真の神さまが何を願っているか。これが一番大事なこと。自分とは何か。本物と偽物がある。
どれが本物の自分か。どれが偽物の自分か。まず自分を正しく探さないとダメ。自分が本当に納得できる答えを
探し出さないと。本当の自分とは何か。本当の人生の目的とは何か。何のために生きるのかって本当の目的を
探さないと。幸せでも、本物を探さないと。本物の幸せとは何か。自分が本当に納得出来る答えがいる。
真の神さまが本当に願っていること、みんなに願っていることは、本当の自分に気付いてほしい。
本当の人生の目的をしっかりと把握してほしい。本当の幸せをいつも味わってほしい最高の状態にいてほしい。
どうしたらそれにみんな気付いてくれるか。

元々神さまって、最高のものを与え続けている。一人ひとりが一番最初の原点、絶対の中心に戻っていたら
いいんだけど。一切の我のない無色透明の自由自在心。これが絶対の中心。我があったら、一つの立場が生まれる。
小さい立場になる。とらわれた立場になる。これでは絶対の中心に立てない。一切の我が消えていないとダメ。
本当に無色透明でないとダメ。自由自在心でないと、全ての全ての立場に立てない。
一番大きい立場、絶対の中心に立って、初めて真の神さまがわかる。真の神さまが、絶対の中心から、
一大循環の相象で自分の中を循環する、通り抜けてくれるから。そしたら常に、真の神さまが真の自分になる。
真の神さまの働きの全部を実感できる。これが無条件の幸せの湧き上がる自分。

無条件の幸せってどれだけ大きいものか。小さいものはみんな条件付き。条件を付けるから小さい。
一切の条件のない幸せって一番大きい。全ての全ての幸せそのもの。これがもう自分の中を通り抜けて実感できないと、
本当の無条件の幸せにならない。どういう幸せか。幸せで幸せで、どうしようもないくらい幸せでたまらない。
無限の無限の幸せが、無限に無限に一杯ってこんな表現じゃまだ足りない。本当に幸せが自分の中を通り抜けて
実感する。

真の神さまは、その本当の幸せをみんなに与え続けてくる。なぜ感じ取ってくれないのかって嘆く。
その一番の原因は、過去をつかむ執着。過去をつかむことで、過去の残像の中にはまり込む。
神さまの一大循環の相象を受けられなくなる。これが一番の根本の原因。
そこから残像の世界にどんどん落ちていく。小さい自分になっていく。過去をつかめばつかむほど、
小さい我の自分に陥っていく。順番にどんどん小さい自分に陥っていく。そして、無限の我が生まれてくる。
消しきれてない。それがみんな自分を縛り付けている。どの我が浮かび出て来ても、幸せな生き方ではない。
残像の中の生き方って、幸せが消えていくだけ。だから虚の世界は、全部儚い、虚しい。全部消えていく。
でも真の神さまの世界の真実のすがたは、一大循環、消えない。新たに新たに最高のものが循環してくる。
消えるのではない。残像の光だから消えてしまう。だから本当に自分が虚の世界で納得できる生き方が出来るのか
って絶対できない。

そういう根本の問題から逃げたらダメ。逃げたら何一つ解決しない。先送りしてもダメ。
どこにも幸せは見つからない。それで本当の幸せ、本当の心の安らぎを手に入れたいという人が、
悟りを求めてきた。どれだけ大変か。そんな簡単なものではない。無限の年月修行に修業を重ねても、
まだ本物に到達できないという位、厳しいもの。過去の歴史を眺めたら全部そう。
どうしたら、本当の安らぎが得られるか。考えてもわからない。考えるだけ、儚い虚しい心に陥るからって。
自分を見つめるのを忘れているというより、逃げている。

自分を見つめるのがやっぱり一番怖い。犯罪を犯して、刑務所に入れられて、独房に置かれるのが一番怖い
って言う。自分を見つめなければならないから。自分との対面。だから一番恐ろしい。
本心の自分に戻ったら安らいでくる。でも思いの心だったら、心が安らがない。虚しい、儚い、どうしようもない。
何か気を紛らわすものが欲しい。逃げ場を求めている。まだ苦難であえぐ方がいい、苦痛に打ちのめされた方が、
まだ生き甲斐がある。何もしない独房の中が一番恐ろしい。でもやっぱりしっかりと自分を見つめて、
何が本物か探さないとダメ。その勇気が絶対必要になる。逃げたらダメ。この答えが得られなかったら、
命を断つぞという位の直談判を神さまに対してしなければダメ。そしたら神さまが答えを出してくる。
だから偽物の自分をつかんで、偽の目的を持ってどんな生き方をしても、答えは出ない。
一生終わっても、儚い虚しい状態で断末魔の悲鳴を上げてしまう。あの世に行ってどこへ行くかもわからない。
あの世に行っても答えは無い。答えを探さないとダメ。

我の自分、思いの自分、我欲の心を生きて、どれだけ思い通りになっても、自己満足しても、ダメ。
こんなのは幸せの内に入らないし、その幸せを手に入れた途端に、借金返しの苦難が、連続してずっとやってくる。
それが人生というんだったら、偽の人生。そんな人生を本当の人生なんて思い違えている方が、大間違い。
本当に情けない、弱い。だから自分の何か目的を持って一生懸命生きたら、その間だけは気を紛らわしているだけ。
お酒を飲んで、飲んでいる間は、酔っぱらっている間は気が紛れる。
どんちゃん騒ぎしていたらその時だけ気が紛れるだけ。覚めたらどれだけ虚しいか、儚いか。五欲に陥る。
だからまた何か探し求めているけど、同じことの繰り返しばっかり。そこにはなんの答えもない。

