真のありがとうございます 

 
 

 謙虚に謙虚にならないとダメ。まず神さまの支えがどれだけ凄いか、これに気付くためにも、自分が支える練習をしていかないとわからない。
木や花でもそう。根っこが無かったら枯れてしまう。根っこってどういう働きか。根が広がって、張り巡らされたところを見ていたら、腐ったもので一杯、汚い所。
肥料ってみんな腐ったもの。一番汚いところへ、自分を置いて必要なものを吸収して、養分を与える。根っこはきれいなところへは出ていない。
ある意味では、人間の社会で言ったら、人の尻拭いばっかりする。人が悪い事をしたり、失敗したりした尻拭いをする。
人の出来ないことは、全部自分が引っ被ってする。足りないところを全部補わないとダメ。一番損する大変な役目。
これをしないと神さまのバックアップは無い。神さまの本当の支え、バックアップは、支えに生きた人しか波が合わないから、出てこられない。

これが大事。支える、支え合う生き方。支える生き方を実行したら、必ず支えてくれる人が一杯出てくる。それで「支え合う」になる。
一番楽な生き方が取れる。その前に自分が支えに回らないとダメ。一番しんどい仕事を、率先して喜んで、して回らないとダメ。楽な方に逃げたらダメ。
みんなも同じようにされたら、誰も助けてくれない、誰も支えてくれない。自分が実行した通りに、周りの人が助けに出てくる、同じ姿で。
神さまが全体を通して必ず出てくる。

だから日常生活の中でどんなことをする場合でも、自分が総責任者だったら、自分が一番下から全体を支えないとダメ。
そこに神さまが必ず出てくる。中から力を添えてくる。周りから支えに出てくる。必ず真の神さまは中から支えてくれる。
全体から周りから支え合いのすがたで必ず出てくる。これで幸せな本心に戻る。お祈りを本当に深める唯一無二の方法。
支え合いに生きないとお祈りは深まらない。苦しいから、ある意味厳しい。苦しいからって逃げるのは思いの心。本心は反対。
本心は愛の心だから、みんなの身代わりに、苦しみを味わってでも、他の人を幸せに出来たら喜べる。

悟りを求めて生きるのでも、自分の悟りを求めて生きる人は、絶対に悟れない。いくら悟りを求めても永遠に不可能。逆。
他を先に彼岸に渡そうとする、みんなを先に悟らせようとする人が悟る。阿弥陀様も同じ。一切衆生が悟りを開かなかったら、救われなかったら、
自分は悟らないと宣言している、誓願を立てている。だから先にみんなを救う、みんなを悟らせる、悟りの彼岸に渡すんだ、このためだけに生きた。
だから阿弥陀様は悟れた。みんなを本当に支えに回った。支えに回ったから、真の神さまの助けが降りてきて、その支えの力で、本心を大きく輝かせてもらう。
悟った自分に戻してくれる。本当の一番奥にある自由自在心に戻らないと、本当の自由もないし、本当の平等も愛の一体感も味わえない。

一瞬一瞬、自分が選んで生きないと、本心をしっかり生きて、一瞬一瞬、支えにしっかり生きないと、それを忘れたらもう負けている。
業力に振り回された生き方。そしたら地獄にまっしぐらに落ちていく。

本心の自分はじっとしていたらダメ。怠けたらダメ。惰性に流れたら負けている。本心の自分ほど、無限力を発揮していかないとダメ。
それでないと神さまの与えてくる、すべて同じものは何もないという、この違いが分からない。一瞬として同じものはとどまっていない。
一瞬一瞬、新たに置き換わって来る。必ず別なものに変化して、現れてくる。その変化についていく能力が備わらない。
惰性に流れていたら、じっと過去をつかんでいたら、違いが判らなくなっていく。この違いをしっかりと見抜くのが、本心の本当の能力。
本当に深い洞察力がいる、本当に深い推理力もいる。本当に全体を大きく捉える達観力もいる。
ありとあらゆる能力を兼ね備えた自分でないと、神さまの与えてくるものに気付けない。

この世で何かをもらって喜んでいるようではダメ。自分の思い通りになって喜んでいる、こんなの幸せも何でもない。
神さまの与えてくるものを何も受けていない。過去の残像の一部を小さく受けて、思いが自己満足しているだけの話。本心の幸せとは全然違う。
本心の幸せは神さまの与えてくるものを全部味わえないと嘘。同じ幸せでも、自分の味わえる無限の幸せ、これでは足りないから、
みんなの味わう無限の幸せを、更に無限倍にして全部自分の中に取り込まないと、本当の本心の幸せではない。
そこまで自由自在な自分に戻って、みんなの幸せを中に大きく取り込まないとダメ。これをみんな目指す。
本心開発というのはそこまで行かないと本心開発ではない。本心を閉じ込めていく。

