真のありがとうございます 

 

 

 真の神さまが真の自分。あの16項目が全部自分の実感として湧き上がってこないと嘘。
真のプラスの言葉を駆使する自分。いつも真のプラスの言葉を駆使しているか。一切の我のない無色透明の自分。
本当に我を出していないか、本当に無色透明かって自分に問い返さないとダメ。元から真の神さまと一体の自分、本当に一体か?
これから一体になろうとしているのではないか?元から一体なのに何をしているか、となる。

常に全体を支える自分、本当に全体を支えようとしているか、支えるって一番大きい力がいる。
一番下から支えないとダメ、自分が上に出ようとしてないか、自分を出そうとしてないか?
全体を支えるというのは、一番下に降りないとダメ。全てを適材適所に配置して生かしているか。全てを生かしきっているか。

一切の責任を自己に帰す、総責任者の自分。全てのマイナスを自分の責任と受けているか。
人に責任を擦り付けていないか、人をマイナスに見ていないか。常に自分を点検しないと、本心の自分を忘れる。
全てのマイナスを自分が責任もって消そうとしないと。そのために、真の神さまのプラスを与え続けて消す。

だから真祈りを絶対に祈り続けないとダメ。永遠の自分を生きているか。肉体を自分とつかんだら、百年生きるか生きないか。
そんな消えてなくなるような儚い、虚しいものを自分と思っていて、幸せがあるわけない。
永遠の自分でないと、生き通しの自分でないと、絶対幸せな心になれない。

本当に完全円満な完璧な本当の自分か?肉体の自分は違う、不完全。何が当たっても傷ついて、死んでしまう。
本当の自分は違う。完全円満完璧・金剛不壊。本当の自分は、無限に無限に大きい。本当の自分は無限に無限に大きい。
肉体みたいな小さいものとは違う、宇宙が自分という小さいものと違う、無限に無限に大きい自分。
過去から連続して、ずーっと、これが自分自分自分、ってつかみ続けている。
止まったものを自分とつかんでいるけど、そんなものとは違う、本当に一瞬一瞬新たにって置き換わってこないとダメ、
それも無限分の一秒で、一秒の一瞬ではダメ。無限分の一秒で、一瞬一瞬新たに、大きく変化してこないと。
無限のスピードで循環するすがたの自分ではない。

絶対の中心から無限に無限に輝いた自分、絶対の中心から本当に入れ子構造で、
本当の天照大御神様が大きく、輝いて輝いて出てくる。その全体像が本当の自分。絶対の中心から無限に輝いた自分がある。
それを肉体が自分、魂が自分なんて思い込むほうが、どれだけ間違っているか。選び方が違う、言葉が違う。

全ての全てと一体の、全一絶対の自分。虚の世界はみんなバラバラ。これが自分とつかんだら、他は自分でなくなる。
だから小さい自分をつかんだらみんなバラバラ。本当は違う、全体が自分。全てが一つになって全一の自分。
相対の対立を越えた、絶対の自分。全知全能の無限力の自分、この完全な智恵、完全な能力の持ち主。
自分の持っている限りの全知とか全能っていう意味ではない。全知全能の色んな言葉の使い方があるけど、
自分の持っている限りの全ての力とか智恵とかいうのは違う。完璧な完全な智恵、能力。完全な、智恵・能力の持ち主。

一切の縛りのない、決して縛られることのない自由自在な自分。どんな縛りもあったら、自由自在な自分ではない。
どんなものに縛られても、自由自在な自分ではない。絶対縛られてはダメ。常に自分の自由意志で動いていないとダメ。
人に言われてする、そんなの大間違い。そんなの奴隷。自分が自由意志で何が必要かって選ばないとダメ。
何が大事か選んで、自分が実行する。人に聞いて、人に言われてするのではダメ。これは本心ではない、奴隷。
真の神さまの心を汲み取って、本心の自分が、自分の自由意志で選ばないとダメ。自分が選んで実行する。
何が必要か、何が大事か、自分でしっかり把握しないとダメ。

