Q入れ子構造について教えて下さい。

A入れ子構造ってどういう風にとらえる?入れ子構造も、色んな種類が一杯ある。
真の神さまの世界の、一番の最小単位が天照大御神という大きい光源。その一つの大きい光源を持ってきたら、
虚の世界が一瞬に消えるくらいの大きいもの。その最小単位の天照大御神さまを無限に束ねる、それを全部一つに包容できたら、
一段階上の天照大御神さまになる。これはまだ一段階上の入れ子構造。その一段階上のものを無限に集めて、また一つに束ねる。
そうするとまた2段階上がる。次に3段階、4段階となって、無限段階ある。

これが真の神さまの世界の、本当の入れ子構造の根本のすがた。これが、絶対の中心かららせんを描いて、
大きく必要なものを与え続けながら、順番に段階を落としてくる。必要なだけを与えるすがたをとり続ける。
一番末端まで来て、全部Uターンさせている。これも、虚の世界に降りている入れ子構造でも、色んな種類が一杯あって、
大きい模型、小さい模型、複雑な模型、単純な模型、一杯ある。

だから本当の世界の入れ子構造は想像を越えている、言葉を越えている。小さい一段階でも。
虚の世界の宇宙なんて、取るに足らない。形に現れたのなんか無いも同じ。
神さまの世界の入れ子構造は、本当の無限のスピードの循環のすがただから、模型的には現わせない。あまりにも凄すぎる。
でも本物は、本当の完璧な入れ子構造のすがたをとっている。一大循環の相象がそう。これも本当に頭で理解するのは不可能。
直観。神さまの御心が自分の中に入ってこないとわからない。だから神さまに自分の全てを捧げ尽くす勉強ばっかり。
自分を捧げ尽くして、神さまが自分の中に降り立って下さったらわかる。これでしかわからない。だからその勉強。

ありがとうございますも、肉体の自分を捧げるのではない。自分の全てを捧げ尽くす生き方。
真の神さまを捧げるというのは、今新たに受けた真の神さまが、真の自分、その自分の全てを神さまに捧げる生き方。
そうすると、新たにまた真の神さまが自分の中に入って来る。新たな自分。この全てを、真の神さまにお返しして捧げる。
それで循環が起こる。自分の全てと、真の神さまの全てとを、一瞬一瞬取り替えている。交換している。

真祈りというのは、入れ子構造の交換をしている。より大きくより大きく、自分の全てを捧げて、真の神さまを受け入れている。
同じ段階での交換だったら小さすぎる。常に入れ子構造の大きい交換をしてもらわないとダメ。真祈りほど奥深い。
今わかったと思っても何もわかっていない。まだ奥が奥がある、という風にとらえていかないと、わかったと思ってもわかっていない。

日本は、色んな習い事でもそうだけど、何々道、道とつく。道というのは、全体との心の交流。
道というのは、満ち渡っている。全体に満ち渡っているという意味。全てを繋ぐ。道路の道もそう。
全てを繋ぎ合わせる。一つに繋ぐ。何か一つ習い事をするのでも、道となったら、全体との交流がないとダメ。
全てその交流がいる。最高レベルとの交流もいるし、自分との下のレベルとの交流もいる。
全部の段階との与え尽し合いをしないと、本当の交流が起こらない。上ばっかり向いて、助けてもらうばっかりだったら、
小さい交流になる。自分より後から来る下の者とも交流して助けないとダメ。その両方をすることが、道。
だから支え合いというのが本当のすがた。支え合いにならないと、本当の意味での交流がない。

