本当の本心の自分に戻るためには、必要な過程を、実際自分の足でしっかりと踏みしめて歩まないと、上がれない。
色んなことを実際、体験しながら上がらないと飛んで上がるわけにいかない。
学校の勉強でも、小学校だったら一年生から順番に、実力をつけていかないと、大学まで行けない。
一足飛びでぱっと上がれるか?空白が出来たら、上の勉強も何も出来ない。また転落する。
心境を上げるのも同じ。本心の自分というのは、どんどん我を消しながら、真の神さまに自分を使ってもらう。
これで我も大きく消え、本心が大きく輝いてくる。上へ上へ、神さまは引き上げてくれる、引き戻してくれる。
だから、全て本心開発の勉強として、全てが用意されている。

日本の国は和の国、調和の国、大調和の国、大和の国、やまとの国。なぜか。世界の中心の役割の国。
日本列島が、世界の大陸の縮図。宇宙の星雲の縮図になっている。だから日本の役目って大きい。
我を出したら、中心に立てない。だから日常生活、日本の人は我を出さない勉強をしているはず。
自分っていうものを出さない。「私が」学校へ行ってきます、って言わない。
学校から帰ってきたら、ただいまだけ、私が帰ってきた、「私が」って言わない。

どこに違いがあるか。大きい違いがある。日本の全てがそう。外国の部屋は、扉でがちっと区画する。
日本のは、障子やふすまで伸び縮み自由。広くしようと思ったら、ふすまや障子を外したらいい。
鞄と風呂敷と比べたらわかる。風呂敷は、何でも包み込める。大きいものでも小さいものでも。
鞄は合ったものしかはいらない。下駄や草履もそう。靴は合わないと入らない。
下駄や草履は、大きくても小さくても使える。

日本には世界の全部、宗教もそうだけど、文化も全部、日本には全部入って来る。受け入れている。
それをもう一回大きく活かして、世界へ戻している。一宗一派にとらわれていない。道になっている。
教えはまだダメ、道。神道、古神道も道。道は全てを繋ぐ。道路の道も、全てを繋いでくれる。全てに満ち渡る、道。
だから世界を一つに出来る。我がないから。

民主主義も本物と偽物がある。我の自分が、いくらいい意見を出しても通らない。
我のぶつかり合いで、良くても反対する人が多い。うらやましいから反対する。自分の方が間違っていても通して欲しい。
多数決で決めても、いいものは絶対決まらない。誰も、全部が納得していない。
でも本当の民主主義は違う。本心側に立った人が、何か決める時は、みんながいい意見を全部持ち寄って出す、これが必要。
たくさんの中から、最高のものを選ばないとダメだから。遠慮せずにみんな意見を出す。
でも、それを通そうとはしない。そしてみんなが納得する答え、全員が納得する答えが正しい答え。
衆議一決する。もし衆議一決しない時は、もう一つ上からの指示を仰ぐ。
神さまの御心のままにって、もう一回みんなが祈って、一つに衆議一決するようにしている。

これからみんな総責任者の立場に立つ、色んな勉強をさせてもらうと思う。一つ一つ小さいことから大きいことまで、全部。
自分が総責任者になったその時に、自分は一切、我を出したらダメ。自分が責任者だから、自分が取りしきっていいのではない。
反対。正反対。みんなの意見を聞いて、皆のいいものを引っ張り出して、みんなで最高のものを選んでもらって、
そこにお祈りを加える。それで全体を支える。それが総責任者の役割。

日本の天皇陛下はお手本。自分の意見を言わない。みんなの意見を聞く。16菊の、菊の御紋がそう。
16方向のみんなの意見を聞き取る。そして、それを活かす。上から支配するのではない。皆を支える働き。
みんなの意見を活かしていく。最後に決まらない時だけは、意見を言ってくれる。
これも大事なことだから。本当の王の王。これは何か?三本、天地人、天と地と人、それを一つに繋ぐもの。
専制君主と違う。天地人を本当の調和に導くもの。人だけではない。
天も地も人も全部調和させる、この働きをする人が、王と言う。だから、王の王でないとダメ。

だから、総責任者の勉強は、全部その王になる勉強。家庭でも会社でも、どこにあっても、
そこで自分が本当の総責任者の王としての働きをするとなったら、一切の我を全部捨て切って、全体を支える。
自分が支えに回って、今度、反対にみんなから支えてもらって、本当の支えが具体化した時が本物。
自分がいくら頑張っても、誰一人支えに来なかったら、自分の支え方は偽物。
どれだけ周りから支えてもらえるか、これで本物か偽物か、判断する。

だから、お祈りも、ただ祈っているのは、支えていないから偽物。
本当に支えるお祈りをしたら、みんなが自分を支えるお祈りを、徹底して、してくれる。
大きい支えをもらったら、お祈りがぐーっと深まる。真祈りになってくる。そしたら、お祈りに力が備わって来る。
奇蹟を起こせる。自分一人のお祈りでは、何億年祈っても、奇蹟を起こせない。まだ力がない。そこまで力がない。
でも、みんなに支えてもらうお祈りは、この世の人の支えだけではない。
あの世の全てから、真の神さまからの支えが来る。そうすると、祈りに一大奇蹟を起こす力が備わって来る。

