真のありがとうございます 

 
 
 

 真祈りも本物と偽物がある。真祈りと言っていても、真の神さまが降り立った時が、本物。
真祈りを祈っているといっても、降り立っていない時が多い。それは偽物。降り立っていないというのは、自分の波が合わない。
本当に自分が全体を支えようとしていなかったら波が合わない。甘かったらダメ。言葉だけではダメ、偽物、力がない。
真の神さまが降り立たないから。降り立ってくれていない。恩返しに生きていない、絶対奉仕に生きていない、全託に生きていない。
自分の思いの我の心、小さい自分を生きている。

絶対奉仕って、なぜ絶対をつけているか。奉仕ではない。自分がするのが奉仕。絶対というのは、自分が消えないとダメ。
自分が完全に消えて、神さまが自分を通して働く、これが絶対奉仕。自分がしているという感覚があるのは、絶対奉仕とは言わない。単なる奉仕。
邪魔しているだけの奉仕。自分が消えて初めて、神さまが自分を通して働く。この時が絶対奉仕になる。
これを徹底して繰り返さない限り、真の神さまが自分を通して働き続けてくれない。真の神さまが自分を通して働く時だけが、マイナスも消え、プラスが増える。
助け続けてもらえる。それが出来ない時は、いつもマイナスを殖やしている、マイナスが殖え続けている。だから油断できない。
一瞬も油断していたら、すぐに元の木阿弥。 奈落の底へ落ちていく。

だから真の神さまが無理を言っているのではない。なぜ本心の自分を忘れるのかって嘆いている。
本心の自分をしっかり生きてくれたらいいだけなのにって。一番楽な幸せな生き方なのに。なぜみんなを支えようとしないって言う。
自分だけが楽なことをしてって、幸せでも何でもない。誰からも支えてもらえない。
自分のことばっかり考えていたら、みんな自分のことばっかり考えている人が集まる。誰一人助け合いをしない。
神さまはそんなお手本を示していない。神さまは一番下からみんなを支える。上へは出ない。名も名乗らない。
下から下から支えて、尻拭いだけをする。ちょっとその真似事をしただけで、気付く。真の神さまの本当の愛の働きがわかる。
そしたら、本心の自分をしっかり生きようとする。生かされているってよくわかるから。神さまに愛されているってよくわかる。
だからみんなを活かそうとする、愛そうとする、本当に支えようとする。本当に支えるのが、人を活かすこと、愛すること。
だから真の神さまを中から与え続けて、本当の芯柱を与えていくって、根の働きを与える。外からの添え木ではない。
中から本当の力を添えていく。 そういう力を一つに合わせると大きい力になっていく。支え合いの本当のすがたが出てくる。

だから我の心は、自分が叩き潰して消さないとダメ。我の心をのさばらせているようではダメ。
我の心を自分が叩き潰して消しきって、初めて真の神さまが降り立ってくれる。そしたら、本心の自分が輝いてくる。幸せな自分に戻る。
どんな力でも添えてもらえる。無限の力が湧き出るように出てくる。本当に、みんなを幸せにする働きが増えてくる。

お祈りでも、祈り言葉を唱えるという時も、どれだけ真剣に唱えられるか。惰性で唱えても力が全然ない。
本当に、真の神さまに降り立ってほしい、降り立ってもらうために唱えるのだったら、もっと命懸けで真剣にならないと。
その目的が定まらないとダメ。地獄に落ちている人を本当にプラスに変えようと思ったら、どれだけの大きいプラスを加えないとダメか。
ありがとうございますを一言加えるだけではダメ。言葉を加えているくらいでは、何の役にも立たない。
本当の真の神さまの無限の無限のプラスをそこへ加えないとダメ。どれだけ真剣に唱えたら、真の神さまが前へ出てきて、助けてくれるのか。

