全て言葉通りになるという法則がある。そして、言葉を積み重ねたら、人の言葉を積み重ね、信が生まれる。
信念通りになる。また、信ずる通りになる。これが法則。だから、どういう言葉を選んで使うかによって、全て決まる。
小さい運命も大きい運命も全部そう。お祈りというのも、言葉。どういう言葉を使うか、マイナスのお祈りがある。
プラスのお祈りがある。真のプラスのお祈りがある。全部言葉通り。
マイナスの祈りは、マイナスが実現する。プラスの祈りは、プラスが実現する。真祈りだったら、神さまの世界が現実化してくる。

祈りを真祈りに変える方法、コツは、何か?単なる祈りでは、奇蹟が起こらない。
真祈りに変わらないと真の神さまは降り立たないから、本当の大きい奇蹟は起こらない。
祈っていても、祈っていても、何も実現しない。ただ、言葉通りにはなる。
ただその言葉通りというのも、過去生からずーっと積み重ねた言葉の上に、今使う言葉が+αされる。

全体を一つにした信念通りにすべてが決まる。過去生でずーっとマイナスの言葉を一杯積み重ねた人は、
マイナスの信念を大きく持っている。その上に今プラスの言葉を少々加えたって、信念全体が大きいマイナス。
だから、常にマイナスを引き寄せつつある。そしてそのマイナスを現実化する。だから単に、言葉を加えていくだけでは、
今加えることはプラスでもマイナスでも僅か。過去生に積み重ねた無限の言葉の集積が大きい。単に加える言葉では力がない。
その過去生に積み重ねた、無限のマイナス言葉の集積である信念を消せるかどうか。消す力があったら、真祈り。
消す力がなかったら、単なるプラスを加える祈り。そこで決まる。

だから、真の神さまが降り立ったら真祈り。だから、過去を全部消せる。消して下さる。
そこまでいかなかったら、本当に祈りに力がない。過去生の無限のマイナスが大きい。

どうしたら、真祈りになるか。これは、やっぱり神さまの御心をしっかりととらえないとダメ。
どうしたら神さまに合わせていけるか?波を合わせられるか?神さまの御心を汲み取れるか?
神さまが何を願い、何を必要としているかを汲み取らないと、神さまはそこに降り立たない。

だから、絶対奉仕って、ここでのボランティア運動、奉仕活動全部、神さまに波を合わす為にしている。
神さまへの絶対奉仕、これが根本にある。それが一番大きな真祈り。真祈りに命を捧げないとダメ。
そして、それを支えるための必要なインフラを整備するには、真祈りだけ祈っていて、成り立つ訳はない。
それを支える全てをみんなで支えないと、全部崩壊してなくなる。まず、建物一つなかったら、集まる場所もない。
いくら真祈りだけでいいって言ったって、食べる物もない、住む所もない、そんなのでは成り立たない。
だから、真祈りを本当に支える必要なものを全部、整えなかったら、まず神さまは、降り立たない。
だから、神さまへの絶対奉仕というのは、一番頂点を目指しているけれども、それを支える底辺を全部備えないとできない。
だから、ありとあらゆる必要なもの全部、この絶対奉仕、奉仕活動で全部こなしていかないと、どれ一つ欠いてもできない。
でも、神さまの御心を、一番上の頂点をしっかりととらえないと、途中何をしても役に立たない。途中のものは役に立たない。
底辺の必要なものは、一番上を目指して、それを実現するために役に立つだけ。
もし、真祈りができないのだったら、あとは何も役に立たない。もう全部無駄。

だから、真祈りができるようになるのが、本当の目的。
それを支えるために必要なものを、みんなで支えて、真祈りが祈れるようにしているだけ。
だから、本当に目指しているのは真祈り。真の神さまが降り立って下さるお祈り。奇蹟を起こせるお祈り。何が必要か。
単に、祈り言葉を唱えてもダメ。そんなの役に立たない。

どうしたら真祈りになるか。真剣に、答えを出さないと。人の言うことなんて、誰も実行しない。
自分が納得して答えを見出さないと、実行できない。
どんなことも同じ。人真似では続かない。だから、自分が本当に答えを出したら、実行できる。
自分が本当に真剣に悩み抜いて、探し求めて、答えを出したのは、自分の身に付く。真祈りとは何か、どうしたら真祈りになるか。
甘かったらできない。

本当に地獄を消せるか。本気にならないと地獄は、消せない。地獄が消せる位だったら真祈りになっている。
そしたら、病気くらい一瞬に治せないと嘘。みんな病気になった時にどうするか見ていたら、どこへ頼っているか判る。
まず、薬に頼って、お医者さんに頼って、身近なものに、何かに頼っている。本当にこれが正しいのか。 真祈りを体得したい人が、そんなことしていたら、真祈りにならない。

真の神さまは、全てを、宇宙を生み出せる。完璧な宇宙を、完璧な全てを生み出せる。新たに新たに、生み出している。
そしたら、どんな病気も一瞬に消せる。不可能はない。そんな奇蹟は世界中、古今東西一杯ある。数えきれない位一杯ある。
奇蹟は一杯。神さまだったら何でもできる。本当に神さまを信じて、すがって祈り続ける人には、必ず奇跡は起こる。

病気になったから、本当は、病気を治したらいいのではない。病気になった時ほど、真祈りの特訓。
真祈りを体得するために、神さまが必要な勉強材料を与えて、特訓を課せている。どこにすがるかって。
真の神さま一筋にすがらないとダメ。他に少しでも心を向けたら、信が崩れる。どこまで真の神さまを信じ切るか。
もう徹底して信じ切らないと、神さまは降り立たない。この特訓。

この特訓は、常に与えてもらえるわけではない。何回かだけ。全員にではない。
特訓を与えてもらえるのは、何万年に一回、何万人に一人。
だから、その時の特訓に取り組めるかどうか。本当に真の神さまを信じ切ろうとしているかどうか、問われる。常に今、今。
先延ばしにしたら永遠に来ない。特訓のチャンスなんか全部消えてしまう。今、特訓に取り組めるかどうかって、大事なこと。

大きい問題を与えて特訓を与えてくる時は、真の神さまはもちろんだけど、大勢の高い神仏が一杯総動員で、助けに来ている時。
どれだけ護りに護られているか、わからない。その時に、病気を治してほしいとか、苦しみを取ってほしいとか、
痛みから解放されたいとか、そんな願いを持つ方が間違っている。どんな大きい痛みでも苦しみでも、喜んで喜んで、
「ああ、こんなに軽く済ましてもらった」「大難を小難にしてもらった」「大きいマイナスを小さくしてもらった」と、
プラスにプラスに受けて、更に大きい大きいプラスに向かないとダメ。
それがお祈りの特訓。それを乗り切ったら、真祈りが体得できる、伝授される。

だから、真祈りを体得する、伝授される、この機会って僅か。何もなしにはそんな体得なんか不可能。
大きい問題を与えてもらって、特訓を重ねて初めて、短期間で真祈りを伝授してもらえる。
もし、自分にそれがなかったら、人のマイナスで勉強しないとダメ。
人の為に祈る。本当に地獄に落ちた人、一人の為でもいい。祈って祈って、その人を助ける。本当に助けられるまで祈り続ける。
そしたら、真祈りが体得できると思う。

(平成27年6月13日のお話①)