新年があり、月の初めがあり、日の初めがあり、毎朝があるというのは、常に新たにという生き方。
新たにという受け方が出来た時が、もうプラスの生き方。新たに新たに生きられるように、節目をつけてくれている。
常に新たに生きられるようにって。目が覚めたら、新たにって。常に新たに新たにって。
一瞬一瞬、新たに新たにという生き方になったら、本当のプラスに生きる。神さまの支えがどんどん出て来ている。
でも、一瞬過去のことを思う、それだけでマイナスに堕ちていく。引きずられていく。
もうちょっとしたきっかけで、マイナスの方へ堕ちていってしまっている。
過去のことをちょっと口にするだけで、ちょっと思うだけでそう。
神さまは、一瞬一瞬、新たに新たに、すべて新たになるようにずーっと働きかけている。全てがそう。
ところが、それに逆らって、一番難しい過去をつかむ生き方を選ぶ。しつこく選んでいくと、マイナスに堕ちるのは、それは当然。

真の支え合いとは何か。どういう生き方か。偽物は、どういう生き方か。大きい自分に戻って、無色透明の自分に戻って、
自分を出さずに、蔭からみんなを支えていくこと。そうしたら、奥から上から、自分を支える働きが無限倍に出てくる。
それで大きい自分に戻してくれる。更に大きい自分に戻してくれる。更に、もっと大きい自分に戻してくれる。
これで本当の意味で、支え合う生き方の自分に戻っていける。

ちょっと過去をつかむだけで、肉体が自分とつかむだけで、マイナスに堕ちていく。
新たな本心が出て来ているのに、なぜ肉体を自分とつかまないといけないのか。小さくつかんでしまっている。
新たな自分は、無限に大きい自分。無色透明な自分。自由自在な自分。この自分が、なぜ過去の小さい自分をつかむのか。
道具としての小さい自分をつかんで、それも過去の自分をつかんで、マイナスにつかんで。
ただマイナスの言葉を使って、つかんでいるだけ。それで、その言葉の縛りの中に自分がはまり込んで、がんじがらめになって、
何もできない自分になっている。本当は、何も無いのに。無色透明の自由自在な、無限の力のある自分しかないのに。
マイナスの言葉の中に閉じこもって、我の自分を主張している。一瞬でどちらにもなっている。
一瞬で本心の自分を生きることもできるし、一瞬で我の自分にもなる。

本心の自分を生きたら、一瞬にして我は消える。でも、本心を忘れたら、一瞬にして我の自分になる。
一瞬の言葉。何を選んだか。自分の見たり、聞いたり、言ったりする言葉、全て自分が選んだ言葉になっている。
本心の自分を選んだのだったら、常に新たな自分。自由自在な自分。無色透明の自分。無限力の自分。
真のプラスの言葉を一杯駆使していないと。そしたら、絶対本心の自分から外れることはない。
真の神さまだけって言い続けたら、絶対外れない。反対のマイナスの言葉を使うから。

真の神さまで、本当に埋め尽くさないと。絶対の中心から新たに新たに、全ての全てに、
真の神さまを無限に無限に一杯与え続ける。これだけ。そしたら、他へ心を向けない。
真の神さまだけを与え続けると言うことに絞り込んだら、忙しい。

]それも、無限に無限に一杯与えようとしたら、ありがとうございますが無限に無限に鳴り響く。
マイナスの言葉に心が向かない。見ることも、聞くことも、言うこともない。必要ないから。
自分は、真の神さまだけでいい。それも、無限に無限に一杯与え続けているから、それ以外何もないってなってくる。
それも、無限のスピードで循環するから、本当に真の神さまだけになってくる。

そしたら、小さい自分をつかまなくなる。謙虚になれる。神さまを送り出す自分は、透明な自分。
自分がって出たら、神さまは引っ込む。神さまを送り出すわけにはいかない。自分が奥に引っ込んで、神さまを送り出す。
透明な自分になって送り出さないと祈れない。ありがとうございますは、神さまを送り出している。与え続けている。
それをする自分は、謙虚な、奥へ引っ込んだ、自分を出さない自分。

無心に、一心不乱に、隙間なくありがとうございますを唱える自分は、一番謙虚な我の無い自分。
でも、ちょっと忘れたら、すぐに隙間が生まれる。そこへ我の心がスッと入ってくると、さらわれる。
隙間に入ってくる。やっぱり隙間に入ってくる。時間的にも隙間なく、空間的にも隙間なく、真の神さまで一杯にしないと。
それで、無限に無限に一杯与え続ける。