自分がするのは、祈っている。自分が何かしているって、こんな感覚では我の心が一杯。
真の神さまが出てくるのを邪魔しているだけ、追い返しているだけ。出て来てほしいと言っているのと違う。反対になっている。神さまを追い帰している。
本当に真の神さまに前に出て、みんなを助けてほしいって願ったら、自分が完全に消えていく。自分を出さない、絶対。自分のことなんか一切言わない。
自分を完全に消しきって、本当に死に切って生きると思う。本当に自分を死に切るくらいの気持ちになったら、真の神さまが出て来てくれる。
大きい力を振るってくれる。本当に自分の借金も含めて、縁者も救い上げようとしてくれる。
それをしっかり繰り返し繰り返し、実践、実行しないと、いくら口で言ったってダメ。波が違う。

言葉と心と行い、この3つが本当の1つにならないとダメなんだけど、今の一瞬、言葉だけ変えたからって、まず心が変わってない。
過去生からの積み重ねた行いのすがたも変わってない。言葉だけでは足りない。本当に心も全部、真の神さまに波が合う状態にしていかないとダメ。
本当に支え合う心、本当に支えようとする心を起こさないとダメ。本当に支え合うために生きるって、支えるためだけに生きるって決めないとダメ。
その心だけをしっかり生きようとしないと。そしたら、言葉と心だけでいいのかって、違う。実際の行い、行動の中でそれを実行しないと。
ここでも支え合いがなかったら、波が違う。行いでストップをかける。行動、行いの中で本当に支えようとしないとダメ。そしたら、波が合ってくる。
そしたら、真の神さまが自分を通り抜けて、祈ってくれて、心も本心の心に戻してくれて、行いも本当の支える働きとして、愛の働きに変えてくる。
その時に初めて、一人一人のマイナス、借金を消してもらえて、幸せにどんどんなっていく。

だから、お祈りは、心に雑念も無しに、揺れ動くこと無しに祈れたら幸せかって、本当はそうではない。小さい。それは自分のこと。
自分が楽な方を選んでいるかもしれない。本当は、反対。地獄絵図を背負ったら、マイナスの思いで一杯になるはず。
でも、マイナスの思い、無限のマイナスの思いを一杯背負いながらでも、これを消して欲しいと神さまにすがる。これが本物。
自分の心が安らいだから喜んでいる、これは違う。逆にマイナスの思いを一杯背負ってでも、神さまにすがろうとしないとダメ。
七難八苦の思いを与えたまえという位の気持ち。その気持ちで祈らないと、本当の真剣さがない。神さまを呼んで、消してもらおうとしていない。
七難八苦の思いを自分の中に持ってこないとダメ。自分の所にもってきて、神さまを呼んで消してもらう。
遠い所に置いておいて、「消して」と言っても、どこへ行くの?神さまは、自分の中に降りてもくれない。
遠いところに行ってくれるかって、行ってもくれない。まず、自分がマイナスを責任もって引き受けて、
それで、神さまを真剣に呼んだら、自分の中に入って来てくれる。本当に支えようとしているからって。その支えのために、神さまが降り立つ。

だから、自分が責任もって背負った分、神さまが肩代わりをしに降りてくる。その時お祈りが本物になる。
背負ったマイナスの思いは、さっと消える。本心の自覚は大きく与えてもらえる。そしたら、支える心がどんどん大きくなってくる。支える心の自分になる。
マイナスで揺れ動くのではない。どれだけ大きいマイナスの思いがあっても、それを支えようとする。
それを自ら背負って、振り替えて、消そうとする。逃げるのではない。自分が、沢山のマイナスの思いを背負おうとする。
それだけ強い本心の自分になる。その心は絶対揺れ動くことはない。不動心。愛の心そのものになる。これでないと偽物。
表面の心だけが楽というのは偽物。どれだけマイナスを背負っても、心が揺れ動かないのが本物。これが本当のお祈りの心、本心の心。

だから、祈りの練習、練習と言うけど、本当は、祈りの練習は、もう命がけ。最後の総仕上げだから、普段の生活は、まだ練習かもしれない。
でも、祈りの練習なんて言っていたら笑われる。祈りは、最後の総仕上げの命がけの真剣勝負。それでないと、祈りは深まらない。
だから、どれだけ自分を神さまに捧げられるか。自分のしたいことや好きなことをやっているようだったらダメ。自分を捧げていない、全然。
自分の思い通りにしたいだけ。思いの奴隷、我の奴隷。この大事な時に、我を出しているようだったら、神さまを呼んでもいないし、すがってもいない。
そういう人は、甘すぎて真祈りを祈る資格もないし、護摩木を書く資格もない。形だけ真似しても、真の神さまは降り立てない。
だから、真の神さまが降り立てるようにお手伝いしないと、本当のお手伝いにならない。偽物になる。

