(勉強会で)一番最後に出てきた図が、入れ子構造の仕組みの一番簡単な小さい模型。
あれが無限の段階に渡って、無限に複雑なすがたをとっているのが、本当の入れ子構造の模型。
真の神さまの本当の入れ子構造のすがたは、荘厳極まりない、言葉で表現できない世界になっている。
その一番おおもとが、絶対の中心。一番大きい立場。
本心の自分というのは、真の神さまが自分として降り立った姿が、本心の自分。
これも、どの程度降り立っているかによって、無限の段階に分かれる。一番大きい自分、一番小さい自分、
本心も無限の段階がある。本心だから同じではない、無限の段階がある。真の神さまの世界がそう。
一番大きい世界ととらえても、更に上に入れ子構造の一段上の世界がある。これが無限に続いている。
その本心の自分に、無限の段階があるというのは、まだ小さくとらえた模型的な見方。
どれだけ奥深いか、底知れないものがある。

本心の自分は、本当に新たな自分、過去と無関係。常に新たな自分。一番大きい自分。一番自由自在な自分。
それが段々と、大きい自分が小さくなる。自由自在な自分が不自由になっていく。
でも本心の自分は、絶対つかまない、何もつかまない。過去もつかまない。部分的な立場もつかまない。
どの部分もつかまないのが本心の自分。
虚の自分はつかむ。過去をつかむ。時間的にいろんな自分をつかむ。空間的にも色んな部分をつかむ。
つかんで離さないのが虚の自分。本心はつかまない、いつも自由。大きい立場に立ってもつかんでいない。
小さい立場に立ってもつかんでいない。真の神さまの愛の相象、一大循環の相象をそのまま流すように見ている、
眺めている。その眺める立場が色々ある。その立場というのも大事。

一つの景色を眺めるのでも、どの立場から見るかによってみんな見え方が違う。
大きい立場から見る、小さい立場から見る、いろんな部分的な立場でも、色んな立場から見る、これは必要なこと。
だからこの大きい立場、小さい立場、色々あって、また色んな自由自在な立場があって、味わいが深くなる。
これも受ける側の味わい方。真の神さまが与えて下さっている一大循環の相象のこの一部を受ける、味わい方。
受けて味わうのでも、無限の無限の立場がある。本心の、与えてもらっている立場。味わうための立場。
本心も、味わうための受ける立場もある。どれだけ真の神さまの愛を受け取るか。
でももう一つ大きいのが、真の神さまと同じ立場っていう、与える立場。

与える方が、もう一つまた無限の無限倍になる。だから、この絶対の中心って言葉では言うけど、
末端の絶対の中心の模型ですら、とらえどころがない。模型の絶対の中心ですら、大きすぎてとらえられない。

でもそれは、真の神さまの働きの末端の片鱗でもとらえたら、真の神さまの愛をわからせてもらう、
実感させてもらう。どれだけ大きい愛かって。虚の世界の愛なんて、愛の内に入らない。
山よりも高く、海よりも深く、そんな程度ではない。無限に無限に大きく、無限に無限に高く、無限に無限に深く、
これでもまだ足りない。

一人一人の本体、本源、これが真の神さまそのもの。同じ悟りを開くのでも、二通りある。
虚の世界で修業して、大きい自分に戻って行って、自由自在になって悟る、この悟りと、
真の神さまが降り立って自分として現れる、この悟りと、その二通りある。どちらが本物か。
小さい自分が修業して悟るのは、虚の悟り。あまりにも無限に小さい。
真の神さまが降り立って自分となって降りて、悟った自分が降り立つ。これが本物の悟り。
無限に無限に大きい悟り。どちらを本物と認めるかって、虚の自分は本物がわからない。
ちょっとでも過去をつかんで思いの自分になっている我の自分では、本物はわからない。

常に新たに新たに受け直して、真の神さまに降り立ってもらって、真の神さまが真の自分という風に
自覚を与えてもらった時からが、本物の本心の自分。この自分を本当は目指している。
悟りも、本物の悟りを目指している。偽物では、本当の心の安らぎは無い。常に本物を目指す。
真の神さまが真の自分って、これは本物の自分、本当の自分。本源の自分、本質の自分、本来の自分、根本の自分。
常に、本心の自分にはそういう意味がある。

だから立場も、本心の16項目を全部中に持った立場。どれだけ大きいか、どれだけ種類が多いか。
これも自分が手に入れようと思っても出来ない。神さまから与えてもらえてもらえない限り、出来ない。
それで、何が必要か。色んな立場に立てても、その立場から本当に自分が自由に移動できるかって考えたら、
本当に悟った自分だったら出来る。でもちょっとでも一つの立場をつかんでいる自分だったら、できない。
特に虚の世界に落ちて、一つの立場をつかんだら、その立場を一段でも上に上げられるか、上げられない。
同じ立場にとどまってしまう。一つ心境を上げるだけでも、無限の年月の修行がいるかもしれない。
虚の世界の悟りをうるのでも、無限の年月をかけないとダメ。立場を上げていくために。

