支え合いに生きる。真の支え合いって何か。偽物と本物がある。本物の支え合いとは、どういうことか。
本物の支え合いと虚の偽の支え合いは違う。その区別って大事。その違いは、どういう点にあるか。大事な事。

日本民族は天孫降臨民族ともいわれる。奥から物質化して降りているって。また我の無い民族。自分を出さない、主張しない。
日本人は自分を主張しない。子供が学校に行く時は、私は行ってきますとは言わない。行ってきますだけで終わる。
帰って来ても、ただいまだけ。私が帰って来た、私がって絶対言わない。ここが自分を主張しない大きな点。自分がない。

日本人の名前を見てもそう。大体苗字って地名なんかになっている。田中。田んぼの中。
大抵日本人の名字はそう。町田。町の中の田んぼ。自分が自由自在に色んな所に立って、そこで色んな働きをするだけ。
自分をつかんでいない。外国の名前はどう?何々の子孫という風に出て来る。人の名前、先祖の名前が先に来る。
聖書に載っているのはみんなそう。人の名前、先祖の名前があって、後に子孫がずーっと名前をつないでくる。
自分と言うのをもの凄く主張する。自分を主張しないのと自分を主張するのとは全然違う、正反対。

自分を主張するとぶつかり合う。自分を出さなかったらぶつからない。どうしたらぶつからない生き方になるか。
やっぱり大きくなること。例えばここに煙の塊があるとする。これを無限に大きく拡散させると、消える。
我の思いが一杯あっても、これを無限に拡散させて大きくなったら、我がない。消える。
これは一段上の大きい立場になっている。真の神さまは、絶対の中心、一番大きいところから順番に、
入れ子構造的に大きい働きを降ろしてきている。常に大きい立場に立っている。

どの世界を見ても、下から上に上がるほど、下が広く見える。上に上がるほど、心境が高くなるほど、広い世界に見える。
これは全てがそう。一点に立っている人は、直線も見えない。直線に立っている人は面が見えない。
面の上に立っている人は、立体が見えない。3次元も見えない。4次元に立ったら3次元を越えている。3次元からは4次元が見えない。

あの世の世界全部に、波の違いで無限の次元の世界がある。一段上へ上がったら、上から下はみんな見える。
下から一段上は絶対に見えない。透明になっている。上に行くほど透明感が増す。
透明って言うのは、何も見えないから、何をして働きかけてもわからない。自分を出してこないから。
どんな働きをしてきてもわからない。ここが大切なところ。

支えるというのは、神さまを与えて、中から芯柱を与える、これが本当の支える。
この芯柱ってどういう意味か。例えば、肉体人間に守護霊さんがスッと入ってくるとする。守護霊さんは見えない。
でも透明なすがたでスッと入ってくる。そうすると守護霊さんが自分の心や働きとしてスッと入ってきたら、
守護霊さんは自分と一体化して出てくる。別個ではない。守護霊さんの心が、自分の心として出てくる。
守護霊さんの能力が、そのまま自分の能力として出て来る。奥から中から無色透明のすがたで働く時は、分かれていない。
そのままスッと降りてくる。もしすがたが見えたら、対立している。透明ではない。同じ次元、同じレベル。偽物の方。

もし守護霊さんが見えたといったら、同じレベルの守護霊さんだから、自分より上でも何でもない。
波が合って同じレベル。上ではない。偽物の方の守護霊さん。
自分より格が上で自分を守ってくれる守護霊さんだったら、一段か二段か上。必ず透明感がある。すがたを見せてこない。
声も聞こえない。でも透明な働きを降ろしてくる。

守護霊さんの導き方ってどうか。本物は声で導かない。守護霊さんの心がスッと入る。守護霊さんの知恵がスッと入る。
守護霊さんの心がそのまま自分の心として出てくる。智恵が、アイデアが、自分のアイデアとしてスッと湧くように出てくる。
絶対離れない。本当に一つになって出てくる。これが本当の意味で支えるすがた。

だから一番上の真の神さまが絶対の中心から支えてくる支え方は、入れ子構造的に、全部中から中から。
より透明感のあるものを降ろしてくる。透明も、無限の段階がある。一番奥から一番透明なすがたで降りる。
次の透明な世界に降りる。順番に降ろしてくる。無色透明が、段々と有色の透明な光に分かれる。
透明な光がまた、透明でない不透明な光に変化する。順番にずーっと降りてくる。すがたを出すほどそこに我がある。
過去をつかんで、これが自分という風につかんでいる。この我が残っている、思いが残っている。

