真のありがとうございます 

 
 

 常に本物の自分を生きようとする。そうしたら神さまの支えが必ず出てくる。神さまのバックアップを受けない限り、本物にはなれない。
神さまが、新たに新たに支えに出てきたのが、真の自分、本心の自分。これが本物。過去のつかんだ自分は偽物。
これが本心の自分とつかんだのは偽物。過去の残像になる。思いの奴隷になっていく。そんなのは力が何もない。
常に新たな自分、真の神さまが支えに出て来て、新たな自分として出てきたら、力がある。その自分は、過去を消せる、思いを消せる、無限力を発揮できる。
一瞬一瞬の自分の選び方一つ。どっちを選ぶか。本心をしっかり選んで生きなかったら、自由は無くなる。

地獄に落ちた人を可哀想にと思うかもしれないけど、本当は違う。地獄に落ちてでも、無限力を発揮する場を与えてもらっている。
怠けて何もしない人を、どうしたら動かせる?自分は病気だから、怪我をしているから動けないとか言って、何もしない人をどうしたら動かせる?
みんな言葉の縛りで、自分で勝手に自己限定して、自分を縛って動かないって頑張っているだけの話。どうしたら動かせるか。
優しい愛の女神さまが、閻魔大王のような怖い顔をして、鬼のすがたで、鉄棒で叩きまわる。叩かれて痛いから、動く。逃げ回る。動ける、逃げ回れる。
針の山に追い立てる。針の山へ行ったら痛いから、這い上がるようにしてでも山に登っていく。じっとしていない。痛いからいくらでも動く。じっとしていられない。
そしたら無限力が出てくる。どんな状態でも、どれだけ病気で動けない、怪我で動けない、絶対動けないと頑張っていてもいけない。
どんな状態でも本心が動き出す。そのために地獄がある。八大地獄って用意されているのがそう。どこまでも本心を引っ張り出そうとしてくれる。

怠けていて幸せになれる道理はない。本心はそう。本心は何もしなかったら幸せではない。無限の能力を発揮して、みんなを幸せにして幸せ。
みんなを幸せにする働きを大きくしなければ、幸せには絶対なれない。だから支えに回らないとダメ。
本当のみんなを幸せにする生き方は、支えに生きること。怠けて幸せなんてありえない。本当に全力を振り絞って、みんなを一人でも支えに回らないとダメ。
そしたら必ず本心が輝き出てくる。幸せな自分に戻っていける。これが一瞬一瞬、真剣勝負。

言葉っていうのは、一瞬一瞬、真剣に選ばなかったら本当のプラスの言葉は選べない。言葉の力って本当は一番大きい。
言葉って剣と言う。言葉の使い方で、生かすことも殺すことも出来る。過去を切り捨てることも、新しいことを生み出すことも出来る。
本当の剣を自由自在に使いこなせないと。過去を消すのでも、言葉の力。新たに生み出すのでも言葉の力。どんなプラスでも言葉で生み出せる。
どんなマイナスでも言葉で消せる。言葉の力を自由自在に駆使できる自分に早くならないと。

それでも言葉だけではダメ。本当に現実化するまで、言葉を本当に使い切っていないと、まだ偽物と言われる。
言葉だけは唱えているけど、現実化しないというのは、観念の遊戯。何の値打もないじゃないかって馬鹿にされる。
本当に祈ったら、すぐに現実化しないとダメ。雨よ降れ、振らないとダメ。雨よやめ、すぐにやまないとダメ。海よ開け、海が開かないとダメ。
山よ動け、と言ったら動かないとダメ。本当に言葉の力通りにならないと嘘。

自分がどういう言葉を選んで使っているか。一瞬一瞬、本当に必要な言葉を使っているか。必要でない無駄な言葉を一杯使っている。
くだらない、つまらないマイナスの言葉を一杯使いすぎている。全部言葉通りになっている。本心の自分を忘れるような言葉を一杯使いすぎている。
本心から離れたらどんどん幸せから遠ざかる。最後に七難八苦で一杯になる。地獄絵図。でも地獄絵図はまだいい。
仲間がまだいる。孤独ではない。一人ぼっちではない。地獄に大勢の地獄の亡者がいて、仲間がいるからまだ幸せ。一緒に本心開発している仲間。