神さまの世界の本当の愛と、虚の世界の愛とは全然違う。虚の世界の愛は、大きく分けたら5つになる。
大犠牲精神の愛、思いやりの愛、寛容の愛、赦しの愛、一体感の愛、これは虚の世界の愛。
苦しんでいる人の身代わりに、そのマイナスを背負って、自分が責任を持って助ける、これが大犠牲精神の愛。色んな助け方がある。
次が思いやりの愛。相手の立場に立って必要なものを与えていくというのが、思いやりの愛。
次は寛容の愛。みんなマイナスに見ずに、そのままスッと受け入れる心。マイナスも何もかも全部プラスに見て受け入れる心。
どんな状態も、プラスマイナスや善悪に決めない。そのままスッと受け入れる心が寛容の愛。
次が赦しの愛。それは常に新たに新たに受け直す、この生き方の愛。過去を一切相手にしない。
過去を一切相手にしない、常に新たに新たにという愛。だから過去を消せる愛。
最後は一体感の愛。真実の世界もそうだけど、本当の一体感の愛がないと、全てが自分と言えないと、本当の愛ではない。
間違う。自分と他人という風に分かれていたら、一体感は全然ない。そういうのは愛とは言わない。この5つが虚の世界の愛。

でも真の神さまの愛は、それでは足りない。真の神さまの愛は、対立しない絶対の愛。
愛する方と愛される方とが分かれていない。ここがまた違う。だから支え合いの愛。一大循環の愛。これが本物。
本当のプラスだけ。ここまで行かないと真の神さまの愛がわかったとは言えない。
虚の愛がいくらわかっても、真の神さまの愛とは違う。だから支え合いが必要になる。
徹底した支え合いというのは、虚の世界の生き方とは違う。本当の支え合う心を持たないとダメ。
下から支える。上に立ったらダメ。上に立つのは我の心。虚の世界のすがたは、みんな虚栄心に負けて上に立ってしまう。
自分を出してしまう。これは虚栄心の塊になって負けているすがた。

自分を一番下に落とさないとダメ。一番下に落として全体を支えないとダメ。そしたら真の神さまが必ず自分を支えに出てくる。
これを繰り返して、真の神さまの支えを受け入れたら本物の自分。真の神さまが真の自分として、現れたら自分になる。
だから自分を出さずに支えに回らないとダメ。自分のしたい事を、楽しいことだといってしたって意味がない。
常に自分を殺して、我を殺して、全体を支えに回らないとダメ。そうしないと真の神さまが降り立たない。
真の神さまが降り立ったら、我が消える、思いが消える。一切の苦しみが消える。
でも真の神さまが降り立ってくれなかったら、思いが消えない、我も消してもらえない。
マイナスなんか絶対に消えない。七難八苦の心に必ず陥っていく。

本当の幸せは、真の神さまに降り立ってもらえることだけ。だから、謙虚に謙虚にならないと。
本当に下からみんなを支えないとダメ。下座の行を徹底して生きないと負けてしまう。
自分が上に出るようだったらダメ。支えてもらって喜んでいるようだったらダメ。自分が支えに回らないと。
これも絶対必要な生き方。真の神さまの支えを受けるためにって。これが本当に自分を神さまに捧げ尽くした生き方。
楽しい事だけしますって言うんだったら、捧げ尽くしていない。
どんなことでもさせていただきますって言うんだったら、捧げ尽くしている。

どんなことでもするって言うのは、一番下から下座に生きないと出来ない。
良い役ばっかりするんだったら、誰にでもできる。嫌なことから逃げるようだったら、違う。
みんなの一番嫌がる仕事を喜んでできないと、捧げるというのが出来ていない。
本気で自分が捧げ尽くしたら、真の神さまが出てくる。必ず全体から自分を支えてくれる。無限倍の支えが来る。
これが本物。本当の幸せ。だから自分が本気で支えているかって、この勉強が一番大事なことなんだけど、
それが出来ないと、支えてくれない。自分がまず支えに回らないと、誰一人支えに来てくれない。
虚の世界の、与えたから与え返される、この程度ではダメ。真の神さまの世界の支えは無限倍になって出てこないとダメ。
そのために自分の全てを真の神さまに捧げ尽くして、支えに回る。そしたら全体から必ず支えてくれる。
そのために生きないと、本当の生き方ではない。損をしている。

(平成27年5月9日のお話②)