Q 心臓に不安があるのですが、今度の御池岳のご奉仕に参加してご迷惑にならないでしょうか。

Aどんな難病でも、神さまが自分の中に降り立って自分を神さまの御用に使ってもらえたという風になったら、全部消える。
マイナスというのは真の神さまの降り立てないすがた。我を出して、真の神さまを拒絶し続けたら、
そこが神さまの降り立っていないすがた、マイナスのすがたになる。
神さまに自分の命を捧げて使ってもらう限りは、どんなマイナスも、神さまの力ですっと消してくれる。過去は無関係。
神さまの御用にこの命お使いくださいって神さまに投げ出せばいい。そうしたら神さまは降り立ってくれる。
他と比較するのではない。神さまにお任せだけ。そしたら全体が神さまの支え。みんなが支えて一緒に上がってくれる。
自分一人でどうのこうのするのは間違い。神さまに、全体に支えてもらうのが正しい。そういういい体験も生まれるかもしれない。

真の神さまが自分の体にスッと入ってきて降り立って下さる、これはもう最高の折り方だけど、
でも守護霊さん、守護神さんが中に入るだけで、使ってくれるだけで、奇蹟が起こる、不思議なことがいっぱい起こる。
山に登る時なんか、例えば天狗の霊が背後について護ってくれて、中に入ってくれたら、飛ぶように走って上がれる。みんなそう。
必要だったら、色んな種類の支えがいっぱい来る。カモシカが入ってくれたら、動物霊って言っても、
あの世の動物霊は、この世の動物ではないから、立派な神格を持った動物の神さまがいる。
だから必要だったらどんな助けでもしてくれる。ちゃんと乗せてくれる。

Q 真の神さまの本当の意図を汲み取るには、どうしたらいいのでしょうか。

A 本当に神さまの御心を知るというのは、自分を投げ出さないと出来ない。神さまに自分の全てを投げ出す、捧げつくす。
神さまが自分の中に入って来てくれる、一番身近にスッと入って来る。それで気付かせてもらう。
我を強く出した時は、神さまが入って来られない。遠くにいる神さまは絶対わからない。

自分を捧げ尽くすこと。そうすると神さまがスッと入って来る。それを繰り返すと、神さまと自分とが心の交流を起こす。
心の交流が起こったら、神さまの心が全部わかる。新たな神さまの御心がそのままスッと入って来る。
一回きりではない。新たに新たに、神さまの御心が流れ込んでくる。一回わかったから後ずっとそれでいいか、そうではない。
一瞬一瞬、変わらないと間違うから。だから神さまの御心が、一回一回、新たに新たに入ってこないとダメ。
過去、これが正しいといっても、いつまでもつかんでいたら、大きい我の業の心になる。常に新たに新たにって。
自分の全てを捧げ尽くす、そうしないと交流が起こらない。捧げ尽くす。「尽くす」というのがいる。
自分の一部をちょっと捧げただけでは、交流にならない。

神さまの全てと、自分の全てを交換しないとダメ。自分の全てを捧げ尽くす。そうすると、神さまの全てが入って来る。
また自分の全てを捧げ尽くす。また神さまの全てが入って来る。与え尽す、捧げ尽くすというのは、全部なくさないとダメ。
何も残らないまで尽くしてしまう。出し尽くす。これが必要。そうすると心の交流が起こる。
普通はちょっとだけ捧げる。ちょっとだけ捧げたって、ちょっと入って来たって交流にならない。
循環交流というのは、全てを交換しないとダメ。置き換わらない。
例えば自分が器に汚れた水が一杯あるとする。神さまが新しいきれいな水を一杯注ごうとする。
全部開けて、サッと投げ出したら、いっぺんにスッときれいな水に置き換わる。
でも器の中の汚い水をちょっとだけ神さまに捧げたって、交換でちょっと入ったって、汚れも濁りも何もとれない。
全部交換しないとダメ。神さまの方は、常に新たに一回投げ出して、もう一回受けて、またそれも全部投げ出さないとダメ。
常に新たに新たに、全てを置き換えてもらうのが、本当の正しい生き方。
これが本当の一大循環の相象。過去の全部を投げ出さないと、本当の循環は起こらない。

常に、自分の全てを神さまに投げ出す。これが、どれだけの凄い事か。
イエスさんが弟子に対して戒めとして教えているのが、
「汝、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主なる汝の神を愛せよ。」
自分の中の本当の真の神さまを愛しなさいと教えている。全てを尽くしてというのは、凄い事。
そうすると神さまの愛がスッと入って来る。常に神さまと一体という風に、感じさせてもらう、実感させてもらう。
そしたら神さまの心が、もうそのまま自分の心になって湧くように出てくるからわかる。
神さまの心と自分の心が対立しているようだったら、何もわからない。神さまの心が自分の心になって降りてこないとダメ。
神さまの心が自分の心という風に入ってきたら、そのまま神さまの心がすっとわかる。
そのために自分の全てを捧げ尽くすという勉強をする。全てを捧げ尽くすこと。
そしたら、神さまの方からわからせてくる、実感させてくる。全てを捧げ尽くす。

