真のありがとうございます 

 
 

 全託も本物と偽物がある。みんな全託って言うけど、本物の全託は厳しい。みんな言葉だけの全託が多い。みんな偽物。
本当にこの命を神さまに捧げますって全託できるか。みんな口先だけ、偽物。していない。
全託にも、本物と偽物があるけど、本物でも小さい全託と、大きい全託がある。自分一人の全託なんて小さい。縁者の分を含めても小さい。
本当の全託は、地球なら地球全体を救って欲しいって言う全託。宇宙を救って欲しい、虚の世界全体を救って欲しい、大きい全託。
この全託もピンからキリまで。本物であってもそう。真の神さまへの全託って言うのは、本当に救って欲しいからする。
自分の力で、人間の力で、人類の力で何もできないから、真の神さまの力で掬い取って欲しいから、全てを神さまにお任せする。

そしたら、神さまに本当に全託するって言えば、絶対自分の思いや願いは出せない。こうして欲しい、ああして欲しいなんて注文は絶対出せない。
一番最短コースで救う方法は、神さまにしかわからない。本当に全部神さまに任せるしかない。
どの借金をいつどのように消すか、何が出てくるかわからない。マイナスを出さずに消して何て言えない。
同じ消すのでも、必ずどれだけのものを消すって確認をとるために、万分の一か億分の一か、ちょっと出してくる。
それも出さずに消して欲しいなんて、甘すぎる。そんなことをいう方が間違っている。

一つのマイナスの借金でも、消してもらうのは大変。万倍億倍無限倍のものを、簡単に消してって消してもらえるのと違う。
自分に覚悟が無かったら受け取ることも出来ない。どれだけ命懸けで真剣に神さまに全託できるか。
それが出来たら、神さまも肩代わりできる。神さまの愛の働きがどれだけ真剣か。全部自分が引き受けてでも、自分の全てを投げうって助けようとするから。

だから、神さまが本当の力を奮うために、全託を確かめてくる。宇宙船護摩木を書くのでも、登録を確かめるのはそういう意味もある。
本当に神さまのお手伝いをさせてほしい、させていただきますって、みんなを救ってもらうために、まず自分、自分を救ってもらうために、
自分の無限の借金を消してもらうために、絶対必要。護摩木を書いたから勝手にみんな救われていく、そんな甘いことと違う。
一枚の護摩木の背後に、どれだけ大勢の人がマイナスを背負って大変な目をしているか。それを一人でも救ってもらうって、どれだけ大変か。
1時間祈って書いたからって何の力がある。一人の人の地獄に落ちた人をどれだけ救い上げられる。何も出来ない。

本当に真の神さまが降り立てるかどうか。本当に真剣な愛の響きに、波を合わせられるかどうか。波が合わなかったら現実化しない。
テレビの波と同じ。チャンネルごとに波が違う。ピタッと合わないとその番組が現実化して出てこない。真の神さまの働きが、現実化して出てくる。
それだけ真剣な波に合わさないとダメ。本当にみんなの幸せのために、支える働きをさせていただきますって、神さまの働きに合わせていかないと。

真の神さまが全ての尻ぬぐいをする。マイナスを全部背負ってくれる。全部消してくれるのも、どれだけ大変か。プラスを与えるだけではない。
自分の持っているプラスを与えるだけなら楽。振り替えって言うのは、マイナスを全部背負って、身代りになって全部消さないといけない。
地獄の苦しみを自ら背負って味わわないといけない。大金持ちが借金を肩代わりする、そんなのと違う。本当のマイナスを背負って消さないといけない。

そしたら自分もその真似事くらいは覚悟を決めてするつもりでないと、波も合わせられない。楽な道を選んでいるようだったらダメ。
一番大事なしんどい仕事を、喜んで喜んでするくらいの気持ちでないと、神さまに波が合わない。
それで常に下座について、みんなの一番嫌がる仕事を、喜んで喜んで、させてもらわないと、神さまの御心と波が合わない。そこが一番必要な大事なところ。

どれだけ大きいマイナスの中へでも、自分が入って行かないと、同じように神さまが地獄へ入って来られない。
自分の助けなんか求めているようだったらダメ。反対。借金する時は、みんな喜んで借金している。助けてもらってありがとうなんて言って。
取り立てに来た時に、鬼のように見て文句を言う。借金は助けてもらっているだけ。助けを受けているだけだったらダメ。
自分が助ける側に回らないとダメ。みんなを幸せにする側に、与え続ける側にならないとダメ。
自分が普段の生活の中でどれだけみんなを助けているか、みんなを幸せにし続けているか、どれだけみんなを支えているか。
支えてもらって喜んでいたらダメ。

