音楽の演奏、色んな楽器を使ってする演奏がある。本当に指揮者に従わないと、一大交響楽の調和した響きにならない。
ちょっとでも我を出したら壊してしまう。自分がピアノを弾くのが上手だからって我を出しただけで、
全体の調和を乱してしまう。指揮者に従って本当に必要なだけを、新たに新たに、必要なだけを演奏しないとダメ。
だから心に余韻が残っても、正しい生き方が出来ない。どこかに反射して、反響でコダマしてもダメ。
全部過去を消しきっていないと、本当の一大交響楽の本当の響きは伝わってこない。

だからどれだけ過去を消しきっていくか。新たなものをサッと出さないと。
その出し方に、無限の種類がある。色んな出し方がある。必要なだけをサッと出してきて、全体が調和する。
それが一瞬一瞬、大きく変化しながら、ずーっと流れる。
だからお祈りの一大交響楽って、いろんな祈り言葉が現実に降りている、これを組み合わせてもダメ。
そんな浅い小さいものではない。逆。この世の全部を消しきって、奥から出てくる。
神さまの全徳の全てが、必要に応じて、新たに新たに出てくる。我を出してこない。
自分はこの祈り言葉が最高なんだって、我を出してこない。
真の神さまの御心のままに、新たな徳性が、色んな輝き方で、全体を支えるために、出てくる。
その全体が大きく一大調和のすがたをとって、すーっと流れる。そこまで行ったら、真祈りの一大交響楽が、鳴り響く。

でも過去をつかんだら、我の出し合い。この言葉がいいって言ったら、他を抑え込んでしまう。
太鼓を大きく叩いたら、みんなを妨害する。ラッパを吹くのでもそう。自分が表に出てきたら、我を出している。
我の出し合いになったら、騒がしいだけ、雑音だけ。そんなのは真の神さまの働きとは、正反対になってしまう。
だから支え合いというのは、常に奥から出てくる。必要なすがたで、出てくる。自分を絶対表に出してこない。
必要なだけを、力を添えてくる。全体にとって必要なものだけを出して来てくれる。だから絶対邪魔し合わない。

だから新たに新たにって絶対の中心から神さまの心のままに、出てくる自分、過去を絶対につかまない自分になっていくしか、
方法は無い。過去をつかむ自分が残っていたら、その惰性に負けるかもしれない。
それを全部消しきってもらうために、神さまの恩返しに生き、絶対奉仕に生き、神さまに全託して
古いものを全部神さまにお返ししてしまう。循環させてもらう。循環が正しくなったら、古いものが必要なくなったら、
古いものをすぐに消してくれる。必要な新しいものがサッと出てくる。古いものが残っていたら大変。
今必要なものをサッと与えてもらっても、それがいつまでも残って消えなかったら、
次の瞬間必要なものも、流れにくくなるし、古いものが残っていたら、ダブって邪魔する。
本当は一瞬一瞬、過去の古いものを全部消しきってもらわないといけない。

神さまは、いつもそれをしている。古いものを循環させて、引き取って、新しい必要なものを新たに送り込んで、
与え続けている。本当は、それが循環のすがたで、ずーっと続いているのだけど、過去をつかむ思いの心は、
それがわからなくなる。つかんでしまうと、思いを溜め続ける。本当は、循環を止めることも、溜めることもできない。
本当は、できないけど、思いは、溜めたと思う。循環を止めたと思う。つかんだと思って、溜めこんでいく。

だから、思いというのは、錯覚。嘘。そう思い込んでいるだけ。だから、嘘の虚のすがた。本物ではない。
嘘だから虚。思いが勝手にそう思っているだけ。思い込んでいるだけ。本当は、何も溜まっていない。
過去をつかんで溜めるというけど、溜まらない。溜められない。つかんで溜める力なんか無い。
これは、錯覚。思い違い。だから、消すまでもない。正しい見方に代わったら、即、消えて無い。

それで、真祈りを祈る。真の神さまだけって祈る。元からそれしかない。虚の世界があるのではない。無い。
無いけども、真の神さまを認めなかったら、あるかのように錯覚する。真の神さまは、一大循環の相象で、厳然と存在する。
だから、一大循環の相象をしっかり認めたら、虚の世界は無い。
だから、流れをしっかり感じるために、真祈りを祈る、与え続ける。そしたら、流れがわかる。
一大循環の相象を感じたら、虚の世界は無い。それで、真の神さまだけ、これで終わる。
どこにも真の神さま以外に存在できない。真の神さまだけが循環している。
大きく大きく、無限に無限に一杯、もうそれだけがある。そこまでいかないと、真の神さまだけって言ったら、間違う。
本当に、真の神さまだけって断言して言う限りは、真の神さまだけって認めないとダメ。
だから、全体の地図がある方がわかりやすい。