真の支える生き方、支え合う生き方、真の神さまを無限に無限に与え続けること。一回一回では足りない。
ありがとうございますって、一回一回与えても、隙間が生まれる。必ず、時間的にも空間的にも隙ができる。
だから、思いに負ける。

なぜ、絶対の中心から祈る必要があるか。全ての全ての立場から、全ての全ての立場へ、
真の神さまを無限に無限に一杯与え続けるのが一番いいから。たくさん与え続けるのがいい。隙間ができないから。
一回ありがとうございますを唱えると、その一回が、無限のありがとうございますになって、鳴り響く。
ありがとうございますが、無限に無限に一杯あるという風に鳴り響くのがいい。
そのために、全ての全てを与えようとするのがいい。必要だから。

一つにだったら、一つだけでいい。一カ所へありがとうございますを届けるのは、一回のありがとうございますで済む。
でも、与え続けようと思ったら、ずっと与えないとダメ。それが、無限のものに与えようと思ったら、
無限のありがとうございますが必要になる。全ての全てとなると、もう一つ、無限の無限のありがとうございますが必要になる。
必要になるから、神さまの方が湧き出てくる。必要なものを与えるためにって。
湧くように、無限の無限のありがとうございますが鳴り響く。

だから、目的・目標を持たないと。真祈りと言うのは、全ての全てに神さまを与え続けること。
それも無限に無限に一杯続けること。だから、必要な助けとして、鳴り響く。
自分一人悟りを開くために、ありがとうございますを唱えたって、効果が小さい。本当の力は出ない。
真の神さまの降り方が小さい。でも、みんなを悟らせるために、みんなに本心の自覚を大きく与えるために、
それも、無限の無限の全てに与えるために、神さまの大きい力が、支えが要る。
そしたら、必要なだけは神さまが降り立つ。それが自分の中を通り抜けたら、まず、自分が一番大きい助けを受けている。
大きい本心の自分に戻っていく。

支え合いに生きるのは、人の為と違う。本当は、自分を大きくする為。自分が神さまの助けを一番大きく受け取る為。
神さまへの絶対奉仕。何をするのでもそう。自分を本当の意味で救ってもらう為。
自分が何か奉仕しているって言ったら、大きい間違い。我が出ている。我が出ているのは、みんな反対のことをしている。
大きい邪魔をしている。邪魔する大きい岩とか山を作っているだけ。何をしても邪魔。
謙虚になった時が初めて、神さまのお手伝いに入っていけるようにしてくれる。
だから、どこまでもどこまでも謙虚になること。我を叩き潰していくこと。人に叩き潰されたら文句を言う。
我こそ自分で叩き潰さないと、値打ちがない。自分の我くらいは、自分で叩き潰す。粉みじんに叩き潰すこと。

我がある時は、同じ支え合いと言っても、虚の世界の偽の我の支え合い。これは、違う。支え合いではない。
本物の支え合いが必要。これは、常に自分が大きい立場に立たないと。一番大きい立場がいい。
真の神さまを無限に無限に与え続ける立場がいい。そしたら、何をしても、大きい支えだけが出てくる。
自分の力で、というのは要らない。真の神さまの働きだけ。すべて真の神さまのお蔭だけ。
そしたら、言葉は、ありがとうございますの一言でいい。一回のありがとうございますが、
無限の無限のありがとうございますに大きく変身して働くような、ありがとうございますがいい。

一つのありがとうございますは、小さい。ありがとうございますを唱えたら、
必ず無限の無限のありがとうございますに変身するような、大きいありがとうございますがいい。
本当は、ありがとうございますは、入れ子構造。入れ子構造のありがとうございます。奥から大きく鳴り響くのがいい。
謙虚な自分は、それが本当のありがとうございますってわかるはず。
入れ子構造的に、ありがとうございますを与え続けるような生き方、祈り方。これが、本当の真祈り。支え合う真祈り。

そしたら、無限の無限のありがとうございますではない。もっと大きい。
絶対の中心から祈る、本当の真祈りのありがとうございますは、一段階下げたら、無限のありがとうございますに変身する。
そこから、また一つが無限に変身する。またそこから、一つが無限に変身する。
どこまでも大きく大きく、ありがとうございますが増え続ける。
そしたら、ありがとうございますっていう、真の神さまだけに成り切る。その与え続けた分全部、自分に戻されてくる。
無限倍になって。これが本当の支え合いの世界。我を出すのと全然違う。
我は小さくなる。反対に大きくなる生き方が必要。本当の支え合いは、大きくなる生き方。
一番大きいところから与え続ける生き方。スカッとする。

(平成27年5月23日のお話③)