真のありがとうございます 

 
 

 信仰の一番の極意。真の神さまと自分を一対一の関係に保つこと。真の神さましかないと実感できたらいい。
そしたら心が絶対揺れ動くことはない。どうしたらそうなるか。真の神さまの存在を、どこまでも、大きく大きくしていかないとダメ。
真の神さまが大きくなったら他が全部消える。虚の世界の全部が消えてしまう。マイナスが一切消えてしまう。
どこまで真の神さまを大きくしていけるか。言葉だけではわからない。本当に実感できないと。
真の神さまが全てなんだ、真の神さまの他に何もないって実感していかないとダメ。

そのためにどういう生き方が大事か。真の神さまの働きって、言葉では本当は表現できないくらい偉大な働き。
それを本当にもうイヤって言うほど、心の底まで叩き込むくらいの感じで感じ取れないと、そうしないと真の神さま以外に何か認めてしまう。
本当に真の神さまの愛の働きだけが全てなんだって感じ取れないと、心の向きがあちこち向いてしまう。そのためには、一回謙虚な心に戻らないと。

まず虚の世界に転落して、残像をつかみ続けて、マイナスの言葉を一杯使って、地獄のどん底に落ちて、
そこからどれだけ大きい助けを受け続けてきたか、これに気付かないと
それも助けてもらうだけでは気づけない。助ける側に立たないとわからない。
昔からことわざで、親の心子知らずって言う。子供が子供の間は親の苦労も何もわからない。親の愛なんてわからない。
自分の思い通りにならなかったら、腹を立てて文句を言う。でも自分が親になって子育てするようになったらよくわかる。
ああ親の心ってこうなんだ、どれだけ苦労して子育ててくれたのか、ちょっとは気付く。

そしたら真の神さまの愛の働きがどれだけ凄いか。地獄に落ちた自分を引っ張り上げるのに、どれだけ大きい働きをしてきてくれているか。
これも、自分が求める心では気づかない。無限分の一も気付かない。受けるだけではダメ。自分のものを与えてもダメ。
やっぱり、真の神さまの本当の支え方、それを真似しないとわからない。それで支える生き方を練習する。そうすると、ちょっと感じ始める。

支える生き方ってどういう生き方か。まず木が枝を張って茂っている。その木の枝と同じように、根は張られている。
例えばこっちに枝が張っていたら、根は必ず同じ方向に同じように張っている。そうしないと倒れるから。
こっちに枝を張っているのに、逆にきていたらひっくり返る。必ず枝の下に根が来ている。枝が大きかったら、根も太い根がぐっと張っている。
これは支えるため。根の働きって、全体を支える大きい働き。大津波がきても、波を防ぐだけのしっかり根の張った木がずっとあったら、津波を防げる。
防波林になる。津波の影響が軽く済む。その代わり大地にしっかり根を張っていないとダメ。浮草のようだったら全部流される。

どこに根を張るかってやっぱり大事。真の神さまに自分の根を下ろさないとダメ。どこへ下ろしても、根さえ下ろしたらいいのではない。
ごみの山に根を下ろしたってダメ。全部流されてしまう。本当の不動の大地に下ろさないと。根をしっかりと真の神さまの盤石の大地に下ろさないと、
ちょっとした業想念の津波が来ただけで流される。真の神さまの大地に根を下ろすって言ったら、
真の神さまだけをしっかり相手にしないと。自分の全てをそこに与え尽さないと根は下ろせない。
どこで根を下ろしても大丈夫って、そうではない。また根が無かったら全部枯れてしまう。切り花が一時的に栄えているように見えても、すぐ枯れて消えてしまう。

だから根が一番大事。根をしっかりと張る。真の神さまの本当の不動の大地へしっかりと根を張ること。
そしたら自分も支えてもらえる。みんなを支えることも出来る。津波に流されそうになったものも止めることが出来る。
本当に根をしっかり張ったもの同士が手を握ったら、どんな大津波でも防げる。だから真の神さまのお手伝いというのは、根をしっかり張らないとお手伝いにならない。

そしたら根を張るために必要なことは何か。まず恩返しの心を起こせないとダメ。そして絶対奉仕の心を生きないとダメ。
本当の全託が出来ないと。まず恩返しの心を起こすために、自分が無限のマイナスを積み重ねてしまった、無限の借金を積み重ねている、
無限の思いが一杯なんだ、これに気付かないと。表面のすがただけを見ていても気付かない。心の奥底に一杯溜めこんでいる。
それがいつ浮かび出ても、地獄絵図になる。

