分にどんどんどんどん戻っていく。

だから、一番大きい絶対の中心まで近づいて初めて、神さまの御心を本当の意味で汲み取って、実感したことになる。
そこまで、本当に行けるかどうか。行こうとしているかどうか。本当の幸せは、そこまで行かなかったら無い。
本当の心の安らぎ、喜び、幸せ、絶対の中心まで近づかないと、本当の神さまの御心を汲み取るまでいかないと、実感できない。

真の自分に、真の本心の自分に戻るのが、本当の目的・願いのはず。
でも、そこへ戻るまでに どれだけ真剣な努力、工夫がいるか。お祈りを真祈りに変えるために、何が本当に必要か。
たくさんある。まず、祈り言葉、ありがとうございますを唱えるのでも、ありがとうございますの中身を大きく深くする必要がある。
そしたら、新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯って、この全徳をもう徹底して、繰り返し繰り返し、
具体的に箇条書きにして、一杯唱えないといけない時もある。
それを唱え続けて初めて、ありがとうございますの中身が全徳で満たされる。

本心の16項目も徹底して、本当の意味をとらえて、繰り返し繰り返し唱えないと、ありがとうございますの中に組み込むことはできない。
印可書の本当の意味も、あの印可書一枚と違う。後に書いてあるのは全部、印可書の説明文。あれを全部徹底して、理解して、
深く体得しないと、ありがとうございますの中へ印可書を組み込めない。
ありとあらゆるもの全部を、ありがとうございますに組み込まないとダメ。

ありがとうございますには16項目あるとか、今までたくさん、色んなものを説いている。
色んなものを、一杯全部、深く理解して、勉強して、体得しないとダメ。浅くとらえたのでは、役に立たない。
深く深くとらえて、そして、ありがとうございますの中へ組み込んでいく。
ありがとうございますも、入れ子構造。一番大きいありがとうございますの中に、無限のありがとうございますがある。
さらにその下の1つに、無限のありがとうございますがある。
またその一番下の一つに、また無限のありがとうございますがある。入れ子構造でありがとうございますがある。

だから、自分の唱えるありがとうございますの中に、全てのありがとうございますを中に組み込まないと、
ありがとうございますが偽物になる。本当の真祈りのありがとうございますは、すべてを中に組み込んだ、
一番大きいありがとうございます。それも、一回きり、一回きりの、新たに一回きりのありがとうございます。
これが、本当のありがとうございます。真の神さまとしてのありがとうございます。
この祈りができたら、真祈りになる。

本当に、一回きりのありがとうございますにならないと、まだ偽物。一日に何万回唱えた、こんな祈りは偽物。
真祈りではない。一回の中に全部含まれないと。一言のありがとうございますに、全てが含まれないと、
まだ真祈りのありがとうございますになってない。だから、いかにありがとうございますを小さく落としているか、限定しているか。
無礼千万と言われる。ありがとうございますが、真の神さまそのものだったら、いかに真の神さまを小さく落としているか、
ここが問題。波を合わしていない。御心を汲んでいない。

まず、祈り言葉の中身がなってない。足りない。まず、言葉の唱え方が本物かどうかが、問われている。
どういう言葉を積み重ねているか。小さくても、その言葉だけだったら、まだまし。
でも、その言葉の他につまらないプラスやマイナスの言葉を一杯使い続けている。こっちも大きいマイナス。

(平成27年6月13日のお話②)