真の神さまだけってどういうこと?
真の神さまだけって唱えているよね。どういうことかな。
…唱えているだけ?深い意味があるね。どんな意味があるかな。

印可書に書かれているのは、神さまについての地図、全体図。神さまとは何か、神さまの世界とはどういう世界か。
本当は、真の神さまだけっていうことを説明している。言葉だけでは足りないから、
本当にそれを実感できるというところまで理解して、確認をしていかないと。
その地図を見て、自分がどの立場に立っているか、自由自在に立てるけど、今、自分がどこに立っているかって、確認も必要。
そして今の自分の立場からどういう風に神さまのプレゼントを受け取るか。大きく分けて、生き方を5つに分けている。
まず虚の世界は、求めると心と受ける心と与える心を生きている。真実の世界は、支える心と支え合う心を生きている。

低い世界っていうのは、鏡に映す世界。自分の姿を鏡に映す世界。虚の世界の低い所って全部そう。
なぜかって言うと心の向きが闇に向いているから、闇が鏡の働きをする。明るい方から暗い方へ向いたら、
暗い方がみな鏡になっている。それで低い世界では、自分の姿をそのまま鏡に映す世界。
その次は、色眼鏡を通して見る世界。思いを通して、光の方を見ると、ちょうど雲のすがたを通してでも、太陽を見られる。
だから雲が薄かったら太陽の輝きがわかる。色眼鏡を通して見る世界が、次の世界。
そこから上へ出たら、光の世界になる。光って波の世界。だから虚の世界も波の違いで、波長の違いで、
色んな姿を認めることが出来る。真実の世界に入ったら、真実の世界も、波の世界と光源の世界と両方がある。
波を合わせることで、色んな波の世界が感じ取れる。

ただ、真実の世界は、波だけでは足りない。どういう立場に立つかで、大きくなったり小さくなったりする。
だから全体図の中で、自分がどこへ立つか。本当は自由自在にどこでも立てる。でも今の自分がどこに立っているか。
そこでどういう生き方をしているか。これも自由自在に選べる。
虚の世界でも、真実の世界でも、真の神さまの助けをどういう風に受け取れるか。大きくも小さくも、受け取れる。
一番大きく受け取れるのは、謙虚になった時。自分を空っぽにしたら、大きく入って来る。
自分の中に一杯詰まっていたら、溢れてしまって入ってこない。

謙虚さというのも、虚の世界と真実の世界の謙虚さは違う。虚の世界の謙虚さってどういうこと?
虚の世界の謙虚というのは、マイナスの極に立つこと。一番下に立つこと。それが虚の世界で一番謙虚であるということ。
真実の世界の謙虚というのは、一番大きい立場に立つこと。絶対の中心に立つことが、一番神さまの助けを大きく受ける。
真実の世界の謙虚というのは、絶対の中心に立つこと。

虚の世界と真実の世界と両方で、自分がどれだけ謙虚になれているか。
謙虚に比例して、神さまの助けが循環する割合が、変わって来る。謙虚になるほど、虚の世界の進歩が早い。
例えば、法然がいる。南無阿弥陀仏と唱えた法然さん。常に自分を愚禿(ぐとく)法然とか、罪悪深重の凡夫とかいう言葉で
自分を一番下に落としている。そうすると一番謙虚な立場に立てる。そこで南無阿弥陀仏を唱えると、
大きく阿弥陀様の助けが入って来る。心境が、それに比例して大きく上に引き上げてもらう。
引き上げてもらったところをつかまないで、また謙虚に一番下に降りる。
常に一番下に降りていると、一番大きい助けを受け続けて、一番上にまで上がってしまう。それを一瞬一瞬、真剣にする。
だから南無阿弥陀仏を唱える唱え方でも、助けてって唱えるのと、本当に悟りを求めて唱える生き方と、大きい違いがある。
法然さんは、悟りを求めて唱えている。

悟りを求めて唱える時の条件。南無阿弥陀仏を唱える時の条件が3つある。
至誠心(しじょうしん)。深い心、深心(じんしん)。3つ目は、回向発願心(えこうほつがんしん)。
至誠心というのは、自分の誠を、真心を捧げ尽くす。命を捧げる。真剣。命懸け。そういう心で唱える。
深心というのは、阿弥陀様の深い愛を、慈悲を本当に信じ切らないとダメ。
阿弥陀様の慈悲の力で救い上げてもらっているというのを、深く深く理解して、感じ取らないと。
本当に信じ切らないとダメ。これが深心。
そして回向仏願心。回向、向きを変える。ちょうど阿弥陀様は、大きい誓願を立てて悟りを開いている。
自分の悟りを求めてしていない。一切衆生が救われなかったら、自分は絶対悟らないと言っている。
みんなを先に救おうとしている。本当の誓願を立てて修行に入っている。
そしたら何のために唱えるのか。みんなを救うため、みんなを悟らせるために唱えている。
この3つがあったら、南無阿弥陀仏を唱えたら悟れる。