借金というのは、借金している時は楽。取り立てがないから。ところが高利の借金を積み重ねてしまう。期限が来て取り立てる時が厳しい。
その時に又お金が無かったら、高利のもう一つ高い利息の借金を新たにする。そしたら、また楽になる。でも借金はどんどん殖えている。
その借金をいつ返したか。多分、みんな返していない。高利の借金に切り替えていっただけ。
どれだけの過去世の生き方の中で大きい借金、借りを作っているか。無限の思いを溜めているか、まずこれに気付かないと、神さまにすがろうともしない。
自分がどれだけ働いたって、高利の借金の利息の一部すら、返すことは絶対不可能。そこまで働くって大変。まず働けない。
そんな働きをして、本当の徳を積んで貯金を殖やしていけるか、そんなこと出来ない。そしたらずっと増え続ける。

この世の借金でも何億円ってしたら一生かかって返さないといけない。過去世の借金は無限。それも高利の借金。そしたら自分で返せるか。
自分の縁者に頼って助けてって言って、返してもらえるか。絶対不可能。その時にどうするか。
これに気付かないと、真の神さまの本当の助けを受けようとしない。甘いとダメ。甘いと借金を踏み倒そうとするだけ。
踏み倒すことは絶対不可能、出来ない。必ず、厳しい取り立てが来る。それが無限地獄。
殺されてまた蘇って殺されて、そんな大変なことを永遠に繰り返す。借金取りが来た時が七難八苦で一杯になる。
来ない時は、高利の借金に切り替えた時だけ。借金を増やしている。それに気付かなかったら、本当の神さまの愛の助けがわからない。

今この世に生まれて、色々と勉強させてもらっている。これがどれだけ大奇蹟か、一大奇蹟か。どれだけの大きい助けを受け続けたその結果か。
ちょっとでも気付いたら、真の神さまにすがる以外、借金を消してもらう方法は無い。虚の世界の神仏の力では無理。
ちょっと助けては、また助けた一方で借金が増えているから。一人の人を救うだけでも大変、不可能に近い。ましてや大勢の人を掬い取るなんてできない。
マイナスが殖える一方、借金が増える一方。借金は貯金のあるお金のある人から借りたのではない、ない人から借りているから。
貸した人は、もう一つ他から借りている。お互いが借金ばかりしあっている。

だからどこまでも利息が高くなって、借金でがんじがらめに縛られている。プラスはどこにもない。
本当にマイナスの鎖を断ち切ってくれるのは、真の神さまの本当に大きい愛の働きだけ。それに気付いたら、真の神さまへの恩返しに生きようとする。
気付かなかったら出来ない。生き方が甘いから、勝手に借金が消えるように錯覚している。そんなことはあり得ない。
因縁因果の法則は厳然として働くから、絶対逃げられない。

いつ気付いて、真の神さまにすがれるか。中途半端では無理。本当にどん底に落ちて、苦労に苦労を重ねて、本当に実感するまで行かないと。
そこまで苦労にしっかりと耐えないとダメ。本当に自分が借金返しをしようと思ったら、どれだけ大変か。
本当に命懸けで働いたって不可能なんだから、ましてや縁者を救うとなったら、縁者の一人の借金を肩代わりできるか、出来ない。
同じ一人の人を救うといったって、自分の力で救うのと違う。どれだけ大変か。無限の借金を肩代わりして消さないといけない。
どれだけ大変かって、ちょっと考えたらわかるはずなんだけど、甘いと気付かない。

神さまの側に救う側にちょっと立って考えてみたらわかる。どれだけ大変かって。そしたら真剣になる。放っておいたら必ず地獄絵図になる。
地獄絵図にならないように、一時的にちょっと借金を棚上げにして、この世に生まれさせてもらって、お祈りの勉強をさせてもらっている。
本当に神さまにすがれるように、恩返しが出来るように、絶対奉仕に生きられるように、全託できるようにって、チャンスを与えてもらった。
でもそのチャンスを生かせなかったら、また元の木阿弥。無限の借金を背負ったままで、地獄絵図になってしまう。

だから真祈りを祈って、神さまのお手伝いをして、簡単に全部自分のマイナスを消してもらえて、自分の縁者を救ってもらってって、そんな甘いものと違う。
本気にならないとダメ。本気になって、神さまに恩返ししようとしないと、本当の神さまの絶対奉仕に生きようとしないと、本当の全託に生きようとしないとダメ。

 
(平成27年4月11日のお話@)