真のありがとうございます 

 

今、護摩焚きの宇宙船護摩木作り、一生懸命みんな頑張ってくれているけど、本当は護摩木を書くだけではダメ。
全員が、みんなが、一度自分で護摩木を作ってみないとダメ、わからない。自分で自分一人の力で、護摩木を100枚でも作ってみたらいい。
自分一人で何もないところから、100枚自分で作り上げる。木を伐ってきて、のこぎりで切って、かんなで削って、
本当に一枚一枚、自分の手細工で100枚作ってご覧、どれだけ大変か。自分でしなかったらわからない。

まず100枚作ってみること。そしたらどれだけ、一枚の護摩木を作るのが大変か。
それも宇宙船の護摩木にしようと思ったら、祈り続けて、祈り続けて、一心不乱に祈り続けて作らないと、宇宙船にはならない。
単なる木片で終わる。本当に祈り続けて、一枚の護摩木を作らないとダメ。100枚作るのに、どれだけの時間がかかるか。
実際してみないと、気付かない。実際100枚作ってみようとしたら、わかる。
そしたら神さまが、地球を守るために、救うために、100万枚の護摩木を作って、宇宙船として使って、
みんなを救おうとして下さる、その愛のすがたがわかる。

護摩木を100枚作るだけでも大変なこと。100万枚作るとなったら、万倍大変。誰がする。
総責任者の自分がしないとダメ。自分一人で100万枚作らないとダメ。そうしないと、神さまが地球を救ってあげようと言っても、
お手伝いが何もできない。人が動かなかったら、神さまは降り立てない。神さまは常に後押し。応援する。
神さまが勝手にしてくれるのではない。神さまは常に後押し、応援。人が先に動き出さないとダメ。
護摩焚きで大きい光を降ろしてもらう、その前に宇宙船護摩木を自分が100万枚作らないとダメ。
誰かがしてくれるだろう、と待っていても始まらない。

今年一年、真の神さまが護摩焚きに降りて、助け続けてあげると言ってくれても、じっと待っていたら、始まらない。
そのうち時間が過ぎて終わってしまう。なぜ早くしなければいけないか。1分でも1秒でも惜しい。
神さまが大きく降り立って下さるそのチャンスを捨てていっているだけ。でも総責任者の自分だったら、わかるはず。
地球を守る、地球を救うためにどうしたらいいか。自分が責任者になったら何をしなければならないかよくわかるはず。
じっとしていて待っていても、意味がない。早く100万枚用意しないとダメ。一年後では終わっている、何もない。
まず一番最初の出だしが大事。護摩木を作ること。そんなことで遅れを取っているようだったらダメ。

だからまず自分が、護摩木を作ってみようとする。100万枚用意してみんなに配ろうとする。
その気持ちくらい、起こさないとダメ。どれだけのお金がかかって、どれだけの時間がかかるか、
どれだけの大きい助けがなかったらできないか、わかるはず。真の神さまからの、全体からの目に見えない大きい助けが一杯ある。
一つ欠いても出来ない。その真の神さまからの支えがどれだけ大きいか、無限に無限に一杯あることに気付くことで、
一片の木片が、宇宙船に変わる。愛の救いの如来の願船、宇宙船になる。それに気付かず単なる木片に終わったら大変。
木片の100枚でも、作るのは大変。

単なる木片の100万枚を作るのも大変。お金も時間も、ものすごくかかる。もしみんな一人で、自分でやって、一日100枚も作れない。
一日100枚で、100万枚、一万日、何年かかる?それを誰がするか。待ってても、誰もしてくれない。
自分がし始めたら、同じような人が応援に参加する。自分と同じような人が周りに現れる。
自分が全責任を持って作ろうとしたら、同じような人が出てきて、それで支え合いになる。それで力を合わせて早くできるようになる。

だから自分一人が動き出さないとダメ。まず自分が一番大事。神さまの側に立って、神さまのお手伝いに生きる。
自分が動き出した程度に応じて、神さまのバックアップが来る。大きく動き出したら、大きく応援が来る。
神さまがいつも待っている、人が動き出すのを待っている。その応援をしてくれる。
だから常に、神さまの助けっていうのは、新たなる無限の無限の後押し、応援。無限の無限の盤石の支え、万全の助け。
無限の無限の的確な導き、完璧な護り、完全なバックアップがある。

自分では元から何もできない。我の自分は自分がしているように思っているけど間違い。自分の力でしているのではない。
自分には指一本動かせない、目一つ動かせない。全部真の神さまからの助けで動く。肉体の自分、これが自分だと思っているけど、
細胞一個自分が作ることが出来ない、分裂させることもできない、新たに作れない。
そんな自分が、何が出来る?本当は何も出来ない、出来ないのに自分が出来るって偉そうに言っているだけ。それが我の心。
いかに罰当たりか。だから苦しむのは当たり前。我を出したら苦しむ。
自分が自分が、自分の力で、っていうのが、無礼千万、無礼億兆、本当の罰当たり。全て本当の神さまのお蔭。
100%、全てが神さまのお蔭、神さまの力。それにちょっとでも気付いたら、謙虚に素直に受け入れていける、神さまと共に歩める。

だから総責任者に立場を移さないとダメ。神さまの側に自分を置かないとダメ、そして支え合いに生きようとしないとダメ。
神さまのお手伝いに生きようとしないと、いのちを捧げて恩返しに生きようとしないと、
一瞬一瞬新たに生まれ変わって生きようとしないとダメ。過去をつかんだ自分なんて、残像の自分に何の力もない。
打ち上げ花火がボーンと上がったと言ったって、残像の光が消えていくだけ。線香花火が消えていくのと同じ。そんな自分に力があるのではない。

だから我の自分に陥ったら苦しむのは、本心の自分に戻らせようとする計らい。我の自分を生きたら、必ず頭を打つ。
苦しみ続けることになる、だからこそ本心に戻ろうとする。我を生きて幸せになるんだったら、我の心をいつまでも離さない。
我の心を生きたら、必ず頭を打つ、苦難の連続になる、七難八苦でいっぱいになる、地獄絵図になるのは当たり前。だからこそ本心に戻ろうとする。

 
(平成27年1月17日のお話A)