真のありがとうございます 

 

 

 何が必要かって、本当に必要なものだけを徹底して、追及する。余計なものを全部切り捨てないとダメ。
捨ててしまわないと邪魔していく。自分の持っているものでも、余計なものを一杯持っているはず。
必要なものだけに絞り込んだら楽なはず。本心の流れがスーッと入ってくるから、心がスカッとしてくる。
そして必要なものは、自由自在に使いこなせるようになる。余計なものはやっぱり溜まってくると全部邪魔する。
光の流れを全部邪魔するから、結局使いこなせないし、役に立たないものを一杯おいている。
それが本心の自分に戻るのを邪魔する、我の自分にどんどん落ちていく。身近なことでもそう。
余計なものを溜めないこと持たないこと。持つだけで損をする、物はたくさん持って得するのとは違う。
持ったら、つかんだら損をする。自分のものとしてつかんだら損をする。たくさん溜めたらもっと損をする。
大自然でもそう。本当に一瞬一瞬、変化し続けている。循環が早いほど、プラスに置き換わっていく。止めただけが、マイナスになっていく。

だからまず自分のものを持たないこと。自分のものを持ったら、それだけが自分のもの。小さくなっていく。
他が全部自分のものでなくなってしまう。元々は、真の神さまが与えてくれる、全てが自分のもの。
全体から与えてもらう、自分一人の為のもの。真の神さまが全体。全部、全体を通して自分一人に与えてくるもの。
全体が、全てが自分のためのもの。元々が自分のもの。これを忘れる。それで小さくなって、これだけが自分のものだとつかむ。
無限分の一みたいな小さいものをつかんで、残りの全部、自分のものでなくしてしまう。
これで幸せになれる道理は絶対にない。根本が勘違い、間違っている。

どれだけ真の神さまが愛の心で幸せを与えようとして来ているか。大きい幸せを与えようとしているのに、受け取っていない。
本当に必要なものを受け取ろうとしていない。神さまは、ちょっと欲しがるものを与えようとしているのと違う。
本心の自分にとって大きい幸せを与えようとしている。小さい我の自分に対して何かを与えようとしているのではない。
本心の自分は、無限に無限に大きい幸せを、与え続けてもらえるようになっている。

だから本心の自分の生き方と我の思いの自分の生き方は、全く正反対の生き方。どちらを選ぶか、これで決まってしまう。
本当に幸せになりたかったら、本心の自分の生き方を選ぶしかない。本心の自分をしっかり生きない限り、幸せにはならない。
それを忘れたら、我の生き方。思い通りになって喜ぶ生き方。これは大きい借金。思い通りになったら大きい借金を背負う。
その借金返しの七難八苦のすがたが必ず出てくる。思い通りを生きてもダメ。絶対幸せになれない。逆に大きい不幸を背負う。
本心の自分をしっかり生きること。

真の神さまと共に、愛の心を生きるだけ。真の神さまを与え続けるという本当の愛の働きだけが必要。それが一番自然で楽な生き方。
一番大きい立場、絶対の中心に立って、肉体の誰かにではなく、本心の全ての全てに対して、真の神さまを与え続ける。
与え続けるのでも、一人ひとりに必要な、最高のものを与え続ける。最大限のすがたで与え続ける。これが真祈り。
真の神さまを与えない限り、一人ひとりに的確に、必要なだけを与えるわけにいかないから、自分が表に出ても何も出来ない。
一人の人に対してでも大変。真の神さまを大きく前へ押し出して、与え続けない限り、みんなに必要なものを与えてもらえない。
だから真祈りを祈るしかない。徹底して真の神さまを与え続ける。この真祈りを祈るしか、本心の生き方はない。
自分が与えた通りに、また与え返される。自分が全体へ大きく幸せを与えたら、全体から同じ幸せが無限倍になって帰って来る。
この循環が本当の幸せ。支え合いになる。

自分一人がいくら幸せを受け取っても、幸せではない。受ける幸せなんて小さい。
みんなに大きい幸せを与えて、全体から大きい幸せが戻ってこないと、ダメ。
その大きい循環の中に自分を置いた時に、本当の無条件の幸せって湧き上がる。自由でもそう。
我の自分は思い通りにしようという自由を持っている。みんなが我を出して、自分の思い通りにしようという自由を発揮する。
お互いに自由を奪い合う、邪魔し合う。本当のわがままな自由を発揮する人は、全部自由を奪われていく。自由がなくなる。
我の思いの自分の自由はみんな消えていく。マイナスになって全部なくなる。