本心をどんどん開いていくといったら、一瞬一瞬が本当に真剣勝負。本当の能力を開発していかないと出来ない。
自分はこれしか出来ないなんて自己限定したらおしまい。無限の能力を開発していかないと、神さまのプレゼントは味わえない。
急な川の流れでも自分がさかのぼって泳ぎ切らないとダメ。鯉の滝登りみたいに滝でも登らないとダメ。登れなかったら流されるだけ。
惰性に流れるようだったら、本心の力を使っていないことになる。どんな急流でも登らないとダメ。

どんな問題が出て来ても、自分の能力を引っ張り出す勉強材料。難しい問題が出てくるほど、それに取り組まないとダメ。
それを解決する能力を引っ張り出さないと。地球を守るっていう位の問題は、本当は小さい問題。地球を守るためにどうしたらいいか。
地球上の問題全部、解決するためにどうしたらいいか。まだ問題が小さい。この問題ぐらいは全部自分が一人でもしないとダメ。
どうしたらできるか、真剣に考えて、本当に地球を守る、この働きを具体化させないとダメ。ここでお祈りがまず根本に無いと、
言葉通りになるっていう、絶対の法則があるから、本心の無限力を発揮するためには、自己限定の言葉なんか絶対に使ってはダメ。
自分のしたいこと、好きなことだけをしているような、ちっぽけな自分だったらできない。

地球霊王って、地球を守る神さま、地球の本体の神さまがどんな生き方をしているか。人類がどれだけ悪い事をしても、支えている、じっと耐えている。
核の実験をしたってそう。体中爆弾で破壊されている。それでも耐えて耐えて、文句を言わず支えてくれている。
どれだけ支えてくれているか。そしたら地球霊王の気持ちを汲んだら、本当に地球霊王を支えようとしないとダメ。
まず練習として、ちょっとでもお手伝いをして、同じだけの力を引っ張り出す勉強をしないと。どうしたら地球霊王を助けられるか。
同じくらいの力で支えていけるか。本心の自分はもっと大きいから宇宙をも支えないとダメ。地球位支えるのは初歩の練習。
これを人任せにしているようだったらバカ。自分の能力は一つも出てこない。奥にある能力は使わなかったら出てこない。使ったら出てくる。
みんな使わないで奥にしまったままだったら、出てこない。しっかりと使ったら使っただけ出てくる。難しい問題にこそ、取り組まないとダメ。
困難に戯れるくらいの気持ちでないと、本当の能力は出てこない。

ボクサーでもプロレスラーでも、そう。限界を破って、ギリギリまで自分を痛めつけて、更に中から力を引っ張り出そうとする。
傍から見たらバカに見えるかもしれないけど、あれも本心開発という面から見たら、本心の力を命懸けで引っ張り出そうとしている。
本心が出てきたら、怪我したのがサッと治る。その場でサッと消える。どれだけ本心を引っ張り出すまで、限界を破って耐えられるか。
色んな発明発見がそう。ギリギリまで追い詰められて、もうこれが無かったらどうしようもないというところまで追い詰められたら、発明、発見が出てくる。
本当に真剣になったらそう。みんな本心の中に全部持っている。神さまが全部用意して与えてくる。それを本当に必要としないと引っ張り出せない。
具体的に引っ張り出さなかったら、自分は何もしていないのと同じ。

人間って、肉体の人間でも能力を大きく与えてもらっている。普通全力を出して、これ以上出ないって限界まで出した人で4分の1という。
25%しか出していない。まだ75%の余力がある。肉体の自分ですらそう。魂の自分、本心の自分、奥の自分はその無限倍持っている。
どんな力でも本当は発揮できるはず。必要だったらいくらでも出てくる。出せないのは、みんな自己限定してマイナスの言葉で自分を縛っているだけ。
みんな自分のマイナスの言葉で自分を縛るだけ。人の言葉と違う。自分の言葉で自分を縛っている。本心の自分を忘れて、自分を言葉で縛っているだけの話。
過去から全部見ていたらそう。自分のマイナスの言葉で自分を縛り続けてきた。過去の縛りなんて、本当に自分が支えようとしたらすぐに消える。
全体を支えよう、総責任者になって本当に力を発揮しようとしたら、過去の言葉の縛りは一瞬で消える。本心を生きて支えようとしないから、出てこない。
言葉の縛りが絶対消えない。消す力がない。本心を引っ張り出さない限り、消す力は出てこない。いくら言葉で唱えたってそんな力はない。

本心が使う言葉に力がある。思いの心でいくらプラスの言葉を唱えたって、そんな力はない。マイナスは消せない。偽物。
本心の自分の使う言葉は、力がある。支えに生きる自分には、力がある。真祈りを祈るというのでも、本心の自分が祈ったら力がある。
思いの心でいくら真祈りといっても力はない。ここは区別しないと。全て本物と偽物がある。本当に自分が本物を生きているか、偽物に負けているか。
常に自分を見つめないと、偽物になっていたら負けている。



 
(平成27年3月28日のお話A)