真の神さまの力を前面に押し出さないとダメ。これは、虚の世界ではできない。
いくら虚の世界で1番上まで上っても、いくらプラスを与えても、本心の自覚を与えるまで行かない。
これは、真の神さまを与えないと、本心の自覚は出てこない。だから、真祈りまで進まないといけない。
本当の意味で、本心の自覚を引っ張り出す、与えるというところまでいかない。

だから、いくらマイナスを消しても役に立たない。助けてという求める心は育つ。助けてほしい人ばっかり増える。
助ける側に立つ人は増えない。反対にならないと。だから、支える生き方をとろうとする人を育てないとダメ。
これは、もうやっぱり、1番大きい力が必要。無限の力がいる。一人の人を戻すだけでも無限の力がいる。
自分ではできない。だから、真の神さまの支えを必要とする。みんなの支えを必要とする。
それで、もう自分を一切出さない。消し去って、自分をなくす生き方を選ぼうとする。

同じ自分をなくそうとする生き方でも、段階が無限にある。我を消しても消しても、まだ残っているのかと思う。
やっぱり自分の立場が出てくる。一つの立場に立たないつもりでも、やっぱり相手次第で出て来る。
それがやっぱり邪魔をする。本当に常に、自由自在かというと、ちょっと過去をつかんだだけで立場が生まれる。
だから、過去の残像を相手にする、虚の世界を相手にすると、やっぱり一つの過去を掴んで、立場をつかんでいる。
それをもう一回、謙虚になって、真の神さまを前に押し出して、もう一回自分をなくさないとダメ。
それを一瞬一瞬、新たに新たにって、し続けないといけない。この努力を怠ったら、我の自分になる。

本当に必要な事、大事な事は、真祈りの実行だけ。もう過去を一切掴まないこと。
新たな新たな、本心の自分が真祈りを祈り続けること。これも、自分一人がするのではない。
みんなのお蔭で、神さまのお蔭で、みんなに支えられて、神さまに支えられてという、このお祈り。
真祈りは言葉ではない。神さまが降り立たないと、真祈りではない。

神さまに降り立ってもらう為に、自分が消えないと。謙虚にならないと。
ちょっとでも我を出して、自分がって出たら、神さまは降り立たない。
だから、ありがとうございますの祈りに、生き方によって効果が大きく変化する。
ありがとうございますを唱えることは、力がある。真の神さまが波を合わせて降りて、助けるから。

求める心を生きている世界、六道の世界全部がそう。求める心を生きるこの世界が六道の世界。
ここでも、ありがとうございますを唱えるか唱えないかで、雲泥の違いがある。唱えたら、雲の上の姿。
唱えなかったら、泥の中。泥沼にはまる。このくらいの大きい差はある。

求める心のありがとうございますは、この力を1としたら、声聞・縁覚は、求める心を消して、受けるだけ。
プラスを受け直す、受けるだけ。これは、1回のありがとうございますで、100倍の力がある。
求める心で祈るありがとうございますの100倍以上の力がある。求めないから力が出る。
求めるのは、やっぱり逆流だから、大きく邪魔をする。受けるのは、まだ逆流は起こしてない。
止めているけど。これが、受けるから更に与える、与えっぱなす心になった自分が祈る祈りは、
最初の祈りの万倍の力になる。1回祈ったら、万倍以上の力が出てくる。それが、支える生き方の自分になって、
祈ったら、億倍以上。支え合うになったら、無限倍。これは、なぜかと言うと、例えば、太陽の光が降り注いでいる。
雲の上は、光がそのまま降り注ぐ。邪魔しないから。だから、支える、支え合うは、いつも無限倍。
雲の上だったらそう。そのままの光が受けられる。邪魔するものが何もない。

でも、雲までいかなくても、霞でも単なる微粒子でも、ちょっと遮る。光を遮る。それだけ効果が落ちてくる。
直接ではないから。霧やうす雲でも、かなり遮る。もっと雲が厚くなって、黒雲だと光が下まで通らない。
そしたら、かなり邪魔をしている。さらに雨が土砂降りになったら真っ暗闇になる。
だから、求める心は、台風の土砂降りみたいなもの。光を本当に遮る。でも、それでも、ありがとうございますを
言うのなら、光はすうっと入ってくる。ちょっとは効果が出る。でも、その効果は小さい。支える心で祈ったら、
やっぱり億倍以上の力がある。

上から祈るのと、肉体の自分として祈るのと、全然違う。本心の自分として上から祈るのは、1回の祈りで
億倍以上の力を発揮する。そしたら、思いをすうっと消せる。雲を消せる。でも、肉体が自分という立場で、
思いの心で祈る祈りは、1回真剣に祈っても、雲は消せない。光は呼べるけど。
ちょっと入ってきてくれるけど、自分の力では雲まで消せない。

(平成26年11月1日のお話③)