でも本心の自分は、自分の自由を全体に与える。それはみんなを自由にしようとするだけ。自分の自由に生きよう、ではない。
みんなの自由を生かそうとする。みんなを自由にしようとする。みんなの思い通りに、願い通りにかなえてあげようとする。
自分の自由は全部捨てる。全体に与え尽す。そしたら全体から全ての自由を捧げてくれる。そしたら自分を縛るものは何もない。
みんなが自分を最優先にして自由にしてくれる。何が必要でもサッと与えてくる。
だから自分の持っている自由を無限倍にして返してくれる。どういう場に置かれても、自分の自由を最高に生かしてくれる。
自由自在になる。これでないと本当の幸せではない。本当の自由自在にならない限り、本当の幸せとは違う。
ちょっとでも縛られたら幸せは無い。

自由と平等、これが幸せの東西の両横綱みたいなもの。自由がないと幸せではない、また平等でないと幸せではない。
差別があったらみんな心を痛める。自分が上でも下でもダメ。本当の自由と本当の平等があったら幸せ。それが幸せの根本。
平等っていうのもそう。真の神さまからは、みんな同じように、本当に必要なものを的確に与え続けてもらう。それも大きく大きく。
真の神さまが、全体となって、自分一人に対して、最高のものを与え続けてくる。みんな同じ。
どの人を見ても、同じように与え続けてもらう。真の神さまが全体となって、その一人の人に対して最高のものを与え続ける。
みんな平等。差別は一切ない。平等。

そしたら常に自分を真の神さま対自分という、一対一の関係に置くしかない。常に真の神さまが相手になる。
自分の他に人は絶対に出てこない。常に真の神さまが全体となって、現れる。これを真の神さま以外に何かあると思ったら、間違っている。
自分が、我の自分に陥っている。

本心の自分は、違う。本心の自分は本当の自由と平等があるって、しっかりと理解している、わかる。
だから平等という立場から見て、真の神さまから全てを受けるということが、良くわかる。
これが人と自分ってバラバラに見ていたら、みんな同じように何も与えてもらえない。
いくら真の神さまでも、平等には与え切れない。まず自分の立場と人の立場は全部違う。必要なものは全部違う。
同じものを与えても、平等とは言えない。また与えるわけにはいかない。

本心の自分と我の自分との違いは大きい。本心の自分は元から無色透明、自由自在心。
真の神さまの全てを受け入れて循環させられる。我の自分は小さい。形があったらそこしかない。
そこを何が通り抜けたって無限分の一の小さいもの。幸せなんて、ありえない。
本当の自由と本当の平等という考え方は、本心の自分に当てはまる。我の自分には当てはまらない。
我の自分には自由もない、平等もない。虚の世界には、本当の自由も平等も一切ない。どこを探してもない。
無理に平等と言っても違う。悪平等。平等でも何でもない。自由と言ってもわがままな自由。奪い合う自由。
自分が自由になったら、他の人が縛られている。

民主主義の考え方もそう。本心の自分にとっては、本当の民主主義は正しい。我の自分にとっての民主主義の多数決は、間違い。
みんなが本心側に立っていたら、多数決は要らない。どんな問題でも、真の神さまの最高の智恵が降りて、衆議一決する。
一つにすっとまとまる。全員一致。多数決なんか要らない。でも我の自分の方は、みんな意見が違う。
自分の願いが違う、思い通りにしたいから、多数決で決めても、勝った方は喜ぶけど、負けた方は悲しんでいる。
勝っても借金を背負うだけだし、本当の幸せなんかどこにもない。民主主義は正しいって言うけど、本心の自分に戻っての民主主義は正しい。
我の自分の民主主義は間違い。民主主義も自由意志も何もかも間違い。誰一人幸せに出来ない。

だから我の意見を聞いたって何の役にも立たない。みんな縛りになるだけ。本心の自分に戻って神さまの御心を問い返すのが大事。
神さまの智恵を受けるのが必要。全てを幸せにするための智恵が降りる。本当に必要なものを与えるための智恵が降りてくる。

本心に戻るために色んな勉強がいる。根本はお祈りをすることだけど、全てにおいて行き届かないと。
本心を生きようという生き方にならないと。一つ一つが、本心開発の勉強材料になっている。どんな一つも大事。
しっかりと本心を生きようとしたら、本心が大きく輝いてくる。それを忘れたら、我を積み重ねる一方。
本心を開きながら、また我を積み重ねる。どんな小さいことも、一瞬一瞬、大事に生きないと。必要なことを追いかけたらいい。
しっかりと必要なことだけをするのが大事。余計なことをしないこと。


(平成27年1月24日のお話A)