本当は、地図と言うのは、本物ではない。
本当の道路を歩かないとダメ。実行、実践って、本当は大事だけど、でも、地球全部歩き回るのは大変だから、
地球儀があり、地球の地図がある。でも、地図の上でも、全体を捉えたら、一部ちょっと歩いただけでも、全体がわかる。
それで、地図が必要。地図を通して、全体を把握する。学校で勉強する本でも、最初の方に目次がある。
目次を見て、全体の流れを捉える。この本は、全体的にどういう風に構成されて、説かれているかって、
全体を見て、そして、全体を把握しながら、部分の勉強をして埋め込んでいく。そしたら、理解が進む。忘れなくて済む。

悟りへの人生航路も同じ。全体の地図を見ながら、自分の勉強したいところで、ちょっと学ぶ。
実際に、実行して実践しないと。その体験を埋め込んでいく。これも、順番に自分のしたい勉強をしていって、できる。
全部自分一人でするのは、大変。無限の種類の勉強って、一人では出来ない。
みんなの勉強、体験を自分のものにしていかないと。だから、自分は、無限分の一ぐらい選んで、体験していく。
残りは、みんなに助けてもらう。ただ、地図を見て、一部体験したら、全体を体験したのと同じくらいの推理力を使って、
理解できる。体験、実感がある。そしたら、みんなの体験が全部、自分の体験になって、感じ取れるようになる。
それが支え合う心だったら、そのままスッと自分の中に入ってくる。

だから、自分もみんなの為に体験する。代わって。自分の為だったらダメ。自分の為だったら、我が出る。
みんなの為に色んな体験を積む。みんなの為に祈る。みんなの為に、色んな奉仕活動をする。
常にみんなの為に、全体の為にする。そしたら、みんなが自分を支えて、助けて、
自分のできないことを全部代わりにしてくれて、全部自分に与えてくれる。それが自然に起こったら、支え合いのすがた。

根本は、自分一人を、真の神さまが支えてくれる。真の神さまが無限の色んなすがたをとりながら、支えてくれる。
真の神さま以外のものがあるのではない。全部真の神さまの愛のすがた。
だから、真の神さまだから、真の神さま以外に何もない。凄い護られ方、支え方。
本当の盤石の支えって、無限の無限の盤石の支えが常にある。
そしたら、自分の力で生きようなんて思わない。無限の無限の大きい支えに生かされているだけだからって。
自分で何かしようなんて思わない。生かされるまま。恩返しの気持ちだけで、神さまの御用に使ってもらうだけ。
この命、神さまの御用にお使いくださいって。もう常に、新たに新たに。

過去にこういうことをしてきたから、自分はこういうことができます、だから、出来ることをさせて下さい、ではない。
反対。一回過去にしてきたことは、もう要らないから、全部捨てていい。
常に、新たに新たに、神さまの御用に使って下さいって言うくらいがいい。
神さまが使ったら、何でもできる。新しい、どんなことでもさせてくれる。
だから、過去さえつかまなかったら、スカッとする。朝、目が覚めたら、もう全部、新たな自分。
新たな全て。自分のものも無いし、自分もないし、常に、真の神さまの愛のすがただけ。
真の神さまだけ、本当に真の神さまだけ。

Q 本心に戻っても、真我は残る?真我とは?

A 小さい。これが自分って言ったら、小さい。常に、神さまにお返ししないと。残ったら小さくなる。
虚の世界みたいに、つかんで放せないのと違うけど、放せるけども、放し方が遅い。すぐにサッと放さないと。
大きい無限のスピードの循環についていけない。

本当は、こういうものでも、メモを取らない、録音もしないというくらいの気持ちで聴くくらいが必要。
録音をとっても、メモを取ってもいいのだけど、新たに新たに聴く心の方が、スーッと流れる。
録音は誰の為に?みんなの為に。メモもみんなの為だったら構わない。
ただ、自分の為にとなったら、小さくなってしまう。自分の為と言うのだったら、一瞬一瞬、新たに受けるだけでいいはず。
でも、常に、みんなから録音を聞かせてもらって、新たに新たにだったらいい。もう全て、新たに新たにだったら大丈夫。

本当に、真の神さまだけって、本当にわかったら幸せ。幸せだけ。無条件の幸せが湧き上がってくるだけ。
絶対の中心から降り注ぐ一大循環の相象は、もの凄い大きい流れ。つかむなんて、絶対不可能。
本当は、ほんの一部もつかめない。つかんだと錯覚するくらい。本当は、錯覚する暇もないくらい。
だから、新たに新たに、与え続ける心がいい。祈り続ける心が流れについていける、絶対つかまずに、流れを実感できる。
それで、真祈りを祈るだけ。ありがとうございますって、真の神さまを無限に無限に一杯、与え続けるだけ。
湧くようにありがとうございますが出てくる。1回1回出てくるのではない。
無限に無限に一杯、ありがとうございますが湧き上がるように出てくる。
だから、祈ることが幸せ。神さまを実感(観)する。

(平成27年5月16日のお話③)