真のありがとうございます 

 本心の心と我の心の違いはどこにあるか。本心の自分は自由自在心。過去をつかまない。
新たに新たに、神さまの御心を受け直すだけ。ところが過去をつかんで、これが自分、これが自分のものとつかんだ途端に、
思いの心になる、それが我の心。過去をつかみ続けて我の心になってしまった自分が、どうして本心に戻って行けるか。
一番大きい問題。まず思いの心では思いを消せない。我の自分では、本心に戻れない。いくら戻りたいと思っても戻れない。
どうするか。永遠に不可能。真の神さまの助けがない限り、出来ない。我の自分ではもう、どうしようもないというのが本当。

例えばいろんな実例が沢山あるけど、中国の梁の武帝という王様が、達磨大師の頃に、仏教興隆のためのいろんなことをいっぱいさせてもらった。
ところが王様は自分が偉いと思って、自分が全部したと思った。いろんなことを並べ立てて、自分が仏教興隆のために、いろんなことをした。
その功徳はどれだけのものかと言った。これはやっぱり自分がという、我が出ている。させていただいたというのでも、まだ我がある。
本当は仏様がぜんぶしてくださった。それを自分がと言った途端に、無功徳って一喝される。やっぱり我があるから。
全て仏様のお蔭で与えてもらっただけの話。

我というのは、自分がというだけでダメ。自分が人がというだけで、大きい我の心に陥って来る。正反対に、マイナスばっかりを積み重ねてしまう。
過去をつかみ続けて、大きい我を積み重ねて、本当に巌のような我を一杯積み重ねている。本当は、神さまという大きい命の源、水源があるとして、
そこから命の水が常に滔々と流れ込まないといけない。一瞬一瞬、生かされている、生かされている、ありがとうございますという気持ちになってないと嘘。

ところがそれが流れ込んでこない、水源が上の方にあっても自分の方に流れてこないというのは、途中を邪魔するものが一杯ある。
パイプが詰まっているか、岩石が一杯で、命の水が通らなくなるくらい、岩がずーっと連なっている。過去をつかみ続けたら無限の我がある。
神さまの命が自分の中に流れ込まない状態になってしまう。過去の思いがどれだけ積み重なっているか。
思いというのが縛り。過去の鉄の鎖で縛られている。がんじがらめに鎖で縛られたら、全く自由が無くなる。自由がないのが苦しみ。七難八苦の心。
縛りを全部とくのは、結局神さまの命が流れ込まないといけない。途中の邪魔するものを全部大きい力で洗い流して、循環を戻してもらわないと出来ない。
それがどれだけ大きい力がいるか。山の水って大雨の時なんか地下水として流れてくる。上の方の水と下の方の水が繋がっている時は、ものすごい圧力。
鉄砲水になる。鉄砲水になった時は、どんな岩でも土でも何でも流してしまう。だから土砂崩れ、山崩れが起こる。
そのくらいの大きい力がないと、我を全部押し流して消すわけにはいかない。

ミラレパという人の話がある。黒魔術に入って、自分の財産を奪い取った村人を呪い殺す。ひょうを降らして全滅させる。
師匠が言うのには、自分たちは悪い事ばっかりしてきたから、絶対地獄に落ちる。
お前が代わりに修業してみんなを救ってくれ、正しい信仰を極めなさいという風に送り出してもらう。

そこへ行ったらやっぱり、師匠って立派な師匠ほどやっぱり厳しい。
本当に過去の業を全部消しきって、本心の自分に戻してあげようと思ったら、全ての我を消してあげないと出来ない。
まず業を、思いを消さないとダメ。そしたら、色んな弟子が一杯いても、ミラレパに対してだけは厳しい。
それだけ真剣に道を求めていたからそうなんだけど、本当に全託を求めてくる。命を投げ出せって言う風に。無理難題を一杯言う。
言われたことをしても、いつもダメだって言う。大きい石を積み重ねて、城になるような石垣を作れと言う。
大きい巌を動かすって大変。それを積み重ねるってもう一つ大変。手に持てる石を積み重ねる石垣くらいだったらいいけど、
城垣にするような石って大きい岩。一人では持てないし動かせない。色んな道具を使ったり、てこの原理で動かさないと出来ない。
それを大きく積み重ねるって大変なこと。それを言われた通りにしたら、そんなこと言っていないって言う。馬鹿もんというわけ。
張り倒されて蹴飛ばされる。次にそこへ作れって、もう一回その石を使って、別なところに作らせようとする。
それがまた終わったら、そんなこと言っていないって言う。また蹴飛ばされて、また別なところに作れって言われる。

