元々、本当の自分は一切の我のない無色透明の自由自在心、これ以外に自分はない。
ただ、この自分をしっかりと発揮するかどうか。本心の自分を生きるかどうか。
生きなかったら惰性に流れている。だから本心の自分をしっかりと生きようとすること。
その最高の生き方が、真祈り。常に一瞬一瞬、新たに。絶対の中心、一番大きいところから、
真の神さまの立場から、全ての全てに対して、真の神さまを与え続ける。与え続けて、与え続けて、
真の神さまだけにしてしまう。どこにも真の神さま以外に何もないっていう状態に変えていかないとダメ。
これが真祈りの本当の祈りの修行になる。これが一番の最終ゴールへの最短コース。

今選ばないとダメ。本当は選べる。別府温泉の地獄巡りだったらいいけど、虚の世界の本当の地獄巡りなんかしたらダメ。
ちょっと見てこようなんて言ったらダメ。時間がもったいない。最高の生き方だけを選ばないとダメ。
これも枠を決められて歩んでいるようだったらダメなの。どんな自由自在に何の縛りもない所に置かれても、
一つの道をまっしぐらに進めないとダメ。本当の自由自在、これを試される。どんな縛りがあっても
縛られない自由自在性がいる。どれだけ何もない状態でも、目標に向かって一つの道を定めないとダメ。
一つの道を選んでまっしぐらに進めないとダメ。

普通、まっしぐらに行くのに、縛られたら幸せと言う人がいる。でもがんじがらめに縛られたら苦しい。
本当に枠をはめられたら、目標に向かって真っ直ぐには行ける。その道を真っ直ぐ行ける。
そこしか行けないから。これはやっぱり本心の生き方と違う。枠をはめられたら、やっぱり不自由になる。
でもまだ枠をはめないと逸れる人には、ある程度の幅のある枠は要る。横に逸れたら反対の道を行くかも
しれないし、迷うかもしれない。だから最短コースになる、幅のある道、余裕のある道が必要。
本当の本心に戻ったら枠は要らない。

ポスティングで最初は10分の一の所帯数を目標にしていた。500万余りで300万ではなかった。
あれも枠をきちっと最初に300万って定めてしまったら、余裕がない。100%に行ったら、
そこはもう多分配らなくなると思う。これはもう自由な動きを止めてしまう。全体から見たら多分
成果が落ちると思う。最初はある程度必要だから、枠を広げていた。でもこの枠が無かったら、
多分みんな偏ってしまうと思う。全然枠が無かったら、配れるところだけ配って、配っていないところが
ほとんどになって、これもまた、枠がないとまた出来ない。

だからある程度枠があって、余裕がないとダメ。やっぱり途中が、ゴールの見えていない途中は、
いろいろ迷い道が一杯。どっちを向いていいか、まだわからない。だからその時その時に必要な、
枠と導きがいる。それで目標の幅を持たせてくれていたと思う。でも最終ゴールはもう見えてきた。
そしたら過去はもういらない。一切過去はもう役に立たない。細かいどの地に何冊って、これはもういらない。
ダブって入れないように、市にどれだけ配ったかって統計を出してやってくれた。今はもうゴールが見えたら
いらない。過去を振り返る必要もない。まっしぐらに前に進むだけでいい。

だから本心の自分の生き方、色んな場に置かれて導かれていく過程で、色んな縛りと、自由に放す生き方と
両方与えてもらう。どちらも必要。だから本当の人生行路、虚の世界の地獄から順番に上がるにしても、
全部の道を歩いて行くのは難しい。無限の年月をかけても、地獄を抜けられない。地獄を抜けるのでも、
八大地獄はものすごい幅が広い。そこをずーっと抜けて餓飢道まで上がるにしても、大変。

最短コースの道を示してもらわないとダメ。これは先に到達した先達がいる。先達の意見を、アドバイスを
素直に聞けるかどうか。そしたら、自分の道が出来る。一本道を定めてくれる。沢山の無限の道があっても、
それは必要ない。最短コース一本だけが、自分に必要。だから我を出さないこと。
自分が我を出すと、先達は、言っても聞かないからって、アドバイスしてくれない。適当にあしらう。
我を出さなかったら、素直になっていたら、必要なことをすっとアドバイスする。