本当に一人の人でも自分が支えているかって考えたらわかる。まだ支えていない。みんなに助けてもらっているだけ。
助けてもらいながら何の恩返しもしていない。これではまだ神さまに波が合わない。いくら口で真の神さまだけと言ったって偽物。
お祈りも偽物、全託も偽物。本当に神さまだけって言っていない。真の神さまだけって言う限りは、自分が神さまの側に立たないとダメ。
本当にみんなを支え続けないと。一番大変な仕事を自分が喜んでしないとダメ。それも自分を捨て切って、死に切って、消しきって、神さまが働けるようにしないと。
自分があったら、神さまが通り抜けるのは難しい。我があるから邪魔する。だから自分を捨て切って、死に切って、消しきってっていうところまで行かないと。
本当に透明な心になって行かないと、神さまが自分を通り抜けて働けない。みんなを本当に救いたかったら、我のない自分にならないと出来ない。

本当に全託できる心になったら、真の神さまだけになる。真の神さまだけってなったら、本当のプラスだけ。
もしマイナスをちょっとでも認めている自分だったらまだ違う。真の神さまだけって言葉だけ。マイナスを認めているからダメ。
自分がちょっとしんどいからなんて言っているようだったらバカ。マイナスを認めているから、真の神さまはそこにいない。
自分は病気だからなんて言っていたら大馬鹿もの。本当に真の神さまだけだったらそこに完全健康が、無限健康が一杯。
どこにもマイナスは無い筈。マイナスはここに在るなんて言っているようだったら、真の神さまをそっちのけにして、否定して、遠くに追いやっている。
マイナスを大きく拡大して、マイナスで一杯と言っている。

これはやっぱり日常生活の中で試されている。本当に真の神さまを呼んでいるか、すがっているか、本当に真剣か、本気かって。
本当に自分の他に真の神さまだけなのかって問いかけられている。そこまで真の神さまを認めないとダメ。
真の神さまは、絶対の愛なんだって言葉だけではダメ、本当に絶対の愛なんだって認めないとダメ。そしたらどこにもマイナスはない。

自分の心ひとつ。本心の心か、我の思いの心か、どっちか。本心の心だったら、真の神さまだけになる、真のプラスだけになる。
我の思いの心は、やっぱりマイナスを認める。マイナスに見てしまう、これは我が一杯。だからどちらの心を選んで生きるか。
一瞬一瞬の真剣勝負。本心をしっかりと選んで生きたら、その時はプラスへの道を歩む。でも我の心に負けたらマイナスへの道を歩んでいる。
真の神さまだけって本当に真剣に本心の自分を生きたら、全てが真の神さまのすがた。

プラスはもちろん真の神さまの支えや助け、愛のすがただけど、マイナスも全部そう。
真の神さまが、自分のマイナスを全部背負って消しているすがた。地獄絵図も全部そう。
無限のマイナス、全部神さまが背負って消してくれるすがたが地獄絵図。自分の代わりに身代りに背負ってくれている。どこにもマイナスは無い。
本心側に本当に立てていたら、真の神さまだけって本当にわかったら。どこにもマイナスは一切ない。全部プラスばっかり。
これは本心側に立った時はそう。

我の心に戻ったらすぐにマイナス一杯に見えてくる。あの人はここが悪いあそこが悪い、自分の都合のいいように見て、マイナス一杯に見てしまう。
これは、自分のマイナスの思いの心。だからマイナスに見ている時は、どんどんマイナスを殖やしている、積み重ねている。減ることは一切ない。
どんどんどんどん、マイナスを積み重ねて増やしている。真の神さまだけ、本当に真の神さまの愛の働きだけと認めた時だけが、マイナスが消えていっている。
本当に真の神さまと一対一の関係に戻らない限り、マイナスは消えない、プラスは増えない。普通の状態ではダメ。
真の神さまが降り立って働かない限り、どこを見てもマイナスを積み重ねている。プラスを見ても、プラスの方もみんな借金を積み重ねている。
どんどんどんどん、マイナスの借金を増やしているだけ。

これに本当に気付かなかったら、神さまにすがろうとしない。本当の勉強がいる。同じお祈りが大事、必要と言っても、何のために必要か。
本当のマイナスを消す、本当の借金を消す、中途半端では何もできない、力がない。真の神さまの本当の働きが必要。だから真祈りでないとダメ。
単なるお祈りではダメ。全部消すわけにはいかない。祈りと真祈りの違い。
 

 
(平成27年4月11日のお話A)