なぜと思う?まだ我の心が強い。師匠がこう言ったって、過去をつかむ我の心。
師匠はこう言ったじゃないかって、いつまでも過去をつかんでいる。過去をつかむミラレパの我の心、大きい岩のようなものを動かして、
それを捧げさせようとしている。我を捧げて消してもらう、本当はこれがわからないとダメ。言われたことをするのではない。
自分の大きい我を消してもらうために、してもらっていた。ところが我を消してもらっているのに気付かない。
師匠が言ったことも、過去に言ったことだけをつかんでいる。まだ大きい我の心。

本当は一瞬一瞬、師匠の心を問い返さないといけない。今こう言ったけど、次に別なことを言っているかもしれない、願っているかもしれない。
本当に何を必要として願ってくれているか。本当は師匠の願っているのは、本心開発だけ。大きい我を消して、本心に戻したい、これだけ。
そしたらその心を汲み取らないといけない。いかに全託できるか。謙虚になって、素直になって、はい、はいと従えるか。
本当に命を投げ出せるか。命というのも、本当は自分の命なんかない。神さまから頂いている命だから、
神さまの命を神さまに返すのが当然なんだけど、自分の命と言うと、自分が命を捧げていると言う。
これも大きい間違いだけど、命を捧げるというのは、神さまに命をお返ししているだけ。一瞬一瞬、生かされているという風に、新たに受け直すだけ。

命を投げ出すということは、普通はしない。お返しするというのも出来ない。我があると絶対そう。
我の心はしっかりとつかんだまま動かない。そしたらその大きい岩を何回も何回も移動させては、神様に捧げるという気持ちを起こすまでさせる。
早く気づかせようとしている。それを何回も繰り返している内に、消してもらっている。それに気付くような本心にどんどん変えてもらっている。
ミラレパは、最後はこの世では、自分はもう悟りを開くなんて不可能とあきらめる。来生に希望を繋ごうとする。
死のうとする寸前に、師匠が本当の意味を説明してくれる。お前が大勢呪い殺した業は、そんなに簡単に消えるものではない。
その借金を返すだけでも大変。まだ我が一杯ある。我を消すのも大変。どれだけ本心に戻るのが大変か。
色々優しく諭して、お祈り一筋になるように導いてくれる。

我というのはなかなか自分では消せない。人に、師匠に消してもらうにしても厳しい。簡単に消えるものではないから。
本心の自分だから我がないかというとそうでもない、出てくる。古事記にあるイザナギの神さまとイザナミの神さまの国生みのところがある。
創造神って立派。でもイザナギの神さまもイザナミの神さまも国生みする時に法則を外したらダメ。イザナギの神さまの方は霊の神さま。
イザナミの神さまの方は、体の神さま。霊と体があったら、霊が主導権を握らないとダメ。本心と思いの心の肉体の自分を比べたら、
本心が主導権を握らないと、プラスの働きは出来ない。ちょうど絵筆で紙に字や絵を描く時がそう。絵筆を動かさないとダメ。紙が動いたらダメ。
絵筆をそのままにして紙が動いて字を書くなんて難しい。絵も描けない。霊が主導権を、本心が主導権を握らないとダメ。
それでないと失敗作が生まれる。創造神という神さまでも、それを間違えたら失敗作を生み出す。淡島ヒルコ。
そしたら、もう一回神さまの御心を問い返さないといけない。天津神にって。一瞬一瞬、何が必要かって。自分が何かするのなら我。

 

 
(平成27年3月21日のお話@)