そしたら自分の地図が、最短コースが出来る。次にまた上がったら、そこから最短コースを選び直せる。
だから目標は順番に、最短コースを選ぶことによって、順番にずっと上っていける。
だからどの立場にあっても我を出したら、一番損をする。真の神さまの支えがなくなる。
全てに真の神さまの支え・愛の助けが降り注いでいる。全てを通して。本当は全体にそうなんだけど、
我を出した時に全部、自分が拒絶してしまっている。その導きがどこから来ているかわからない。
自分の嫌な人から来ているかもしれない。嫌な姿を見るのも必要。そこから、はいって素直に聞くのも必要。

無駄なことは何も働いていない。ただ自分が何を選べるか。周りの全てから、無限の中から、自分にとって
本当に必要なものを素直に選べるかどうか。自分が我のない素直な心だったら、一番いいものをその時選べる。
我を出した時はつまらないものを選んでいる。やっぱり自分の我に合うものを選んでいる。
素直な時は、本心の自分にとって一番いいものを選べるようになっている。

だから日常生活全てにおいてそう。自分が、自分がって出たらダメ。同じ一つの波の世界、レベルであっても、
周りの全部を自分が支えないとダメ。支えたら支えてもらえる。押し上げてもらえる。
ところが我が出ると、みんなを押しのけて、お山の大将になろうとする。みんなを踏みつけて、
上に上がろうとする。みんな頭を踏まれるのは嫌だからサッと逃げる、上がっても落ちる。絶対上に上がれない。
支えてもらえない。みんな自分が支えようとしないと、支えて上げてはもらえない。自分と同じ姿で出てくるから。

どんな生き方を取る時もそう。自分の今の立場で、周りを支えたらいい。自分を表に出したらダメ。
支える練習、修行。本心に戻ってからも、自分を出さない自分。常に神さまを前に押し出す、
神さまに前に出てもらう、この気持ちがしっかりしてくる。だからみんな本心の自分に戻ってからの、
本当の自分に戻るための修行の過程。今置かれている場が、全部そう、次の場もそう、その次の場もそう。
我を出さない修行。みんなを下から支える修行、みんなに押し上げて支えてもらう修業。

だから、日本の色んな武道でも何でもそうだけど、自分が一番下にある時は、1段上からしっかりと教えてもらう。
トップからではない。自分の次の段階から色々指導して教えてもらう。そして、自分が上に上がったら、
今度は自分が下を指導しながら、更に上から指導してもらう。両方いる。自分一人、上へ上ろうとしたらダメ。
自分にある程度力が付いたら、下を全部押し上げようとして、支えないとダメ。これは、上から指導するのではない。
下の者を下から押し上げる。レベルアップする。

例えば、剣道で立ち会って稽古をする時、強い人がいつも打ち負かしているのは、上から指導をしている。
こんなのはダメ。下の人が育たない。反対。勝ちを下の人に譲って、励まさないとダメ。
褒めて励まさないとダメ。上手に隙を作って、叩かせて、相手の力を引き出さないとダメ。
これは、自分が下から支えて押し上げようとする働きと同じ。そしたら、自分も上の方からそうしてもらえる。
稽古をして、自分が勝ったと思ったら、大間違い。反対。わざと勝たしてもらっているの。
これが分からなかったら、何の実力もない。上の人ほど、自分の力を発揮しない。指導するために、勝ちを譲って、
ちゃんと伸ばしてくれているだけ。

神さまの世界は、もっと凄い。高い神様は、絶対自分を出さない。蔭で蔭で、真の神さまを与え続けて、
本心の自覚を与えて、支えるばっかり。自分が偉いなんて名乗ってこない。自分の方が下へ下へ行ってくれる。
それを鵜呑みにしていたらバカ。反対なの。力も底抜けに大きい。限界がない。

だから、自分もそういう生き方をとったらわかるはず。どれだけ下から支えるのに大きい力が必要か。
我を出して、わがままを言う人を本当に本心の自分に戻そうとしたら、どれだけの力がいるか。
もう、ちょっとでも自分がそうしようとしたら、もう限界を感じるはず。いくら言っても実行できない。
もうこの人はダメだと思ってしまう。普通はそう。でも、それを諦めないで、とことん本心を拝み出そうとして、
本心に戻そうとする。だから、自分が出しゃばれない。自分の力では、もうすぐに限界がわかる。

(平成26年11月1日のお話②)