真の神さまは、お蔭さまって言う。すがたを出さずに、本当に必要な働きをして下さる。
神さまの御心を汲むっていうのは、すがたの見えない神さまの言葉を、聞き取る必要がある。
普通一つの言葉でも、一を聞いて十を知る人もいる。十を聞いても一わからない人もいる。色んな段階がある。
そしたら神さまの御心は、もう一つ言葉になっていない。無色透明。声なき声。
これをどう汲み取るか。大変。でも本心の自分に戻って、神さまの御心を汲み取ろうとしたら、
神さまの方から自分の中に入って来てくれる。自然にわかるように、神さまの御心が、自分の心として出てくる。

でも我を出すと神さまが近づけない。我の心だと、いくら言葉で言ってもらっても、何も気づかない。
どれだけ我を捨てていくか、これが大事な点。まず、虚の世界がどういう世界か。
真の神さまの一大循環の相象。これは、必要なものを的確に与え尽す大きい流れ。
一大循環の相象の一番末端で、ちょっと執着の心でつかむと、これが自分、これが自分のものというのが生まれてくる。
思いの残像が出来て、それが虚の世界を作っていく。更に残像をつかんで、残像をつかんでって、
思いを積み重ねていくと、思いの塊のような世界になってくる。これが虚の世界。

神さまのものを自分のものとすることは盗み取っていること。神さまのものを盗み取ったら、これは借金。
大きい根本の借金になっている。そしたら、虚の世界全体が、借金体質。借金そのもの。
虚の世界にあるものは、全部借金、大きい借金。その末端で、どれだけ何をしても、借金は減ることはない。
どんどんどんどん利息が付いて、借金が増え続けている。だからこの世に生まれている人、自分は借金がないのではない、
無限の借金を棚上げして、この世で勉強のために生まれさせてもらう。

本当の目的は、あの世の大きい無限の無限の借金を、全部消すために、みんなが力を合わせて消すために、
この世へ代表で生まれてくる。そしたら、どうしたら本当の借金が消せるか。
いくら働いても、虚の世界で働いても、借金は消えない。増えるばっかり。
辛うじて、高い神仏にすがって、自分の全てを投げ出して、恩返しに生きる、
そうするとちょっとは引き受けて、高い神仏だから、神さまの流れに入れてくれる。少しずつは、消えていく。
でも気が遠くなるような話。少しずつしか、消えない。

お釈迦様、仏様、如来様、他の別名で応供(おうぐ)という。これは、みんなの捧げてくる供養を受けて消す役目。
みんなの大きいマイナスを、借金を、ちょっと捧げてくるのを受けて、大きくマイナスを消すために受け取ってくれる。
その力が無かったら、みんな負けていく。世の中のいろんな宗教団体は、全部負けてしまっている。消す力がない。
本当の悟りを開いていないと、一大循環の世界へ、マイナスを投げ入れて消すわけにはいかない。
本当の真祈りが出来ないと無理。溜まっていく。

だから恩返しに生きても、高い神仏にすがって恩返しに生きても、少しずつしかマイナスは消えない。
そしたら、どうしたらいいか。本当の借金を消しきる、唯一無二の方法が一つだけある。それが、絶対奉仕の生き方。
この命、神さまの御用にお使いください、ありがとうございますと全託しきる。
そして真の神さまが自分の中を通り抜けて働いてくれる。この時にどれだけ大きい無限の借金でも、
思いでも我でも、すーっと消える。これ以外に、消す方法は無い。だから絶対奉仕に生きる自分に成るように、
神さまは何億年以上もかけて、忍耐強く、護り、護り、導き、導きって、本当に大変な、気が遠くなるようなことをしてきている。

どうしたら絶対奉仕の生き方をとってもらえるか。本当に全託しきってくれるか。これを待っている。
この命、神さまの御用にお使いください、ありがとうございます、って全託し続ける。ただこれだけ。
これだけだったら、神さまが使える。みんなの中に降り立てる。大奇蹟の本のポスティングもそうだし、宇宙船護摩木もそう。
神さまに使ってもらうためにしている。どれだけ神さまに使ってもらえるか。我を捨てること。
我のない自分に成れば、全託する自分に成ったら、神さまも一番使いやすい。

この我って言うのが、曲者。虚の世界の宇宙創造の仕組みは、古事記の本に詳しく一番わかりやすく説かれている。
でも古事記で説いているのは、虚の世界の創造。その中で、創造神、宇宙創造の神って出てくる。
イザナギの神さまとイザナミの神さま。どっちも立派な偉い神さま。国って、組み合わせ。
全ての組み合わせを完璧に行う働き。国生みって言うのは、全ての構成物を全部作り上げるって言う意味。

