真祈りとは何か。無限通り答えがある。なぜかっていうと、真祈りというのは、真の神さまの祈り。
与え方が、大きい。だから無限通り与えてくる。真祈りってわかったつもりで、つかんでいるのは小さい。
どこまでも大きくなる、深くなる。真祈りとは何か。どういう風に定義するか。

まず絶対の中心から、これは一番大きい立場。全ての全てに。全てと言ったら多い。
更に全ての全てと言うと、入れ子構造的な世界が全部含まれる。絶対の中心から、全ての全てに
真の神さまを与え続けること。どういう風にか。一瞬一瞬、新たに。これは大事なこと。

一番大事なのはやっぱり、一瞬一瞬、新たにという言葉。この絶対の中心から舞い降りてくる神さまの働き、
一番大きいところから全ての世界を、次元を通り抜けて、舞い降りてくる。大きい与え方。
それが一瞬に舞い降りて舞い戻る。真の神さまが与えてくるというのは、大きい。
一つのらせんの動きですら、そう。これが全方向から、無限倍になる。一点の立場に立つ自分に対して、
大きいものを全方向から与えてくる。

与え続けるというのは凄い。一回一回切り分けて、新たに新たに与え続けてくる。一回きりではない。
連続した一つではない。一回一回が新たな与え方で、大きく与えてくる。その与え方が、ところてん式に
ずーっと連続する。本当に一大瀑布のように降り注ぐ、すごい事。でも、これも一点に対して。まだ小さい。
神さまの与え方は、一点だけではない。全ての全て。無限の無限に。だからどこまで大きく与え続けているか。

みんなが真祈りを祈っているって、どういう気持ちで祈っているか。まず一番大きい立場に立たないと、
神さまの祈りに近づけないから、まず絶対の中心に立とうとする。一番大きいところから、
絶対の中心から全ての全てに与えようとする。一瞬一瞬新たに。そして全方向から与えようとする。
一点からではダメ。大きい立場に立ち直して、全方向から与えようとする。
それで真の神さまを与えるのだけど、それも無限に無限に一杯与えないと、真の神さまを無限に無限に一杯
与えないと、ダメ。それも与え続けないと歯抜けになる。届かないところが一杯出てしまう。

だから真祈りを祈るというのは、絶対の中心に立って、絶対の中心から全ての全てに、一瞬一瞬新たに、
全方向から、無限に無限に一杯、真の神さまを与え続けること。これが真祈り。
これを一生懸命祈る練習をすることで、真の神さまの働きのほんの一部をちょっとだけ、感じさせてもらう。
真祈りの凄さを。そしたら、どういう風になっていくか。真の神さまと自分との関係が、本当の一対一になる。
真の神さま以外、何もないってなる。真の神さまの働きがあまりにも凄すぎる。愛の働きが、一大循環の相象が、
無限に無限に素晴らしいっていう位と違う、凄すぎて言葉も出ないっていう位、愛の凄さに圧倒される。
そこまで行かないと、真の神さまだけとは言えない。まだ、真の神さま以外に何かあるように錯覚する。
虚の世界があるとか、マイナスがあるとか、つまらないものを認めてしまう。
これはまだ、真の神さまをしっかりと、自分が大肯定していない。全てを肯定する、全肯定していない。
本当に真の神さまだけだと大きく肯定する、全てを肯定する、全肯定、大肯定する、ここまで行かないと、
真の神さまだけと言っても、まだ認めていない。言葉だけ。中身が伴っていないかもしれない。

どうしたら実感できるか、祈るしかない。ひたすら祈り続けるだけ、半端ではダメ。
真の神さまを与え続ける、それも大きく大きく与え続ける、一瞬一瞬与え続ける、全方向から与え続ける、
本当に隙間なく与え続ける、本当は祈る練習ばっかり。そしたら真の神さまの祈りの凄さが、真祈りの凄さが、
ちょっと感じられてくる。真祈りありがとうございますの凄さがわかって来る。

本当にどこにも真の神さま以外ない。本当に真のプラス以外ない、一大循環の愛の働きしかない。
本当に一大調和のすがただけ。本当の支え合いのすがただけ。全体が完璧な一つになっている。
言葉も真のプラスしかない。全てが本当に無色透明の輝きで一杯のすがた。その中に全部含まれている。
本当に清らかな流れ。神さまの流れは、絶対の中心かららせんを描いて、一瞬に舞い降りて舞い戻る、
この一瞬に全てしてしまう、この働きの中には、汚れがない。汚れが溜まらない。
どんな汚れがあっても関係がない。一瞬にして清らかな流れを与えてくる。全てがそう。
だから全体の舞い降りるすがた全部が、一大循環の相象全部が清らかな流れ。
それを感じ取れるように、本心の自覚を神さまは、大きく大きく与えようとしてくる。
本心の能力を授けてこようとしてくる。

