真祈りは、常に新たなる、真の神さまを与え続ける。そして、新たなる真の神さまで埋め尽くす、
新たなる真の神さまだけになっている、という状態にしてしまう。だから常に、祈り言葉として、
新たなる真の神さま、真の神さま、真の神さまだけという、本当に真の神さまだけしかない、
という断定の祈りが必要になる。それでないと、真の神さまを与え続けるという、実感が出てこない。
受けるというだけでは足りない。与え続けるという気持ちがないと、本当の意味で、真の神さまの働きが
わかりにくい。それで真祈りの練習、実行が必要になる。だから真祈りと祈りの違いは大きい。
真祈りになったら、過去の思いが全部スッと消える。全ての問題がさっとなくなる。一瞬で、一大奇蹟が起こるの。
これは真の神さまが降り立たないとダメ。

だからポスティングでみんな、真の神さまに使ってもらう、降り立ってもらう、この勉強、体験を
今させてもらっているけど、神さまの方から、ポスティングというすがたをとって降り立ってくれている。
みんなの心境は無関係に、降り立ってくれている。虚の世界の全てをプラスにプラスに変えて、総動員して、
一冊のポスティングをさせてくる。

そしてみんなの思いを消し続けてくれている。だから本当の奇跡が起こる、みんなの心が軽くなる。
本心の自覚が出てくるように助け続けてくれている。でも、まだこれが小さいの。
みんなの本心の生き方を、本物に変えるために、まだ準備中。ここでみんなの自由意志による願いが必要なの。
真の神さまの願い、目的を自分の願い、目的に変えることが必要なの。そしたらピタッと波が合う。
真の神さまが降り立てる。そしたら真祈りに変わるの。

でも我の自分、思いの自分をつかんでいたら、小さくなりすぎてそこまで行けない。だからどちらをつかむか。
本心の自分をつかもうとするのか、我の自分をつかもうとするのか。どちらでも自由につかめる。
我や思いが全部消えてからでないと本心側に立てないのではない。本心の自分の方が、本物だし、
厳然と今ここに在る。虚の自分、我の自分、思いの方が、本当は実体がない。でもそれでも、我をつかもうとする、
思いをつかもうとしている、つかみにくいものをつかもうとしている。

本当は本心の自分の方をつかみやすいの。本物だし、新たに新たに与え続けてもらう自分だから。
どちらを選ぶかは自由だけど、本当は本心の方を選びやすい筈。
ところが我の自分、思いの自分を選ぼうとするのは、その人がしつこく選んでいる。
ここで人の自由意志が問題になっている。しつこく選んでいるのを無理矢理には出来ない。
ここで自分の自由意志を発揮しないとダメ。本心の自分を生きる。真の神さまの願い、目的を生きる、
ここに定めないといけない。本当の総責任者よ。

全てのマイナスを自分の責任として受けるなんて、小さい。最高のプラスを全てに与え続ける、大きい責任、
ここに自分の気持ちを持って行かないとダメ。真の神さまを与え続ける、真のプラスを与え続ける、
一大循環の相象を与え続ける、それだけに絞り込む。余計なことをしない。マイナスを相手にしたら、
知らず知らず、マイナスの言葉を使ってしまう。そしたらマイナスが消えない。思いが積み重なる。
本当は反対なの。真の神さまを与え続けたら、マイナスが消える。我も思いも消える。
でも真の神さまを与え続けるというのを忘れたら、マイナスをつかんでいく。言葉もマイナスになってしまう。

本当は真の神さまに出会う、これを一番の願いにしないとダメ。虚の世界にどれだけ素晴らしいものがある
と言っても、何もないの。虚の世界から抜け出る、真の神さまと出会うということが、どれだけ、無限倍素晴らしいか。
まずこれに気付くこと。真の神さまに出会うために、祈り続けないと、言葉を選び続けないと。
真の神さまに出会ってからが、本当に入れ子構造的に大きな自分に戻る勉強。
本当の支える、支え合う生き方を実行して、本当の無条件の幸せが湧き上がる自分に、どんどん大きくなっていく。
何が幸せか。思い通りになる幸せなんてない。思い通りになったって、幸せでも何でもない。
みんな借金を背負った姿を取る。必ず借金返しの苦難の連続になる。無条件の幸せは、神さまから降り注ぐ幸せ。
それも小さいものではない。全てのみんなの幸せを束ねた幸せになる。

これも全て、言葉選びだけ。みんな言葉通りになってしまっている。本当に真のプラスの言葉かどうか。
結局そこに落ち着いてしまう。現実を言葉にしたら、虚の世界の言葉。
いくらプラスでも、虚の言葉だからマイナス。現実を本当に相手にしないで、
まず、真のプラスの言葉を選ばないとダメ。真のプラスの言葉とは何か。
ありがとうございます、この一言、本当は一言でいいのだけど、この中身に何がくっついてくるか。
ここにどういう言葉をくっつけてくるかによって、大きく変化する。
同じありがとうございますを唱えながらでも、虚の世界の人はみんな、つまらない言葉を沢山くっつける。