だから真実の世界の本物と言うのは、常に透明。だから中から奥から、正体を出さずに支えてくる。
支え合いって言っても、こっちの方が本物。これは絶対自由を縛ってこない。人は自由を縛られるとイヤ。
縛られただけが、幸せでなくなってくる。

反対に虚の世界はどういう世界かって眺めたら、虚の世界では、支え合いって、同じ言葉を使っていても違う。
大勢が、一つの組織的なもの、ピラミッドを作るとする。下が底辺で、たくさんの人が頂点の一部を支える。
人間ピラミッドも同じ。下に大勢いて、上が一人。支えていると言うけど、下の人が、本当に力があるのではない。
虚の世界は反対。上が一番力のある支配する人。下は弱い人、力の無い人。上の人が大勢の下の人を束ねて、支配している。
それで一つの団体・組織を作っている。下の人は弱くて、盤石の岩のような強いものではない。砂粒みたいなもの。
だから砂上の楼閣ができる。上に大きいものを作り上げた途端に、崩れ去る。虚の世界は全部そう。

いろんな団体・組織が出来る。国もそう。全部組織として創り上げたら、みんな我の塊になる。
大勢の我が一つに集まっているだけ。我が消えるのではない。我が大きく集まって、一つの大きい我になっただけ。
だから必ず対立する。宗教の世界を見たらそう。みんな一つのものを作り上げて、自分の方が、山が高いぞと、
みんなお山の大将になりたがっている。そういう山が無限に近く出てくる。
これはもう、どれだけ高い山を築きあげても天まで届かない。低い所にとどまる。悟りの世界なんて無関係。
みな途中までしか行けない。雲の上をちょっと抜けるくらい。悟りの世界へは到達しない。
例えば、太陽が元の光源の世界としたら、太陽まで届くか、届かない。いくら山を伸ばしても。それは偽物の世界。

下から築き上げて作り上げたものは、全部偽物。一つの組織の山の中で、自分がちょっと上に上がったら喜んでいる。
トップになって胡坐をかいている。でも、トップになって胡坐をかく時間は、ほんのわずかな時間。
すべて平等に因縁因果が働くから、自分が上に立ったら、今度下積みの時が、無限に長く大きくなる。
貸し借りの世界はみんなそう。勝負の世界もそう。勝ったら、必ず負ける時がずーっと続く。
そうしないと平等でないから。頂点に登るために一生懸命頑張る。登った途端に下に落ちる。
これが虚の世界の仕組みになっている。

そしたら本当に悟りを求める人が、どこを通って天に登ったらいいか。
色んな山がある。頂上を極めたら天に登れるか。みんなどの山に登っても天には届かない。みんな偽物だから。
山に登る必要はない。山に登ったら、また堕ちなければならない。また山に登って降りてって、
その繰り返しだったらいつまでたっても、無限の年月かけても登れない。

本当の悟りを求める人は、別な方法を考えないとダメ。過去をつかんで思いを溜めて、ひたすら登るような生き方ではダメ。
全部消さないとダメ。我で築き上げたものを全部。そしたら全部光の流れが邪魔されずに済む。
大きい山が一杯あったら、流れが邪魔される。小さい思いでも、霧のように立ち込める。
霧が立ち込めたら、周りが見えなくなる。それでも大きい邪魔になる。
山のような大きい我も、粉みじんに粉砕して、埃か煙ぐらいまで細かくして、流れの中に放り込まないとダメ。
そしたらスーッと消えていく。

どこへそれを全部渡していけばいいか。真の神さま。無限大へ大きく拡散させること。真の神さまへ全部捧げ尽くしていく。
無限に大きいところへ、投げ入れていく。それも小さくして、粉みじんに小さくして捧げていかないと、大きい山はちょっと難しい。
大きい我の岩でも大変。だから常に我を叩き潰さないとダメ。それも粉みじんに細かく叩き潰すことが必要。
自分が我を生きているようだったら、叩き潰せない。だから我の心を生きるのではなく、本心の自分をしっかり生きようとすること。
本心の自分は、元々一切の我のない、無色透明の自由自在心。これが本心の自分。
みんな心の奥底でちゃんと知っている、わかっている。これこそ本物って。表面の我は偽物って気づいている。
ただそれを気づいても、本当に消そうとするかどうかは別。一つのお山の大将になって、胡坐をかいて喜んでいる人もいる。
そういう時期もある。その時には消せない。どうしても過去をつかんでしまう、今の状態をつかんで消せない。
でもこれを全部叩き潰して、全部消さないとダメ。そして神さまに預けないと。そしたら全部消えていく。
神さまの一大循環の相象が本当の光の流れとして出てきたら、全部消える。

(平成27年5月23日のお話①)