真のありがとうございます 

 
 

 宇宙船護摩木を書いて、神さまの助けを受けて地球を守るというのでも、自分が総責任者の立場に立たないと、神さまのとの約束をしない。
総責任者の立場に立たないと、この命、神さまに捧げます、神さまの御用にお使いください、この約束がない。
そうすると神さまが使えなかったら、神さまが力を奮えない。神さまが勝手に地球を守ってくれたらいいというのだったら、神さまは出来ない。
神さまはすでに真実の世界を作り上げている、みんなに与えているけど、虚の世界ではみんな受けていない。
虚の世界の責任は、自分、一人ひとりにある。虚の世界を完成させるのは、一人ひとり。

だから自分が総責任者になって、神さまの助けを無限に大きく受け入れないとダメ。そのひな形を作るのは自分。
自分がひな形として動き出したらそれが投影される。一瞬一瞬の必要性を追いかけるというのは、ひな形をずっと用意し続けないとダメ。
今何が必要か、今何が必要かって、瞬間瞬間、変化するから、同じことをしていたら必要なことから外れてしまう。

順番の必要性もあるし、状況によって変化する必要性もあるし、色んな必要性が出てくる。雨が降っている中で、電気の大工道具を使ったらダメ。
雨に濡らしたら機械も壊れるけど、感電して死んでしまうかもしれない。周りの状況に応じて、一瞬一瞬ちゃんと必要なものを追いかけないと。
雪が降っている時にしたら、みんな雪で滑って大怪我するかもしれない。必ず雪を除けて滑らないようにしていないと作業は出来ない。
特に、高いところに上る時はそう。脚立に上るだけでも、滑って落ちる。

本当の自分にとって必要性というのも、色んな必要性がある。虚の世界が要らないというのだったら、真実の世界に戻ったらいいだけ。
それがその人にとって必要。虚の世界を消しきって、真実の世界に戻って、神さまの世界に住めばいい。
でもまだ虚の世界が必要って、例えば絵を描くように、絵を描く世界が自分には必要なんだって言ったら、絵を描くような虚の世界も必要。
そこに何かを表現して楽しみたいわけ。真実の世界と比較して、真実の世界を更に大きく価値あるものに見出そうとする。
一枚の絵を描くのもいろいろ目的がある。自然を描写して自然をそこに現わす、大自然を自分の心でとらえたものを、そこに映し出そうとするとか、
いろんな必要性があって描き上げる。みんな本心の自分は必要性を追いかけている。虚の世界に出てくるにしても、
消しきって神さまの世界に戻るにしても、常に必要性を追いかけている。本当に何が必要かって一番大事な要をしっかりと握っている。
そしたら今の自分にとって何が必要か。絶対これが無かったらダメというものがあるはず。本心の自分にとって必ず一つ定まるはず。
今自分にとって一番必要なものは何か。これが無かったら絶対にダメというものがある。

だから宇宙船護摩木を書いてくれる人も、必要だから書いてくれるはず。なぜ必要か、本当に必要かって、しっかり考えていると思う。
本当に必要だから書くはず。必要でなかったら書かない。なぜ書かなかったらいけないのかって、それも一番大事という風に考えた人はしっかり書ける。

どれだけ必要性を見出すか。このありがとうございますっていうお祈りも同じ。ありがとうございますには、色んな段階の祈り方がある。
単に感謝のありがとうございますだったら、小さい自分がちょっとプラスに感じて喜ぶ程度の、ありがとうございます。
その程度の必要性しか無かったら、それがその人にとって必要な祈り方。でも地球を救う、守るっていう風に考えて、
それが必要だって考えるのだったら、感謝の祈りでは足りない。あまりに小さすぎる。真祈りのありがとうございますが、必要になる。
本当に地球を守るとなったら大きい力がいる。真祈りを祈ろうとする。神さまのバックアップが大きく入って来る。
それも一人の祈りでは足りないから、大勢の人の真祈りが必要になって、相乗効果を起こすためにも、護摩焚きの行事も必要になる。
さらにもっと力がいるのだったら、代筆の宇宙船護摩木も必要になって来る。全部必要性を追いかけている。何かしたいことをしているのではない。
一番必要なものを追いかけている。それが無かったらどうしようもないというギリギリのところで、一番大事な必要なものだけを追いかけている。

それで無かったら本心の自分を忘れている。本心の自分の生き方でなくなってしまう。
本心の自分の生き方は、常に一番必要なものを追いかける。だから神さまのバックアップが大きく入って来る。本心の自分が大きく輝ける。
必要なことをしなかったら喜べない。いくら自分のしたいことをしたって、本心が輝くのではないから喜べない。

食事でもそう。お腹がすいてもう飢え死にするかもしれないっていうくらい、何週間か断食しても、今必要なものって考えたら、贅沢な食事ではない。
本当に必要な食べ物、最初はお粥くらいかもしれない。それが一番必要なもの。何でも食べていいのと違う。
贅沢なもの一杯、固いものを一杯食べたらお腹を壊すかもしれない。それが必要なものとは違う。

だからすべてにわたってそう。本当に必要なものは何か。それさえしっかりとらえたら本心が輝く。着る服でも同じ。
たくさんの服を用意して着飾ったって本心は輝かない。反対。本当に必要な一着でいい。その時は本心が中から輝いて美しく見える。
贅沢なものをいっぱい着飾ったって、中身が輝かないと値打ちがない。中から輝いたら、最高の美しさをそこに持ってこられる。
必要なだけだといい。だからお化粧したり着飾る人は中が乏しい。全部捨てた人は中が輝いてくる。

自分に必要なものっていうけど、自分っていうのは肉体の自分ではない。魂の自分でもない。本心の自分、これでもまだ小さい。
真の自分、真の神さまっていうこと。真の神さまが何を必要としているかって、ここまで行かないと。
そこまで行ったら本当に必要なものが順番に降りてくる。真の神さまは、本当に必要なものを与え続ける。絶対間違わない。
一番必要なものを、本当に必要なものだけを与え続けてくれるのが真の神さま。
そこへ心をしっかりと向けていたら、本心の自分にとって一番必要なものを与えられて、一番必要なものを追いかけられる。

自分が必要として願っているというのは、まだ間違うかもしれない。真の神さまがいつも何を必要として願っているか、
いつもここに自分の心を持って行かないと、一瞬一瞬どう変化するかわからない。
常に新たに、今、何が必要かって本当の必要性を神さまから受け取らないとダメ。そしたら最高の生き方に変わる。これが真祈り。
真の神さまを持ってくる。それも真の神さまの全てを、自分の前に持ってこないと。


(平成27年2月14日のお話A)