この前ファックスしてきた人があった。ここでいろんなプリントを印刷して、綴じて送っている。
そのプリントの綴じ方がどうかって。縦書きの分は右肩で綴じて送っていいって書いてある。
うちはほとんど横書きだけど、右肩で綴じたらダメ、左肩で綴じないとダメ、と書いてある。
今までうちでしている、横書きで右肩に綴じたのはダメ、左肩で綴じたのでないとダメなんだ、という風に質問をしてきている。
これはどちらが正しいか?

なぜうちは右肩で綴じているのか、深い意味がちゃんとある。みんな言われたら左肩綴じに変える?
どっちが正しいか判別がつかなくて、世間がこうだからといって、その通りにする?それでいいと思う?
道路を歩くのでも、みんな人は右、車は左と言われて、右側を歩いているけど、正しいと思う?
みんなが歩いているからそうするのが正しい?違う。
昔の日本は、道路の左を歩いた。神社の参道を歩く人は、たいてい右ではなく左を歩いている。
どうして?みんな意味がある。間違った言葉に縛られてはいけない。

まず神さまの言葉、真理の言葉がどう降りるか。一大回旋のらせんで大きく降りる。
大きく降りるらせんと言ったら、左から横に言葉が流れる。これが本当の降り方。
日本の国には縦書きがある。光は東方から、太陽の光が右から出てくる。小さい太陽の光を受けるのだったら、縦に降りる。
でも一番大きい真の神さまの働きだったら横にしか降りない。これが基本。

もしそれを文章にしてページにするのだったら、ちょうど桜の花びらがひらひらと散るように、
らせんに降りたのが、そのままめくれてくる。そうするとこれは右肩でないとダメ。
右下だったらダメ。上から降りるから。上からめくるように降りてくるから。
必ず右肩で綴じなかったら一枚一枚めくれないし、右肩からスッと一目瞭然に見ないとダメ。
これが一番の本当の根本の基本。

それを元にして、縦書きをどう見るか。縦書きだったら右からこう眺める。
一枚一枚だったら、右肩に綴じても順番にすっすっと見える。
紙を裏表使って両面印刷したものは、(右側で)上と下を綴じて、右からスッと見て、めくって、
右からスッと2ページをいっぺんに見る。まためくって2ページスッと見る。流れがいい。
右肩に上下に2回綴じてって、縦はそれでいける。横の時はどうか。横の時は、本にしたらめくったときにどうなるか。
左綴じにしないと2ページが、スッと流れない。右の方に留めていたらめくった時に、2ページをいっぺんに見ようと思ったら、
(いっぺんに見られないから、別々に)2ページはこう見て、3ページ目はこう見て、となる。
流れが止まっている、流れが上手く行っていない。おかしい。両面使っての横書きだったら、左に綴じるしかない。

本当は一枚の紙でないと嘘。一枚の紙で、新たに新たに。神さまの光は常に裏を通って抜けているから。
紙の節約で両面印刷するわけだけど、これは特別な場合。神さまのすがたは一枚一枚別個。
神さまの真理の言葉というのは、裏を使っていない。わざわざ裏を使う必要がない。花びらの一枚がすっすっと出てくるだけ。
両面印刷はしない。わざわざ紙を節約して使わない。両面にしたら、裏が映ったりダブるから勘違いしたり色々する。
根本はそう。

一枚の片面だけの印刷の時は、綴じ方が正しいのは右肩。神さまの光の降り方も、光の流れもそう。
横書きを左肩で留めたら流れがない。まずめくってこう見てめくって、流れない。
下からこうめくり上げて、出すまでに時間がかかりすぎている。右肩だったら、一枚めくったら、
すぐに最初の出発点が見えている。反対にしたら、下からしか見えない。最初の光の始まりが見えない。
最後だけ見えて、始まりが見えないのはおかしい。流れが逆になっているから。

世間がこうだから正しいのかって違う。この真理の言葉は、縦書きじゃないとダメと言った人も間違い。
極端に言ったら、横書きでないとダメ。本当の真理の言葉は横書きでないとダメ。神さまの世界から見たら、そう。
だから色んな人間が勝手に思いの心で考えて、いくら言葉で決めても間違っている。
まず憲法や法律、いろんな規則、沢山ある方が間違い。本当は何もないのが正しい。不文律。
文章になっていない法律、法憲法、法規、これが本物。だから何が必要か。思いやりの心一つ。

思いやりの心一つあったら、何もいらない。憲法も法律も要らない。憲法や法律があったら縛られている。
何のために作っているか。縛るため。悪い事をしないように。そのために作っている。
悪い事をしないようにって縛ったら、いいことも何もできない。縛られていいことが何もできない。
今の憲法や法律、全部そう。言葉に縛られていいことが何も出来ていない。出来ない。縛りがあるから。
だから憲法も要らない、法律も要らない。規則も要らない。何も要らない。ただ思いやりの心一つあったらいい。
そしたらみんなが幸せになれる。過去に縛られない。新たに新たに、神さまの思いやりの愛の心を生きるだけ。
絶対間違わない。本当に必要なものを与え続けていける。

そしたら国の法律だから正しいか、違う。国の憲法があるから、国の憲法に従うのが正しいか、違う。
真の神さまから見たら、憲法も法律も要らない、邪魔になるって言う。間違っているって断言してくる。
それで正しいことが何か出来ているか、何一つ出来ていないって言ってくる。みんな過去の言葉の縛り。
真祈りと全然正反対。真祈りは常に真の神さまを与え続ける必要なものを、新たに新たに、本当に的確に与え尽す。
過去の縛りがあったら、邪魔されて邪魔されて困る。必要なものを与えられない。

だから思いの心で正しいっていうことは、神さまから見たら、大きい間違いばっかり。
法律だから正しい、違う、法律だから間違っている、と言える。過去の伝統を守る、伝統なんか、過去なんか守ったら間違い。
本当の正しいものを、神さまの御心を伝えるのが本当の伝統だけど、神さまには秩序整然とした統一された働きがある、
それを伝えるのが伝統。これは常に新たに新たにしか、出てこない。過去をつかんで真似をするのは伝統と違う。
これは思いの世界の虚の世界の、偽の伝統。間違った伝統。神さまの本当の御心を伝える、
正しい本物の伝統は、常に新たに新たに。今何が必要か、必要なものを与えてくるのが伝統。
これが本当に、みんなに必要なものを与えて、幸せ一杯にする生き方。過去の古いものを守る物真似では無い。
だから、本当に何が正しいかって、本当の正しいと言うのは、真の神さまの御心そのままのもの。
そこから外れたら、間違い。みんな正しいと言うところから、外れてしまっている。

(平成27年5月9日のお話③)