真の神さまがどうしてくるか、何を与えてくるか。何が必要か。やっぱり心の交流。真の神さまとの交流がいる。
これが必要。交流というのは、求める心と求める心が交流すると、マイナスの交流になる。マイナスが増幅する。
与える心と与える心の交流は、プラスの増幅。プラスが大きくなる。プラスの交流がいる。
虚の世界でも、色んな交流が起こる。例えば、マイナスの言葉をお互いが投げ合ったら、みんな心が地獄になる。
マイナスの交流でマイナスを増幅して、めちゃめちゃになる。プラスの言葉で褒めあったら、お互いが喜び合う、
幸せが増幅する。

心境の違う人が交流すると、心境の高い方に両方が合って来る。心境だけではなく、全ての問題がそう。
仕事でも、仕事の出来る人と一緒にしていたら、段々それに倣って、仕事が出来る自分に変わる。
相撲取りもそう。強い横綱がいる所で稽古すると早く強くなる。やっぱり周りとの交流。
それによって段階を上げてもらえる。

普段の生活の中で、自分がどこと交流するか。周りの環境も必要。環境に絶対左右されない、影響を受けない
という人だったら強い人。その人はどういう人かと言うと、環境のすべてと交流するのではなく、
真の神さまと交流する、一番強い人。本当にお祈りの出来る人。
他と交流しなくても、真の神さまと交流しているから一番強くなる。一番心境を上げていくんだけど、
まだそこまで行かなかったら、心境の高い人との交流が必要になる。

マイナスをいっぱい持った低い人としたら、自分がマイナスになっていく。環境を選ぶのも大事。
どういう環境に自分を置いて、周りと交流するか。選ばないと損をする。
お祈りを深めたかったら、お祈りをしている人と交流を深める方がいい。段々とお祈りが深くなる。
でもお祈りが出来ない人の中に入って行ったら、今お祈りが出来ても出来なくなっていく。
だいたいプラスとマイナスを合わせたらゼロになる。自分がプラスでも、マイナスを相手にしたらゼロになる。
両方がゼロになる。マイナスの人は助けてもらってゼロになる。
プラスの人はプラスをとられてゼロになる。

同じ交流するのでも、相手のプラスを奪ってしまうだけでは、ダメ。
本当の意味で、お祈りをしている人は、より上と常に交流を図っている。その余裕を持って、下の人と交流する。
自分も常に、より高い立場のものと交流を深めて、自分を高め上げると同時に、低い立場のものを助ける。
これをしないと、みんな高まっていかない。いくらみんな可哀想だと言って、自分が高いものと交流せずに、
今のままでしていったら、低く落ちてしまう。何の力もなくなってしまう。みんなまたマイナスに堕ちてしまう。

人を助けるというけど、マイナスを相手にしたら、必ずマイナスになる。自分は常にプラスに向かないとダメ。
本当は自分がマイナスを相手にしない方がいい。これが真祈りの生き方。自分は真の神さまだけを一対一で相手にする。
そして真の神さまに降り立ってもらう。真の神さまが、マイナスを相手にして、変えて下さったらいい。
マイナスを変えるのは真の神さまに任せないと出来ない。本当の意味はそう。
真の神さまに自分の前面に出てもらって、全てのマイナスを相手にして消し去ってもらう、プラスに変えてもらう。
そのために、真祈りになっている。真祈りというのは、自分の祈る祈りではない。
神さまに降り立ってもらって、神さまの力を奮ってもらう、神さまの祈りが真祈り。

それで真の神さまを降ろす祈り、真祈り、これがどうしたら出来るか。
これも真の神さまと自分との関係が根本にある。まず自分を真の神さまに与える。
この命、真の神さまに捧げます。この命、神さまの御用にお使いください、神さまのお手伝いをさせて下さい、
と自分を神さまに預ける。そしたら神さまの方から、それに合う与え方をしてくる。
ここで、与え合いで交流が起こる。自分のレベルが真の神さまのレベルと一つになるように、高めてくれる。
常に真の神さまが降り立って、自分を通して、大きい力を奮ってくれる。これが真祈りの練習、真祈りの生き方。

宇宙船護摩木を今書かせてもらっているのも、そういう意味で、神さまとの交流をしている。
みんなとの本当の意味での交流。宇宙船護摩木を書いているのは、マイナスの人を相手に書いているのではない。
本心の一人ひとりに対して、真祈りを捧げて交流をしている。まだ代筆と言っているけどそうではない。
真祈りの代筆は、本心の自分の祈りだから、みんなの本心の代わりに祈っているというすがたをとる。
大きい与え方。本心どうしの真の神さまを与えるという与え合い。本心同士が交流する。交流するほど大きく力が増幅する。



(平成27年5月2日のお話①)