具体的に実践するために、どうしたらいいか。日本は、随神(かんながら)の道って説く。言葉を変えたら、忠・孝・悌。
君に忠、親に考、師に悌。この最高の生き方、至ると書いて、至忠・至考・至悌。本当の絶対奉仕の生き方。
これが神さまを相手にする生き方。だから君(きみ)に忠、親に考、師に悌は、この世のすがたではない。絶対の中心者という意味。
それが色んな段階に現れたら、色んな君が生まれる。太陽系の中心者の君があるかもしれない。
地球の君があるかもしれない。国の君があるかもしれない。どこかの会社の君があるかもしれない。
一つの家庭の君があるかもしれない。色んな種類の君、中心者がいっぱいある。

中心者というのは、上に立つということではない。下から支える人。全体を下から支える人が、君という中心者。これが本物の君。
家庭でも、家庭を支える、誰かご主人かもしれない、本当に、全体を、家庭を支えるのだったら、家庭の中心者、君になる。
国を本当に下から支えるのなら国の君になる。君にも無限の段階がある。その一番おおもとが真の神さま。

親に考という。親孝行しなさいと言うけれど、この親がピンからキリまで。
肉体の親がある。何代も前の親がある。生まれた時の親もあるけど、色んなものに生まれ変わった時の親が一杯いる。
守護霊さんもある意味では魂の親。守護神さんも命の親。もっと大きく見たら、いろんな親が一杯出てくる。
おおもとが真の神さま。そしたら親に孝、孝行しなさいって言うのは、肉体の親の言うことばっかりを聞いているのは、
親孝行でも何でもない。上の親の言うことを聞く方がもっと親孝行。

だから肉体の親が無理難題を言って来て、はいと聞いて正しいか。守護霊さんの言うことを聞く方が、はるかに親孝行。
守護神さんの方がもう一つ上。真の神さまの言うことを聞くのが最高の親孝行。
本当に親孝行しているかって問い詰められたら、真の神さまに、本当に自分の命を投げ出して、
絶対奉仕に生きていたら、本当の親孝行。そしたら周りの全てが、自分を支えるすがたをとるはず。
本当に尊敬して、親孝行してくれなかったら、自分がかなり我を出している。
肉体の親にいくら親孝行したってダメ。守護霊さんに対して反対のことをしているかもしれない。
真の神さまに対しては、本当に無礼千万な親不幸をしているかもしれない。それをみんな鏡に映すように見せられる。

次は、師匠に対する悌。師匠って一杯いる。色んな種類の色んな段階の師匠が一杯いる。学校の先生もそのほんの一部。
色んな学びの過程では色んな師匠がいる。何か一つのことを習うんでも、我を出して、師匠を馬鹿にしているようだったら、
何も受けられない。言い訳しているようだったら、もう一つ受けられない。本当に謙虚に素直に、はいって聞かないと、
師匠の段階まで引き上げてはもらえない。どんな師匠に対してでも同じ。自分の全てを捧げて、師匠の持っているものを
全部受け取らないとダメ。心の交流がいる。そしたら師匠の持っているものを全部自分が受け取れる。
どこまでそれを本気でするか。色んな段階の師匠に対して全部同じ。

真の神さまに本当に自分を投げ出して、全てを与え尽して、本当の師匠として受けるんだったら、
真の神さまとの本当の心の交流が起こる。そしたら真の神さまが常に出てくる。神さまの智恵で一杯になる。
至忠・至考・至悌が日本の国の本当の絶対奉仕の生き方を教えている言葉。
日本の国は、太陽が象徴になっている。太陽はまだ小さい。真の神さまと比べたら、真の神さまは本当の無色透明。
一つの光源ではない。日本の国に降りている太陽の意味は、まだある意味では小さい。
それでも与え尽すという意味では、素晴らしい心を現わしている。

国の花は桜。山桜は花びらがひらひら散る、散り際がいい。花吹雪。つかまない、潔い、自分の全てを捧げ尽くせる。
散り際がものすごくいい。だから、日本の国の心になっている。桜が国の花になっている。
新たに新たに受け直して、すぐにそれを放せる心。これは一大循環の相象そのまま。神さまの方かららせんになって現れて、
それが次から次へと新たに新たに降り注ぐ、桜の花びらの散るようなすがた。

もう全てが、神さまの御心を本当にわからせてもらうための勉強材料として与えてもらっている。
何から何まで全て。自分が我を出すか、謙虚に素直になるか。それが本心側に立つか、思いの心の側に立つか、この違い。
ちょっとでも過去をつかんで思いの側に立ったらわからない。まず、自分を投げ出していない。
でも本心側に立つのだったら、新たに新たに謙虚に素直になって、自分の全てを捧げようとする。
必ず神さまと心の交流が起こる。色んな段階の色んな種類の交流があるけれども、真の神さまが根本に立って、
心の交流をして下さると、色んな面で全部心の交流が起こる。そうすると進歩が早い。一つだけではない。
色んな種類の色んな交流を起こすようになっている。だから色んな面での自分の進歩が早い。

だから心境だけが変化するのではない。色んな能力も全部そう。今何も出来なくても、神さまとの交流があったら、
何でもできる自分に変わる。出来ないというのは過去をつかんでいるだけ。
自分にはこれだけしか出来ないというのは、大きい我の心。
過去のマイナスをつかんで頑張っている心。何でもできるって言わないと。
神さまが自分を使ってくれるのだったら、どんなことも出来ると言わないと、神さまに対しては頑固極まりない。
日常生活の全ての面で、本当に本心の自分を生きようとしないとダメ。それが一番大事なこと。
本心の自分は、常に神さまとの心の交流を図る。自分の全てを捧げ尽くして、神さまに使ってもらおうとする。
これが一番必要な大事なこと。

(平成27年5月9日のお話①)