虚の世界はどうして生まれたの?与えるのと受けるのとって、どっちが大きくなる?
与えると、どこまでも大きくなる。受ける立場はどこまでも小さくなっていく。
真の神さまは、絶対の愛。与え続けるだけ。それも、どこまでも大きく大きく。だから一番大きい立場に立てる。
絶対の中心って一番大きい立場。与える側は、全ての全ての立場から、全ての全ての立場へ、与え続けられる。
だから、与える側は、無限の無限の立場を持っている。だからどこまでも大きく大きくなっていく。
受ける立場っていうのは、やっぱり一点になる。一つの立場で受け取る。全体から、全方向から受け取るにしても、
一つの立場で受ける。受けるというのは、一点だから、どれだけ大きく受けても、与える側と比べたら、無限分の一以下。
その受け方が、どんどんどんどん小さくなる。全体ではなく、部分で受けるようになると、どんどんどんどん小さくなる。
受ける側は、どこまでも小さく小さくなっていく。

虚の世界というのは、一大循環の相象がどんどん小さくなっていく世界。
与える側に立つのを忘れた時に、虚の世界に転落していく。常に大きく大きく与え続けていないと、虚の世界になっていく。
受けるというのは、どれだけ大きく受けても小さい。やっぱり自分の興味あるもの、関心のあるもの、
そういうものだけに限定されて受けようとする。そうすると、どこまでもどこまでも、小さく小さくなっていく。
その受け方が下手になると、マイナスになる。

一点をつかむと、一人ひとり座標軸を作る。一点をとらえたら座標軸の原点が出来る。
どういう座標軸を作るかってみんな違う。プラスとマイナスに振り分けたり、善と悪に振り分けたり、
色々相対の両極に分かれる振り分けを、縦線と横線でする。お金儲けが一番大事という人は、損得ばっかりの、
儲かった損したという座標軸を作る。勝ち負けの世界だったら、勝ち負けの座標軸を作り上げる。
その人にとって一番大事な興味のあるものを要素にして座標軸を作って、その人の世界・運命を作り上げる。

一人ひとり、どの立場に立って、どういう座標軸を作って、その人の言葉通りの世界を生み出しているか。
虚の世界全部が、その人自身の責任で作っている世界。まず座標軸を決めている。
どういうものをそこに表現しようとしているか、一人一人みんな違う。興味のある対象がみんな違う。
みんな共通していない。プロ野球の選手だったら、一生野球のことだけが頭にあると思う。他のことに関心がない。

 

与える側は、無限の無限の大きい与え方。受ける側は無限の中から一つ受けるだけ。
その一つの中もまた細分化されるから、小さくつかんだらその中のまた無限分の一くらいしか受けようとしていない。
無限の無限分の一くらい、それをその人の言葉通りに座標軸に表現して、楽しんでいる。
虚の世界というのは模型の世界。どういう模型を作って楽しむか。自動車の模型を作ってミニカーが出来る。
仏像の模型もある。色んな模型が一杯できる。本物をちょっと映している模型。

この一生でどういう模型を作って楽しんでいるか。虚の世界に落ちて一点に自分の立場を置いたら、みんなそういう世界。
幸せって言えるかどうかわからない。あまりにも小さすぎる。いくら自分の思い通り願い通りになってもあまりにも小さい。
神さまが与えようとするものの無限分の一受けていないし、その中からまた小さい部分しか受けていないから、
本当の神さまの愛がわからなくなる。

美味しいものさえ食べられたらって一生終わっている人もある。何が幸せかってわからない。
働きも何もしないで、小さい子供みたいに一生遊んでいたら幸せって思っている人もいる。
それで幸せかって、そんなことはない。やはり神さまの側に自分を置かないと、本心の自分にならない。
大きく大きく与え続ける自分は、本心の自分に成る。本当の幸せ、無条件の幸せが湧き上がってくる。
どれだけ与え続ける自分になれるか。小さくではダメ。大きく大きくでないと、神さまの愛を感じ取れない。

だから小さい自分になってしまうと、受けて喜ぶだけで終わる。
それも小さく小さく受けて喜んでいるぐらいの一生に、なってしまう。本心の自分に戻るのではなく、
反対に小さく小さくなってしまう。本心の自分は、自由自在心。一点にとらわれない。一点をつかんで執着しない。
だから無限の立場に立って与え続けられる。立場が自由自在だから、与え続けることが良くわかる。
でも過去をつかむ思いの心に陥ったら、一つの立場に縛られてしまう。
一つの立場に縛られたら、その立場にしか立てなくなる。思いの心は全部そう。一点をつかんでしまう。
その立場に縛られていく。