そして微塵も求める心のない、必要なものを的確に与え尽す愛の自分。絶対求める心を起こすと、我の自分、思いの奴隷に陥る。
人にちょっとこうして欲しいって思うだけでも、間違う。絶対求めたらダメ。愛の自分は与えっぱなし。お返しを求めない。
与えて与えて、与え尽すだけの、与えっぱなしの自分。そしたら一切の条件を付けない。
無条件の幸せ、無条件の喜び、無条件の安らぎ、常に無限のスピードで湧き上がってくる。これだけが真実。

なぜ忘れてしまったのか。忘れたのは実行していないから。真の神さまを与え続けるのが、実行。
だからそこが真実の世界。与えるのを忘れたら虚の世界、偽物。与え続けることが、神さまの愛の働き。
だから真実の世界が生まれている。与えなかったら何もない世界、虚の世界。プラスを与え続けるから、プラスの世界。
与えなかったら、何もないゼロかマイナスの世界。

だから与え続けないと。真の神さまと共に歩まないとダメ。真の神さまを与え続ける。だから真の神さまと一緒に歩めばいいだけ。
それが、真祈りを祈ること。真の神さまが自分の中を通り抜けてくれること。常に、自分を神さまの側に置かないとダメ。
つまらない自分をつかんで、これが自分と言っていたら、謙虚とは違う。傲慢。小さくつかんで、これが自分というのは傲慢。
謙虚で素直なのとは違う。何の力もないのに、神さまより自分が偉いと言っている。神さまを最高に褒め称えていない。
我を出して主張するのは、神さまより自分の方が偉いと言っているだけの話。そんなところに神さまが降りるわけない。
助けに降りるわけない。そんな怖いところ行きません、そんな偉い人を助けに行けませんって言う。だから本心の自分には戻れない。

真の神さまが自分の中に降り立って初めて本心に戻る。真の神さまを拒絶して本心に戻れることは絶対ない。
ありがとうございますって言葉には色んな意味が沢山ある。その一つに、真の神さまを褒め称えるっていう働きがある。
ありがとうございますって唱えることは、最高に真の神さまを褒め称える祈り。本気で褒め称えているかって。
真の神さまを褒め称えたら、本心の自分に戻れる。褒めなかったら戻れない。

ありがとうございますには、たくさんの意味がある。これを本当に一つ一つ確認しているかって。
真の神さまを忘れて幸せになれる道理がない。表面をちょっと見ただけでは真の神さまはわからない。
「群盲象を評す」のたとえと同じ。尻尾を握って紐だと言ったって意味がない。全体がわからないと、全体をつかまないと、
真の神さまはわかったことにならない。

だから、ありがとうございますの意味も、全部の意味が分からないとダメ。しっかりと言葉で確認する。
繰り返し繰り返し、言葉で確認して、実感を深めないと。つまらない言葉は選んではダメ。
真の神さまを表現する言葉だけを選び続けないと。真の神さまから、本心から外れていく。
我の心の自分に陥って、苦しんでいるすがたを見て、真の神さまは、どれだけ悲しんで嘆いているか。
本当の本心の自分に戻そうとして、どれだけ命懸けで一生懸命になっているか。放っておいているのと違う。

みんな悟りを開いて、神さまの世界に戻りたいって、本当に真剣に願っているかって、考えたらわかる。
どれだけ真剣に願っている人の場合でも、神さまの無限分の一。神さまの方が願い続けている。
我の自分から本心の自分に戻りなさいって、何とかして戻してあげたいって、神さまが真剣に願っている。
真剣に働き続けている。それを拒絶して拒絶して、邪魔ばっかりする。我の心がそう。
これだけ言ってもまだ、「神さま、ごめんなさい」「神さま、ごめんなさい」って、涙流して、土下座して謝る人はまだ少ない。
気づかない。神さまの愛の深さに気付いていない。どれだけ神さまの愛が大きいか、深いか。どれだけ働き続けているか。 



(平成27年1月17日のお話B)