真のありがとうございます 

 

 元々本心の自分は、神さまと一つ。絶対の中心に立った自分はそう。真の神さまが自分の中を循環するだけ。
全くピタッと一つになっている。元から真の神さまと自分との間には一切の差がなかった。
ところが、本当の自由自在な心を生きるのを忘れる。過去を一瞬でも掴んだら、自由でなくなる。
自由な自分が忘れられていく。そうすると神さまと自分の間に差が生まれてくる。どんどん神さまと遠ざかったら、差が大きくなる。
神さまと自分と間の差が大きくなる。今自分が、これが自分って思っている、例えば肉体の自分が本当の自分って思い込んでいると、
真の神さまと比べたら大きい違い・差がある。これは過去をつかみ続けた結果、差が出来た、大きい差が生まれた。

悟るというのは、この差、違いを消していくこと。元の自分に戻ること。過去を捨てること。
差が生まれたのは、過去を掴み続けたから。差を縮めるには、過去をつかまなくなったらいい。
新たに新たに、受け直す生き方をとればいい。そしたら差が詰まっていく。
どんどん差が縮まって、一番、新たに新たにって、一番新たなものが絶対の中心で受ける、一番大きい自分。最高の自分。

だから過去をつかむか、新たに選ぶか。惰性に流れたら、みんな過去をつかんでいる。過去を言葉にしている。
常に、真の神さまから新たに新たに受けようという気持ちが大事。
だから護摩木に書いているのも、真の神さまが一大循環の相象で厳然と今ここに在します!
「新たなる」全徳の無限の無限の輝きが、無限に無限に一杯!ってね、神さまは常に必要なものを一大循環の相象で与え続けてくるっていう確認がいる。
「新たなる」輝きがあると認めないとダメ。それが絶対の中心で、新たに新たに、受け直す生き方。
それが一番の本心の自分に戻る生き方。一切の過去を相手にしない。常に絶対の中心から降り注ぐ神さまのプレゼントを受けるだけ。

そうしたら本心の自分に戻れる。すべて自分の選んだ通り、言葉通りになる。
だからどれだけ自分が、言葉でも自分の自由意志で選んでいるかどうか。本当に自分の自由意志で選んだら、
ありがとうございますを、真の神さまとして選び続けられる。真の神さまを一番大きいすがたで与え続けられる。
自分が選ばないと、本心の自分として選んだら、出来る。我の自分、思いの自分を生きようとしたらすぐ忘れてしまう、出来なくなる。
だから一瞬一瞬、本心の自分を生きようとする、これが必要になる。本心の自分に戻ってからも同じこと。
本心の自分ほど、新たに新たに、だから。一瞬一瞬、新たに新たに生き続けないと、一番奥の一番大きい自分には戻れない。
ちょっとでも過去をつかもうとしたら、小さくなってくる。

回転寿司を食べに行くとする。目の前に美味しいものがずっと流れてくる。今食べたいものが流れてきたら、通り過ぎたって追いかける?
追いかけたら掴めない。人を押しのけて、追いかけないと取れない。そんなことしたら手に入らない。過去を追いかける人は皆そう。
追いかけたら、全部手に入らない。邪魔がいっぱい入る。隣の人が邪魔。邪魔がずっと座っている。追いかけても絶対掴めない。
新たに新たに流れてくるのに気付いたら、もう大丈夫。今通り過ぎても、すぐに来る。必要なものは新たに新たにってたくさん来る。永遠に。
だから、神さまは絶対の愛だから、必要なものをずーっと永遠に与え続けてくれる。これさえわかったら、何も過去を追いかける必要はない。

必要なものは、必ず循環してくる。タイミングよく必要な時にサッと出てくるようになっている。
全て神さまから新たに与えてもらう。人からではない。どこかからでもない。常に真の神さまから、必要なものが新たに新たに循環してくる。
それを途中から人からとか、何とか言うと間違う。常に、真の神さまからって、一瞬一瞬新たにって、
必要なものがタイミングよくサッと出て来るって、こういう受け方。これさえしっかりと信念になったら、絶対大丈夫。間違わない。
 

だから、護摩木のお祈りを祈って護摩木を書けば書くほど、必要なものがスーッと入ってくるようになる。
必要でないものは、スーッと勝手に自然に消えていく。護摩木書きがお祈りの最高の方法。何もしなかったら、お祈りはすぐに忘れる。
目標も目的もないから、すぐに忘れてしまう。でも、護摩木を書くことで、また大きい相乗効果を起こす大勢の支えを受けることで、
お祈りが早く本物になる。一人で一生懸命祈っているのは、無力。何の力もない。集団の祈りとか言って、集まって祈っても、
それほど力はない。やっぱり、護摩木を書くことで、大きく助けてもらえる。いくら集団で祈っていても、その集団の人の祈りだけ。
護摩木を書く時は、もっと大きい力が加わる。その護摩木もたくさん集められる。その大きい相乗効果が大きい力になる、
さらに、真の神さまがそれをバックアップして、大きい力を奮える。だから、一人いくら真剣に祈っても大したことはない。
護摩木を書いて、護摩焚きに参加して、大きい助けを受ける方が何億倍以上の大きい助けを受ける。ここが違う。
護摩木を書くことが最終の究極の祈り方。この違いがわからなかったら損をする。

真祈りの伝授のために、神さまが何を必要としているか。真祈りの伝授、本当の真祈りの伝授を受けるのは、
無限のありがとうございますでは、まだ足りない。だから、何億回くらいでは、何の役にも立たない。
ありがとうございますを唱えたって、一生かかって何億回。そんなもので本当のお祈りが出来て、真祈りの伝授を受けるわけにはいかない。
だから、無限のありがとうございますでも、まだ足りないくらい。更に、それを無限倍にしてもらわないと本物にはならない。
小さい真祈りは祈れても、大きい真祈りは祈れない。

だから、真祈りの伝授は、護摩焚きを通して起こる。地球を守る、救う、これも一つの目的、方便ではあるけども、
それをきっかけにして、お祈りの特訓をさせる。お祈りは自分の為に祈っても力はない。
みんなのために大きく支える働きのお祈りをしないと、お祈り自体が本物にならない。
だから、地球を守る、地球を支えるという大きい目的で祈ると、早く本物のお祈りになる。
そして、大きい相乗効果を起こしてもらう。みんなに支えてもらったお祈りになる。だから、真祈りの伝授が起こる。
真祈りの伝授を受けた時は、どうなるか。無条件の幸せが湧き上がる。



(平成27年1月10日のお話B)