一つの立場に立ったら、必ずプラスとマイナス、両方に分かれる。
自分を中心に置いて、いい方がプラス、悪い方がマイナスになる。自分の立場という立場から、原点に置いて振り分ける。
善悪も同じ。自分よりいいことをしているのは善、悪い事をしているのが悪になる。
相対の両極に振り分ける全ての要素がそういう風になる。自分を中心、原点に置いて、両方に振り分けてしまう。
一つの立場をつかんだら、必ず相対に分かれる。それで虚の世界になる。自分の立場が無かったら、振り分けない。
一つの立場にとらわれなかったら、振り分けがない。

虚の世界でいくらプラス一元、光一元と言っても、本物とは違う。
例えばマイナスの極に自分を置いたら、絶対の零に自分を置いたら、周りが全部プラスに見える。
ゼロまで大きいプラスに見える。虚の世界だったら、自分の立場をマイナスの極に置けば、そこを原点に置けば、
残り全部がプラスには見える。でもそれは真のプラスの一元とは全然違う。虚の世界の小さいプラス一元。
光一元と言っても同じ。本物は一番大きい、無限の無限のプラスが大きく降り注ぐプラス。
虚の世界のプラス一元は、小さいプラスを無理矢理プラスに見ているような、プラス。
同じ光一元とかプラス一元と言っても、全然違う。本物は無限に無限に大きいプラス。
偽物は無限に無限に小さいプラス。だから虚の世界はあくまでも小さい模型。

地獄を、マイナスの極をゼロに置いて、後全てを見渡したらプラスに極楽に見える。
そういう見方では、本当の幸せにも何もならない。本当のプラスがないから。比較上のプラス。
他と比較して、自分がプラスと思っているだけ。そういうのは本当のプラスではない。
虚の世界はみんな、比較してプラスマイナスを決めている。他より自分の立場が上だったらプラスと思う。
他より自分が低かったら自分がマイナスに見える。思いの世界、思いの心を生きている世界って、みんなそう。
人と比較しては、ああ幸せだ、不幸だといっている。そんなのは本当の幸せではない。
他と比較するようだったら小さいマイナス。いくらプラスと言い張ってもマイナス。

どうしたら本心の自分に早く戻れるか。これは大きく大きく与え続ける練習だけ。
自由自在な立場にいつも自分を戻そうとしないと。自分の立場を全ての立場に置く、全方向に置く、
常に大きく立場を置き換えないと。忘れたら小さくなる。そのお手本は、真の神さま。
常に真の神さまと共に歩む、この気持ちがあったらその立場に戻っていける。

だから一瞬一瞬、大きくなるか小さくなるか、どちらかを選ぶ。大きくなろうと思ったら大きく与え続ける練習。
小さくなるのは簡単。与え続けるのを忘れたらいいだけ。与えなかったら、どんどん小さくなっていっている。
単に与えるのは、自分の持っているものを与えるのは小さすぎるから、いくら与えたといっても、与えていないのと同じ。
神さまから見たらそんなもの。だから支えるという生き方がいる。支えるが、一番大きく与えないとダメ。
全体を支えるというのは、大きい与え方が必要になる。それで真の神さまの助けが必要になる。
真の神さまの助けが必要にならない限り、支えるではない。全体を支えるために、大きく支えるために、
真の神さまの力が絶対に必要、これが支える生き方。自分で何か与えるのだったら小さすぎる。
まだ支えるまで行かない。いくら与えても、小さくしか与えられない。一人の人に対してでも、与え続けるのは難しい。

これもやっぱり自分が自由意志で選んでいる、全てそう。
いくら真実の世界だからと言っても、本心の自分でも自由意志で選び続けないと。
本心の自分だからこそ、より大きく大きく与え続けようと選ばないと、大きくなれない。
ちょっとでも与えるのを怠けたら、小さくなっていく。どこまでも大きく与え続けようとしないと、絶対の中心に立てなくなる。

だから自分が真の神さまを与えるといっても、与える対象を広げないとダメ。
全ての全てに、真の神さまを与え続けようとする。それも無限に無限に一杯与え続けようとする。
一回与えたらいいのではない、無限に無限に一杯与え続けようとしないとダメ。
だから時間的にも空白があったらダメ。一瞬も空白を作ったらダメ。与え続ける、間断なく与え続ける。
空間的にも与えていないところがあったらダメ。隙間がないくらい間隙なく与え続けないとダメ。
それも常に無限に無限に一杯って、与え続けようという気持ちを起こさないと。忘れたらダメ。



(平成27年4月25日のお話①)