自分が本当に何を選ぼうとしているか。本当に自分が何を必要とするか。一番大事なのは何か。
本当に自由に生きたかったら、真の神さまを選ばないとダメ。自分の自由意志を最高に発揮しないと、自由ではない。
もしマイナスを選んだとしたら、それは操り人形、奴隷。まだ自分の自由意志を発揮していない、選んでいない。
本当の平等の、愛の平等という意味で、平等を感じるとしたら、神さまの全部を受け取らないとダメ。
神さまのプレゼントを全部受け取れるようにならないと、平等感は無い。
だから肉体が自分とか、魂が自分とか、いのちが自分とか、そんな小さい捉え方だったら、まだ思いの奴隷。
我の自分を生きている。

その我の自分をどうして消してもらうか。消して欲しいという側に立たないと消してもらえない。
我の自分を生きている限りは、我をのさばらすから、神さまは邪魔出来ない。我を消すわけにいかない。
でも本心の自分をしっかりと生きようとして、我を消して欲しいという立場に立ったら、神さまは力を奮って、
我を消すことが出来る。その自由意志がどこにあるかって、神さまはいつも確かめている。
本当に真祈りを祈ろうとしたら、自由意志が本心をしっかり生きていることになる。
まだ恩返しに生きようとしたら、そう。本心を生きていることになる。
本心を生きるというのは、我を消して欲しい生き方。

過去をつかんで、思いを溜めて、我が一杯溜まる。我というのは苦しい。みんな思いの縛り。
小さく縛られているから苦しい。必要なものが循環してこないからマイナスで一杯になる。
心がまず七難八苦の心になってしまう、苦しい心になる。過去をつかみ続けたら、みんながんじがらめに縛られる。
本当の鎖でがんじがらめに縛られるような状態になってしまうから、苦しい。本心は反対。
本心は、一番大きいところから新たに新たに、与えてもらったものを受け直すから、
元から縛りがない自分に成っていく。

縛られた我の自分を救うのではない。反対。縛られていない新たな自分をしっかり受け直したら、
縛られた自分が消えていく。縛られた自分を解放するのではない。我の自分が消えたらいいだけ。
本心の自分が出てきたら、光の自分が出てきたら、闇の自分・我の自分は消える。
プラスの自分が出てきたら、マイナスの自分は消える。本心の自分を引っ張り出さない限り、
本心をしっかり受け直さない限り、我は消えない。本当の苦しみは全部消せない。

だからどこまで神さまに全部お任せできるか。本当は神さまが生かしてくれている。
全ての面で必要なものを与え続けてきてくれている。ただそれに気付かなくなってしまった。
一番おおもとで、最高のものを与えて来てくれている。最高の生かし方をしてくれている。
それを忘れて拒絶して、どんどん小さくなってしまった。神さまは何も与えてくれていないという風になっている。
反対。神さまの与えるのは変わっていない。神さまの祈り、真祈りは永遠に変わらない。
常に最高のものを与え続けてくる。受ける側が変わっている。受ける側がマイナスの言葉、
つまらない言葉を使い続けて、それを拒絶し続ける。

だから一瞬一瞬、自分の選んで使う言葉通りになっている。全て自分の選んだ言葉通りになるというのが絶対の法則。
これは絶対変わらない。例外は無い。自分の見たり、聞いたり、言ったりする言葉が、全部自分の選んだ言葉になる。
本当に真祈りの祈り言葉をしっかり唱えて、祈り続けている限りは、自分はマイナスの言葉を見たり言ったり聞いたり、
絶対にしないと思う。祈り続けている限りそう。隙間なく祈ったら、何も入ってこられない。

そしたら、我も思いもマイナスも全部消える。我があるから祈れないというのは反対。
本心をしっかり生きて祈らないから、我が残っている。何もないよりは我がある方がいい。
本心を生き出したら、我が必要ないから消える。だから本心をしっかり生きられるようになるまで、
我を残してくれている。まだ思いを残してくれている。マイナスでも、残してくれている。
何もないよりはいい。だからマイナスで喜んでいたらダメ。つまらないプラスで喜んでいたらダメ。
本当の大きいプラスで、最高のプラスで喜べるようになっていくのが、必要、大事。

回転ずしを食べに行った時に、自分の好きなのを一杯とって食べても、まだたくさん循環する。
一人では食べきれない。大勢のお客さんが、100人いたら100人の分が全部廻って来る。
神さまの与えてくる回転寿司のすがたは、そんなのではない。自分に必要な無限倍がいつも廻って来る。
無限の中から一つ、選ばせるために循環させてくる。10倍100倍と違う、いつも無限倍。
大きい自分に成ってもまた無限倍。更に大きくなってまた無限倍。常に無限倍を用意して、
無限の中から一つを選ばせてくる。

そしたら神さまのプレゼントを無限分の一でも受け取ろうと思ったら、
常に過去を離して新たに新たに、でないと受け取れない。過去をつかんでいたら新しいものは何も受け取れない。
全部通り過ぎるだけ。知らない間に。知らない間に全部通り抜けている。
だからこの新たに新たに受け直そうとすることと、神さまのように与え続けようとすると気付く。
本当の意味で与え続ける側に立たないと、気付かないし、実感もない。
お祈りも、やっぱり求める・受ける・与えるでは小さすぎる。だから支える心で祈る。
全体を本当に支えるというのは大きい力がいる、大きいプラスがいる。

だから支える心で祈るのが、神さまの愛を感じ取るための本当に必要な生き方。それで支える心で祈る。
宇宙船護摩木も支える心で書く。みんなそのために神さまが用意してくれている。
本当に本心の自分をしっかり生き続けられるように。神さまの愛を、本当にひしひしと感じとれるようになるまで、
神さまがあの手この手を差し伸べてくれている。神さまが一人一人の中に一生懸命入ろうとしている。
みんなの中に入って、助けようとしている。

(平成27年4月18日のお話②)