だから神さまの愛を感じ取らないと、恩返しも出来ない。神さまのお手伝いに生きようともしない。
本当の全託まで行かない。神さまが与えてくる、本当に必要なものを与えてくるというのは、
本心の自分にとって必要なもの。本当の自由自在心の本心の自分に対して与えてくる。
本当の真祈りそのもの、全体を全部与え尽そうとしてくる。小さいものちょっとではない。
全てを与えようとしてくる。真の神さまの持っている全てを、与え尽そうとしてくる。
それを一人ひとりに対して平等に。

地球上で色んな宗教の教えがある。神道、古神道だったら、随神(かんながら)の道って説く。
仏教は空の道。老子さんは無為の道。イエスさんは全託の道って説いている。
随神の道、空の道、無為の道、全託の道って言っても、本当にどこまで深く捉えるか。浅い。
真の神さまの本当のすがたを、言葉で表現しようとしたら、本当は不可能に近い。
中身が無限に無限に大きいし、濃い。

だから、本当に真のプラスの言葉をしっかりと使いこなして駆使出来て、
神さまの働きを本当に捉えようとしているか。もう祈り続けるしか本当は無い。
でもみんなまだそこまで行っていない。つまらない言葉を使いすぎている、選びすぎていると思う。
虚の世界だから仕方がない、この世だから仕方がない、現実はこうだから、いろいろ理由をつけるけど、
これは全部真の神さまを否定していること。大否定している、全否定している。
真の神さまなんかないという位、拒絶している。

神さまが存在するのだったら、なぜ戦争があるのとか、病気があるのとか、不幸があるのとか、
そんな言葉を使うようだったら、真の神さまの愛の無限分の一も信じていない。
本当に真の神さまを完全に否定している。大否定し、全否定している。何が(否定)しているのか。
言葉の選び方一つ。どれだけマイナスの言葉を神さまに投げかけているか。本当の言葉の槍を突き立てている。
毒矢を神さまに射ている。マイナス言葉を神さまに一杯与えている。
いくら神さまが愛深いといっても、嬉しくない。本当のプラスの言葉を、褒め言葉を一杯与えてほしい。
マイナスの言葉を、毒矢を一杯射て欲しくない。マイナスの言葉を使ったら、神さまはやっぱり逃げていく。
助けに降りたいけれども降りられない。やっぱり言葉をプラスに変えていかない限り、神さまが大変。
日常生活の中でどれだけマイナスの言葉を気付かないうちに使っているか、やっぱり改める必要がある。

まず神さまがこの世を作ったというのは間違い。大きい間違い。神さまはこんな世界作っていない。
不完全な世界は作っていない。マイナスがある、相対の両極に分かれるようなプラスマイナスに
分かれるような世界は、作っていない。神さまはそういう世界は作っていない。
作っているのは、完璧な光一元のプラス一元の、本当のすがたの世界だけ。
虚の世界があるということは、神さまを罵倒している。戦争がある、病気がある、不幸がある、貧乏がある、
みんなそういう言葉を使うこと自体、真の神さまに対しては無礼千万、無礼億兆、
神さまを悪者にしてしまっている。神さまを信じていると言いながら、それを認めることは
神さまを否定している。神さまは出来そこないって。今真の神さまだけ、プラスだけと言ったとしても、
自分の心・信念がどれだけそれを受けているか、受け入れているか。
表面の言葉だけだったらまだいい、でも心全体で、信念で、この世があるとか、マイナスがあるとか
信じていたら、大きいマイナスの言葉を、投げかけ続けている。

そしたら真祈りを祈るためにはどうしたらいいか。まず神さまにお詫びし続けるしかない。
ごめんなさい。マイナスに見てごめんなさい、マイナスをつかんでごめんなさい。
そして本当に真の神さまだけ、真のプラスだけ、一大循環の愛の相象だけ。
本当に神さまの働きを言葉にして、しっかりと自分の心に納得させないと。
本当の意味で祈り続けないと、言葉が真の神さまに向ける言葉にならない。
真祈り、ありがとうございますという祈り言葉は、真の神さまの愛の働きに対して、
本当に恩返しの心で捧げる言葉。もう、一瞬一瞬、ありがとうございますと祈り続ける。
それも大きい立場から全ての全てに。本当の絶対の中心から、全ての全てに。

一瞬一瞬新たに、全方向から、無限に無限に大きく一杯。真の神さまを本当の意味で与え続ける。
この気持ちになることが真の神さまに波が合う、同調する、一つになれる。
そこに真の神さまが大きく働く。本心の自分が大きく輝く。

(平成27年4月18日のお話①)