みんなが本当に願っていることは、真の本心の自分に戻ること。真の神さまの世界、一大循環の世界に住める自分になること。
執着して、これが自分のもの、これが自分と小さくつかむことではない。本当に真の神さまが自分の中を自由自在に貫流する。
全体が自分っていうふうに感じ取れる自分にしてもらうこと。小さくつかむことではない。
そしたら、自分の命、神さまの御用にお使いくださいと投げ出すこと。真の神さまに捧げないと使ってくれない。
他のものに捧げても力はない。親が子のためにって、子どもの為に捧げても偽物。
子供に贅沢させて、甘やかして、間違ったことをしてしまう。でも、真の神さまに自分の命を捧げて、
神さまに使ってもらったら、子どもには必要な苦労を一杯体験させようとする。早く本心に戻したいから。
贅沢は絶対させないようにする。厳しく。本当に必要なものを与え続けようとする。

まず、自分がどれだけ真の神さまに命を投げ出せるか。この命、真の神さまに捧げます、神さまの御用にお使いください。
ひたすら、ありがとうございますと全託の祈りをし続ける。そしたら、神さまは、喜んで使ってくる。
ただその時に、どう使われるかは、神さま任せ。嫌がったらダメ。何でも喜んでできないとダメ。その練習が必要。

だから、普段の生活の中で、人の嫌がる、危険できつい仕事を喜んでする、この練習をしておかないと、
いつも「はい」と言えない。「これは嫌」となる。神さまが本当に振り替えで、みんなのマイナスを、
大きいマイナスを振り替えて、背負わせて消そうとする時、この借金を返す時は、大きい痛みを伴う。一時的にでも。
そしたら、この痛みから逃げるようだったら、使えない。どんな痛みでも喜んで受けないとダメ。
何が来ても喜んで、受ける。この訓練がやっぱり必要になる。

痛みから逃げたらダメ。強くなろうとする方がいい。どんな痛みがあっても、強くなろうとすること。
どれだけしんどくても、動こうとすること。神さまに使ってもらったら、全部消してくれる。
これも色んな日常生活の中で、体験して、どんどん強くしてもらえると、全託が深くなる。
絶対文句を言わない、選り好みしなくなる。喜んで、大きい痛みでも受けられるようになる。
今も私の足には激痛が走っているけど、痛いと言わない。喜んでいる。なぜか?
神さまに使ってもらえることがどれだけ幸せか。神さまの御心は、虚の世界を全部、消しきりたい。
虚の世界の借金を全部、帳消しにしたい。そしたら、虚の世界の十界の見方は、真の真の十界。
真の十界、単なる十界、ミニ十界って分かれる。

真の真の十界は、真の神さまが振り替えで消し続けるすがた。同じすがたを見ても、
真の神さまが働き続けているすがたが、真の真の十界。地獄絵図も同じ。どんな世界も神さまの愛の救いの振り替えのすがた。
それに気付いたら、神さまの御心を感じたことになる。でも、同じ十界を眺めるのでも、地獄がある、マイナスがある、
これは違う。間違っている。神さまの御心を無視している。気づいていない。
真の神さまの愛の働きだけがあるって気付いたら、神さまの御心を感じたことになる。
ちょっとでもマイナスに見たら、間違っている。真の神さまを無視して、否定していることになる。

だから、真の神さまの本当の愛、これは絶対の愛。虚の世界の愛と神さまの絶対の愛は違う。
みんな「愛」という言葉をたくさん選んでくれたけど、思いの心で選んだ愛は、虚の世界の愛。
大犠牲精神の愛、思いやりの愛、寛容の愛、赦しの愛、一体感の愛って、どれか言っているけども、まだ虚の世界の愛。
自分に合った良いものを選んだかもしれない。愛と言っても中身が違う。今度、もう一回選び直す愛は、違う。
神さまの絶対の愛。同じ言葉でも、真の神さまの絶対の愛を選ぶ。降りてくる。
そしたら、そこは真の神さまが降り立つ場。

我を捨てることがどれだけ素晴らしいか、有難いか、凄いことか。我を否定されて、腹を立てているようではダメ。
どれだけ有り難いか。我を消してもらってどれだけ有り難いか、幸せか。本当に神さまの御心を受け入れたら、
降り立ってもらったら、本当の無条件の幸せが湧き上がってくる。
そういう勉強も兼ねて、祈り言葉の選び方も勉強材料の一つにしてもらっている。

今回はこうだけども、次回はまた変わるかもしれない。あみだくじになるかもしれない。
神さまは色んな方法を全部用意しているから。順番に我をとって、本心の自分に戻るように護り続けてくれている。

明日は、私は陰に隠れて、表に出ずに、みんなに任せて、護摩焚きをしようと思う。
皆が総責任者の気持ちで、大きい光を降ろしてもらおうと思う。

(平成27年6月6日のお話②)