だから真の神さまと離れたらダメ。真の神さまから離れたら、幸せからどんどん遠ざかっている。
真の神さまとピタッと一つにならないとダメ。それが真の神さまの一大循環の相象を感じ取ること。
自分の中を常に通り抜けてもらうこと。これを真の神さまがみんなに教えるためにどれだけ苦労しているか。
我の心、思いの心、五欲の心、求める心が、強い。求めるだけでは絶対に一大循環の相象は受けられない。
逆流だから波は絶対合わない。プラスに受ける感謝の心になってもまだダメ。虚の世界の話。
どれだけ与える心になっても、まだ虚の世界を与えたってダメ。与えた自分のプラスがなくなるだけ。
余計虚しくなる。だから虚の世界で自分がプラスの世界にいるからって、安心はできない。
借金の世界だから、必ず低い世界を見ないとならない。見た途端に落ちる、苦しむ。
虚の世界では、マイナスが消えない。答え探しを先延ばしにしてはダメ。

真剣に本当の答えを探すために、真の神さまを相手に、直談判しないとだめ。
まだ守護霊さん、守護神さんでは答えがない。真の神さまと一対一で直談判しないとダメ。
守護霊さん、守護神さんもまだ、虚の世界のすがた。真の神さまと一対一、これが正しい生き方。
自分の他には、真の神さまだけというところに入らないとダメ。自分の他に、いろんなものがあってと言うのは、
虚の話。これでは真の神さまが自分の前に出てこない。全て言葉通りになる。

虚の世界は特に、自分の選んで使う言葉通りに、全てが生み出されて消えていく。
虚の世界は、ありとあらゆる言葉で作り上げている世界だから、本当にいろんな世界が一杯ある。
でも全部言葉通り。自分も虚の世界に落ちて、いろんな言葉を使っている。
いろんな世界で生活してきて、どんどん変化させて今の自分がある。でもその虚の世界の過去の世界のすがた全部
消しきれているかって消しきれていない。残像として全部残る。大きい縛りになって、全部真実の世界に戻る
邪魔をしている。霧や雲が立ち込めるように、どんどん厚くなるから、真実の世界からどんどん遠ざかるような
感覚。

地獄に落ちて何億年苦しんだら、本当に悲鳴を上げる。助けてって絶叫する。でも届かない。
真の神さまに届くのは、真のプラスの言葉だけ。波が合わないから届かない。地獄の人の声が極楽まで届くか、
届かない。マイナスの世界とプラスの世界は波が合わない。そしたらいつまでも地獄で永遠に苦しむことが
出来るかってできない。耐えきれない。そしたらどうしたらいいか。

まず真の神さまがそれを放っておけない。絶対の愛っていう真の神さまは、虚の世界に落ちるのまで心配する。
それで虚の世界で、低く低く落ちて、地獄で苦しんでいる、もう一つ心配する。それも年月が長くなったら
もっとそう。何とかして一秒でも早く、救いたいって願うのが当たり前。真の神さまは、みんなの本当の命の親。
自由だから勝手に苦しんで、放っておけ、そんなことありえない。

だから救う側の真の神さまの苦労がどれだけ大きいか。人が勝手に地獄に落ちるのは、自由で勝手だけど、
落ちたあと、救う側の神さまの方がもっと苦労する。もっと心を痛めて、悲しんで、泣いている。
自分が身代りにでもなって苦しむ方が楽。それでありとあらゆる方法を駆使しながら、助け続けてもなおかつ、
プラスに変化しない。常に真の神さまの働きは、虚の世界に光を送ってくる。ただ人の自由を縛れないから、
半分取って消す。常に半分取って、消す働きで、虚の世界全体に働きかける。ところが半分消してもらっても、
まだプラスに向かなかったら、またマイナスを増やしてしまう、同じことを繰り返してしまう。
半分消してもらったら、軽くなるからプラスに向くのか。なかなか向かない。半分取って消す間は、
まだ人の自由意志は残している。半分だから、後の半分を自由に任せるから、マイナスに向くのも、
プラスに向くのも人の自由でどうにでもなるから。

でもそれだけでは足りないから、ギリギリのどうしようもないこういう状況になった場合、どうするか。
強権の発動っていう、本当の強い権威ある働きで降りてくる。人の自由意志をある程度無視して降りてくる。
こういう機会が何億年に一回降りて来なかったら、救われない。ただ、全ての自由意志を奪っては出来ない。
だから真の神さまが救いに降りた時、救いのお手伝いする人がある程度無かったら、働けない。
真の神さまだけ降りて出来るのとは違う。みんなの自由意志を生かしながらだったら、
いくらでもバックアップできる、応援できる、どんな力でも奮える。でも、人の自由意志を無視して、
全部変えたら、操り人形、奴隷になってしまう。だから自由を奪われたら幸せはどこにもない。
自由のないところは、どこにも本当の幸せは無い。本当の自由があるから幸せになる。
この自由を絶対守るのが、真の神さま。だから自由意志をみんな大事にしてほしいと願っている。
自由意志で、真の自分に戻ろうとしてほしい、悟りを開こうとしてほしい、虚の世界を消そうとしてほしい。
そしたらいくらでも力を奮える。

(平成26年12月27日のお話①)