これがただ一人になった時、本心の自分の意識でも、ただ意識だけのある無の空間に置かれたときが、一番孤独を味わう。
誰一人自分の味方は無いし、自分を思ってくれるものもいない、宇宙空間に自分の意識だけがただポツンとある。
どれだけ寂しいか。何一つ愛を感じ取れない。必ずそこまで行く。支える生き方を忘れたら、とことん落ちていったらそこまで行ってしまう。
そしたら誰に助けてもらうのか。そこまで行った人を助けるのは、どれだけ大変か。まだ地獄の方が助けやすい。
閻魔大王になって怖い顔で叩きに回ればいい。優しい女神さまだけど、怖い顔に見られるんだけど、それでもまだ助けに行ける。

ところが何もない無の空間に入って意識だけの人をどうして助けるか。ものすごく大変。でもそういう人をも放っておけない。
どうして助けるか。みんなの勉強材料に置いておく。どうして自分が救ったらいいのか。一人でも苦しんでいたら、自分は幸せになれない。
みんなが本心の自分に戻って、本当に自由な心に戻って、平等を感じ取るまで、愛の一体感を感じ取るまでに戻してこそ、自分も幸せになる。
一人でもそこから外れていたら、自分は本当の幸せとは言えない。

だから、一人残らず、本当の自由と平等を極められるところまで、みんなを連れて行かないとダメ。
そしたら、自分は何をしたらいいか?遊んでいられない。つまらないことをしていたらバカ。
本当に、必要な大事なことを命懸けで実行していかない限り、まず自分が幸せになれない。神さまの支えをもらえない。
本当に必要なことをしたら、神さまの支えが出てくる。神さまに支えてもらえなかったら、本心の喜びなんか出てこない。

だから、命懸けで祈らないとダメ。本当に、真の神さまのお手伝いに生きないとダメ。自分が働いで生きているだけなんて、何の値打ちもない。
何もお手伝いしていなかったら、そんなのはバカ。本当に祈って祈って、祈りぬいて、真の神さまのお手伝いに生きて生きて、生き抜いてって、
本当にみんなを支えて支えて、幸せを与えていかない限り、幸せになれない。いくら働いて、お金を得て、贅沢をして、自分が満足したって、
幸せの内に入らない。そんな生き方は、思いの我の最低の生き方。本心の自分を生きるのとそんなのとは違う。

本心の自分は、必ず、支えに生きないとダメ。支えに生きる。そしたら、必ず無条件の喜び、幸せが湧き上がる。いつも神さまと一緒だから。
神さまのバックアップが常にあるから。いつも幸せ一杯になる。喜び一杯になる。大変なことをするほど喜べる。しんどい仕事をするほど喜べる。
できないなんて嘘。限界を破って、何でも本当は出来る。本当の無限力が必ず出てくる。まず、肉体の自分ですら、まだ限界を破れていない。
大きい力をまだ残している。魂の力を発揮したら、もっと出る。本心の力は、もっと出る。
さらに、守護神さん守護霊さんの力が降りたら、降り立ってくれたら、もっと力も入ってくる。いくらでも応援はしてくれる。
大勢の救済の神さまが一杯いる。大勢が入ったら、その数だけの力が出てくる。真の神さまが降り立ったら、どんな力でも発揮してくれる。

自分が本当に責任者になるかどうか。本当に責任者になって、力を発揮しようとするかどうか。そしたら、中からも外からも、大きい支えが出てくる。
本当に支え合いの愛の一体感が湧くように出てくる。それが一番の幸せになる。支え合いにならなかったら、幸せなんかどこにも無い。
本当に支え合っているというのが、愛の一体。みんなが本当に支えてくれているというのを実感できる自分になるには、本当に自分が支えに回らないとダメ。
自分が支えに回らなかったら、誰も支えてくれない。一人も支えにこない。自分勝手なことをしていたら、誰も助けてくれない。ほったらかしにされる。

まず、自分が一番下に立って、みんなを押し上げるように支えないとダメ。必ず、支えてくれる。
過去世の色んな借金もあるかもしれない。借金返しはまだ、ちょっとは残るかもしれないけど、まず、神さまが支えにくる。大事なところは必ず。
そのうちに、大きく全体から、支えに来る人が一杯増えてくる。最初は、少なくてもいい。神さまが、大事なところで支えてくれるだけでいい。

 

 
(平成27年3月28日のお話B)