ところが浅いと、人殺しをしながらでも、南無阿弥陀仏を唱えている。嫁いびりをしながら南無阿弥陀仏を唱えている。
これでは本当に南無阿弥陀仏を唱えても、阿弥陀様を尊敬もしていないし、愛を信じてもいないし、真剣さもない。
ただ言葉だけで南無阿弥陀仏を唱えたら、阿弥陀様を冒とくしている。誹謗している。
そうすると、どうなるか。地獄に落ちる。同じ唱えるのでも違う。

ありがとうございますも、一緒かもしれない。ありがとうございますを唱えているから、何でもマイナスが消えるのか。
ありがとうございますを唱えながら、悪い事ばっかりしたらおかしい。みんな真の神さまを悪く見る。悪宣伝することになる。
そしたら真の神さまに対して無礼千万。ありがとうございますを唱えてながら、悪い事をしているとしたらそう。
誰も信じない。同じ唱えるのだったら、やっぱり真の神さまと同じような生き方をして、ありがとうございますを唱えないと。

そしたら同じありがとうございますを唱えるのでも、どこまで真の神さまを自分がしっかり唱えているか。
ただ、口先だけで言っている言葉か。本当に真の神さまの愛を感じ取って言っているか。違いが大きい。
真の神さまはどういう働きをしているか。一大循環の相象というすがたで、絶対の中心から、全ての全てに大きい働きを加えている。
真実の世界がそれで循環している、ものすごい大きい働きかけ。
また虚の世界に降り立っても、どういう救い方をしているか。虚の世界の全てに対して、大きい光を投げかけている。
それも光だけだと逃げるから、半分マイナスを背負って波を合わせて、そこに光を降ろしてくる。
マイナスは瞬時に消しながら、プラスの光を柔らかく与えてくる。これを一瞬一瞬、ずーっとし続けてくれている。
真の神さまがどういう風に降り立って、みんなを幸せにしようとしてくれているか。
どこまでそれを理解して受けようとしているか、大事なこと。

だから謙虚なほど、感じ取れるはず。自分が過去をつかんで、小さく小さくなって、マイナス言葉を一杯積み重ねて、
無限に借金をして、無限の思い、我を、マイナス、借金を積み重ねている、それも高利の利息付きのものを。
そしたら自分が今まで過去を振り返ってみて、いつ返したか、いつマイナスを消したかって考えたら出来ていない。
残したままのはず。今の自分に出来ていないのに、絶対過去の自分がしたわけがない。
そしたら無限のマイナスが残っているってもう一回、自分を見つめて思い返さないと、謙虚になれない。
無限のマイナスがあるってわかったら、自分を一番下に落とす。一番下に立って、そこから真の神さまの助けを受けようとする。
自分にはマイナスがないんだって思ったら、高慢になる。そしたら上の方に立って、神さまに心が向かないと思う。
反対に、高慢な人は、上から下を見る。神さまの方へ心を向けない。
反対に、神さまを背にして、自分が上なんだって思って、下を責め裁く。そしたら光は受けられない。
助けをちょっと受けたって、小さい背中から。受け方が足りなくなる。
だから自分が一番下に降り立ったら、下はもうないんだからって、上を向くしかない。
プラスの方へ向ける、神さまの方へ向けるから、全方向から光が降り注ぐ。そしたらみんなのお蔭ってよくわかる。

そしたら神さまの助けを求める心でも、受け方が上手になる。
神さまに向け切って、プラス一元に、光一元に受けようとするから、受け方がまず上手になる。
大きく助けてもらっているのがわかるから、自分も恩返しで助けようとする。虚の世界で、求める心から、受ける心、与える心と、
どんどん速く進歩・向上する。それだけではまだ虚の世界は抜けられないから、それで支える心を生きようとする。
同じ支えるって言っても、小さく支える生き方から大きく支えていく生き方に変化してくる。
支えるためには、自分の力では何もできない。神さまから、大きく力をもらわないと支える力は湧いてこないから、
それで真の神さまを相手にするようになる。常に真の神さまの助けを受けて、支える力を沸き上がらせてもらう。
自分の力というものは、一切ないという位になる。虚の世界を順番に上げてもらったのも、神さまの光のお蔭だけど、
本心に戻っても、もう一つ神さまの大きい光だけで本心の自分に戻してもらう。
その後も、大きくしてもらうのは、真の神さまの支えだけで大きくなる。
もう一つ大きく神さまをしっかりと心に受け入れていける。更に大きく受けようと思ったら、絶対の中心へどんどんどんどん近づかないとダメ。

(平成27年5月16日のお話①)