本当にみんなを幸せにしたかったら、自分の無限のマイナス、借金を消してもらいたかったら、神さまのお手伝いに生きるしか方法はない。
神さまのお手伝いに生きたら、神さまは消してくれる。肩代わりして消してくれる。でも、人が、人類が何をしたってダメ。
マイナスを増やすだけ、借金を増やすだけ。絶対に減ることも消えることもない。

だから、一人でも本当に神さまのお手伝いが出来るようになったら、大きい力。だから、本物が必要。
万人の祈りよりも、本物の一人の祈りの方が、遥かに力が出てくる。単なる祈りを1万人がするよりも、真祈りを一人祈る方が遥かに力が降りる。
これは、真の神さまが働けるから、力を添えられるから。偽物は役に立たない。本当に本物の自分に早く戻らないと。
真の神さまが降り立ったら、どんな一大奇蹟でも起こる。何でも起こる。奇蹟が起こる。神さまの力は半端ではない。
だから、どれだけ神さまに降り立ってもらえるか。降り立ってもらえる生き方をとったら、本心の自分に戻る。本当の不動心の自分に戻っていける。

全託も本物と偽物がある。本当の全託も奥深い。これも小さい全託から大きい全託へ、どんどん大きい全託に向かわないとダメ。
小さい事なんか考えていたらダメ。大きい全託ほど本心の自分に戻る。
総責任者って、色んな問題の総責任者って言うけど、総責任者も本当に大きい総責任者がいる。これも普段の全てにおいて練習しないと忘れる。
常に総責任者として生きるって、本当に下から全体を支えようとして生きるって、本当に全てを神さまに任せきるんだ、全託するんだって、
いつも練習しないと、すぐに忘れてしまう。 本当の全託になるまで、何回も全託の誓いを破ってしまうと思う。何万回、何億回破るかもわからない。
でも常に、新たに全託し直さないと。マイナスの一言を使ったり、心に思うようだったら、全託を破っている。
真の神さまだけ、真のプラスだけって言う限りは、一切マイナスを認めたらダメ。

だから、常に、地獄絵図が神さまの本当の愛のすがたって見えないと。これを徹底しておかないと。
神さまが自分のマイナスを消して下さっているすがたが地獄絵図。それだけ自分が無限のマイナスを積み重ねている。人のものではない。
自分の無限のマイナス。高利の利息付の借金。これに気付かなかったら、神さまの愛を感じ取れない。半端ではダメ。
そしたら、真の神さまに本当に一つに繋がった生き方が取れる。一切マイナスを認めない生き方になる。
本当に真の神さまだけ、本当のプラスだけってわかる。これが中途半端だったら、わからない。真の神さまを小さく落として見ているから。

自分の無限のマイナスを誰かが背負ってくれるかって、背負うなんて出来ない。虚の世界のどれだけ立派な神仏でも出来ない。
一人の人の無限のマイナスを背負うことすら、できない。絶対不可能。真の神さま以外出来ない。
そしたら、どんなマイナスも自分のマイナスを真の神さまが背負ってくれるすがた。それに気付いたら、真の神さまだけって、本当になる。
本当に11の関係で、いつも真の神さまを相手にできるようになる。形が変化したからではない。そのままでできる。
マイナスのすがたがそのままで、真の神さまだけって本当になる。マイナスが消えてプラスになったから、真の神さまだけ、そうではない。
そのままで、真の神さまだけになる。全てがそう。そこまで本当に徹底できるかどうか。真の神さまを本当に認めるかどうか。
そのために、自分のもっている借金・マイナスが、無限に無限に大きいって気付かないとダメ。そしたら、わかる。1番謙虚な自分になること。
無限に無限に謙虚な立場に立ったら、すぐにわかる。

 
(平成27年4月11日のお話B)