「真の」っていうのと「虚の」っていうのは、正反対、大きい違いがある。
例えば、「真の神さま」と「神さま」、どれだけの違いがあるか。
「真のプラス」と「プラス」、大きい違いがある。「支え合い」も、「真の支え合い」と、
「支え合い」がどう違うか。

真の支え合いとは何か。真の神さまの世界の支え合いは何か。虚の世界の支え合いは、自分を、
人を相手にしている。自分を支えてくれる、人を支えている、みんなを支えている、全体を支えている。
対立している。真の支え合いは違う。人や、みんなを、全体を支えるのではない。真の神さまを支える。
だから真の神さまの御心をそのまま生きる。願いを叶える為に、支えるのに何をしたらいいか。
これが本当の支え。本心の自分でないと出来ないこと。神さまの願いを、目的を、目標をしっかりと、
自分のものにして、自分を与え尽す。真の支え合うも違う。寄りかかる支え合いではない。
本心のみんなの力を一つに結集すること。一人の支えでもすごい。みんなの支えを一つにして、
真の神さまの願いを実現するように支えていく。同じ言葉でも、真の支え合い、普通の支え合い、
大きい違いがある。どんな言葉も同じ。無色透明。真の無色透明の輝きは、無色透明の中にすべてがある。
虚の無色透明だったら、無、ゼロ。何もない。同じ言葉を使っているようで違う。
「真の」ということをしっかりと捉えないと、ダメ。

虚の世界を十界って分けている。「真の十界」と「ミニ十界」の違いは大きい。虚の世界がどうして生まれたか、
原因がある。また虚の世界を消す為にはどうしたらいいか。いったん、虚の世界へ落ちて、地獄まで行ったら、
かなり借金・マイナスを積み重ねている。無限に近い、思い・我を積み重ねている。無限って言ってもいい。
その無限のものをどうして返していけるか、消していけるか。迷路のような虚の世界から抜ける為にも、
抜け出る地図が入る。ただ、この地図は、虚の世界の人が作った地図では迷うだけ。
真の神さまが光の道をつけてくれないと、地図にならない。その地図の道は、一本。真祈りへの道、一本だけ。
どこにでもあるのと違う。真祈りへの道をしっかりと見出して、入って行かないとダメ。

木でも鉢に植えて、枝を剪定して手入れして、人工的に手を加えたものを盆栽という。大木にならない。
人の手を加えたら、盆栽に終わる。花の種を蒔いても、いつ芽が出るかって見つめたら、なかなか出ない。
双葉が出て成長し始めるのでも、見つめたら止まってしまう。人でも同じ。寝ている時に成長するという。
見つめることは、過去をつかむこと。縛りを与えること。だから成長が止まる。置き換えが遅くなる、悪くなる。
良くならない。盆栽教育と天才教育と二つがある。

下から1+1は2と勉強しようとしたら、盆栽教育に終わる。過去をつかむから。
過去をつかんだら必ず縛られる。進歩が必ず遅くなる。天才教育は最高のものを与え続ける。
最高のものだけを習う。神習うというのと同じ。神さまの真似をするというのと同じなの。そうすると進歩が早い。
早く本物が降りてくる。それと同じで、地獄から心境を上げて、本当の悟りの世界に到達する為に、
どうしたらいいか。下から上がろうとしたら無限の年月をかけても上がれない。不可能。
過去の縛りでがんじがらめになるから。大勢の神仏に助けてもらっても、なかなか縛りが全部消えるまでいかない。
年月がかかりすぎる。

同じ十界と言っても、六道は、求める心、思いの心で一杯。声聞・縁覚・菩薩・仏が思いを消して、
本心の世界、悟りの世界に戻りたいという生き方を取る時。そこに本心の目覚めが出来た時。
本当は、(ミニ十界ではない)正規の十界で、声聞というのは、色んな教えを全部学んで、地図作りをするところ。
全体像をしっかりと捉えないとダメ。そうしないと何もわからない。どっちに行っていいかもわからない。
迷ってしまうだけ。声聞というのは、地図作りをする。悟りへの道をしっかりと全部学んで、体系づけないとダメ。

それが出来たら、今度は縁覚。縁覚は、自分にどれだけの責任があるか気づくこと。
どういう責任を果たしていくか気づくこと。段階を追って、色んな気付き、責任がある。
その全ての責任を感じ取らないとダメ。色んな責任を感じて自分はこれを目指すんだっていう気持ちを
起こさないとダメ。それで菩薩の境地に立つ。

菩薩の境地からは、お祈りだけ。借金返しをする為の、マイナスを消す為の、本当のお祈りを一生懸命する段階。
菩薩や仏のする仕事は祈りだけ。肉体が自分と思って、魂が自分と思ってするのでは、何の力も出ない。
本心の自分が、お祈りの実行をする。でもまだ、本心の自分にはなり切れていない。
本心の自分が目覚めてちょっと顔を出しているくらい。本心の自分が、与える祈りを実行し始めている段階。
本当は借金返しを全部しないと、虚の世界は消えないから、その為の祈りを順番にしていく。
与えて与えて、与え尽す祈りを実行する。自分の為に祈る祈りは、取るに足らない、役に立たない。
みんなの為に、全体の為に与えるだけのお祈りが、必要。これでもまだ虚の祈りなの。
借金返しの為の、思いを消す為の祈り。それがどれだけ大きい責任を感じて大きい与え方の祈りをするかによって、
小菩薩が大菩薩になり、大きい仏になっていく。

(平成26年10月4日勉強会のお話①)