両方が国生みする時、その時に、女神さまが先に声をかける。ああ素晴らしい男よって言う。褒め称えている。
次に、男神さまが、ああ素晴らしい乙女よ、と声をかける。どっちも褒め称えているんだけど、間違っている。
褒め言葉さえ、プラスの言葉さえ使っているからどっちでもいいのか、そうではない。
淡島水蛭子(あわしまひるこ)、出来損ないが生まれた。そして、もう一回どこが間違っていたか、
神さまの御心を問い返しに、天に昇っていく。今度は男神さまから、声をかける。そしたら正しい国生みが出来る。
ちょっとした違い。男神さまの方は霊、女神さまの方は体。言ってみれば、本心と肉体というような感じ。
普通、肉体の側から言葉を出したって、間違い。本心側から出た言葉が正しい。正しいものを生み出せる。

今回、祈り言葉、皆からどういう祈り言葉を唱えてもらえるか、募集した。
本心側から出した人が無い、とは言わないけれど、みんな、ほとんど肉体の自分から出している。
これを優先させたら、間違った不協和音になってしまう。一大交響楽って言うのは、指揮者、コンダクターがいて、
必要なものを必要なだけ、的確に使いこなして演奏する。全部使うとは限らない。
どれをちょっとだけ使うかも、わからない。ただ、使って欲しいという、準備は要る。
でもどう使うかは、指揮者の御心次第。

だから祈り言葉を捧げることはいい。この命お使いくださいと全託しきる。
でも、これを使ってくださいと言ったら、我が出る。我が出たのは使わない。
もう一回、神さまの御心のままに受け直す必要がある。沢山の祈り言葉があって、その中から必要なものを選ばせてもらう。
真の神さまの世界は、本当の支え合い。支え合いと言うのは、一切我を出さない。他を守るため、支えるためだけに生きる。

鼎(かなえ)の三脚ってある。三本脚で、上に物を炊く鍋がついている。
この三脚の足が、自分が偉いんだって足を伸ばしたら、ひっくり返る。自分がダメだって足を引っ込めても、ひっくり返る。
お互いを褒め合って、たたえ合って、感謝しあって喜んで、ひっくり返らないよう支えないとダメ。
どこへ置くかによって、足の伸び縮みを自由自在に変えないと。

このいい例が、御神輿(おみこし)。お祭りっていうのは、神さまの御心と心を一つにするのが、お祭り。
お祭りに集まる、老若男女、全部心を一つにして、神さまの御心と融け合うのが、お祭り。
その時に御神輿を担ぐ、みんなで御神輿を支える。ひっくり返らないように。
神さまを載せているのだから、揺れたらダメ。本当にスーッと行かないと、神さまに無礼千万。
そしたらどういう支え方をするか。平坦なところでも、みんなが合わせないと、平坦にならない、スーッと行かない。
ましてや階段のところを上り下りする、その時にどうするか。階段を下りる時、前の人が高く支えないとダメだし、
後ろの人は、低く下げないとダメ。水平にバランスが取れない。だから自分の立場を言っていたらダメ。
他の立場を守らないといけない。どう支えるか。いつも他の支えを受けるためにも、自分が他を支えないとダメ。

この前の御池岳の山登り、あれも本当の全託、支え合いの勉強のためにさせてもらったけど、
帰りに、足のちょっと動かない人を担架に乗せた。どれだけ大変か。下りを降りる時、下の人にものすごい負担がかかる。
下の人の負担にならないように、上の人が上手に加減しないとダメ。細い道でするんだし、もう一つ大変。
だから、支え合いと言うのは、自分のことを絶対言ったらダメ。一番後回し。
そして、一番大事なところをしっかり見て、支えに行く。一人誰か疲れて、足がぐしゃっとなったとする。
そしたら、そこを放っておいたらダメ、必ずひっくり返る。そこを最優先でサッとみんなが手を差し伸べないと。
それをいつもどういう状態か見極めて、常に支えに行けないと嘘。これが一瞬一瞬、どう変化するかわからない。
これが支え合いの本当の勉強。

そしたらその選んだ祈り言葉、みんなの気に入ったのを唱えるのが、神さまの御心とは違う。反対。
全体を調和した交響楽に変えようと思ったら、全てがバランス良く配置されないとダメ。
そしたら、一番人気のない言葉、誰も唱えない言葉を、最優先で守らないといけない。
この言葉は、自分は唱えたくない、と言っても、その言葉を唱える人がいないと困る。
それをしっかり唱えないとダメ。これが支えに行くすがた。太鼓を叩くと大きい音が鳴る。
これがいいからと言ってみんなが太鼓を叩いたらどうなる?一大交響楽が起こらない。
バイオリンみたいな弱い響きでも、目立つようにしないとダメ。そしたら、他が控えめにしないとダメ。
必要だったら、全部演奏を止めてでも控えめにしないとダメ。これが全体にとっての本当の支え合いのすがたをとる。

だから神さまの御心が、指揮者になって、心がスーッと通って来る。本当の交響楽が響く。
そしたら絶対我を出さないこと。まず、神さまに全てをもう一回全託して、もう一回必要なことを受け直して、役割を演じきる。
本心の自分、これは総責任者としての自分。本当の指揮者。指揮者の側に立ったら、全ての楽器を使いこなす、
それも一番調和したすがたで使いこなす。これがどれだけ大変かよくわかるはず。

(平成27年6月6日のお話①)