でも本心の自分がありがとうございますを唱える時は、新たなる全徳の無限の無限の輝きが、
無限に無限に一杯という、神さまの徳性をしっかりと認める生き方のありがとうございます。
本当の真のプラスの言葉を加えた、ありがとうございますを練習するのが大事。
だから常に「新たなる」をつけて、色んな神さまの徳性を現す言葉を、無限の無限の○○が無限に無限に一杯、
このくらいは必要になる。やっぱり小さいものではない。幸せは、神さまの世界にはないの。
幸せだったら、無限の無限の幸せが無限に無限に一杯でないと神さまの世界の幸せにはならない。
幸せというだけだったら、小さすぎて虚の世界になる。それも「新たなる」を付けるのが正しい。
神さまの世界の真のプラスの言葉になる。だから、それをどれだけ一瞬一瞬選び続けて、唱え続けて、
ありがとうございますになっているかどうか。これができたら、いつも真の神さまが降り立ってくれる。

 真の神さまの本当の愛は、無限に無限に大きい。無限に無限に深い。でもこれは、与える側に立たないと
気づかない。受ける側ではダメ。受ける側では気づかない。本当に与える側に立たないとダメ。
真の神さまを与え続ける側に、立とうとしないと。一瞬の休みもなく、24時間+α、真の神さまを与え続けるのは、
本当は忙しい。自分が24時間、ぶっ続けで真の神さまを与え続ける祈り、これは、支えるお祈り。
でも、24時間ぶっ続けで祈れるかどうか。1秒でも忘れたら祈ってない。空白が生まれている。
でも、みんなが同じように祈って支えてくれたら、+αが大きくなる。真の神さまの世界、真実の世界は、
本心の自分。無限に一杯どころではない。無限に無限に一杯。みんなが本心の自分をしっかり生きて、
真祈りを祈り続けてくれる。それも大きい自分になって、祈り続けてくれている。これをしっかり認めないと。
+αを大きく大きくしていかないと、自分の真祈りも小さい。みんなの助け、応援、バックアップを
大きく認めるほど、真の神さまに近づく。

だから、虚の世界で、どれだけプラスにプラスに数え上げて感じても、本当はつまらないプラス。
でも、その練習は必要。でも、そこに留まったら、虚の世界から抜けるのは難しい。言葉が小さい。
大きいマイナス、無限のマイナスを軽くして、小さいマイナスで済ませてもらった、これも大きいようで小さい。
虚の世界の色んな大奇蹟と言っても、真の神さまを与え続ける真実の世界の与え方とは比較にならない。
どれだけマイナスを消しても、小さいプラス。その無限倍の大きいプラスを与え続けても、真実の世界では、
1番小さい。その大きいプラス、入れ子構造的にどんどん、無限倍、無限倍で大きくしていくことが
本当の意味で真の神さまに近づく。

だから、本気で、本気で、真の神さまに近づきたいかどうか。真の神さまに出会うというのは、
大きい真の神さまに出会わないと値打ちがない。真の神さまの爪の先と出会っても意味がない。
真の神さまの全体像と出会う。やっぱり入れ子構造的に大きい出会い方がいる。

真の神さまに出会うために、真祈りをどこまでもどこまでも祈り続ける。もう本当に絞り込まないと難しい。
みんな絞り込みがないと、余計な事へ心を向ける。真の神さまと会う為だけに、真祈りを祈り続ける。
大きく大きく祈り続ける。

真の神さまを与え続けたら、真の神さまがバックアップで循環してくる。その時に、本当の意味で出会う。
循環してきて、自分の中を通り抜けるから、本当の実感(観)がある。
表面に出てくるのを見ても、表面に出会ったというのは違う。真の神さまとの本当の一体感の実感(観)はない。
表面を見たというのと、自分の中を通り抜けたのは違う。表面を見たのは、自分と神さまとが離れているの。
太陽を見て、「ああ太陽と一体化した。」と言っても、太陽と一体化したのとは違う。太陽の表面を見ただけ。
太陽と自分とが離れている。

でも、太陽が自分の中を通り抜ける、太陽が自分の中に入ってくる。それを実感(観)するのは本物。
だから、真の神さまが自分の中を通り抜けないとダメ。それで、与え続けるという真祈りが必要になる。
与え続けて、通り抜けてもらう。それも大きく与え続けて、大きい真の神さまが通り抜けてくれる。
その時に本当の実感(観)が生まれる。

本当の願いがどこにあるか。真の神さまと本当の意味で出会う為に、真の神さまを自分の中で本当の意味で
実感(観)する為に、自分の自由意志による願いが絶対必要になる。もう、それだけに絞り込むくらいの真剣さが
必要になる。甘くなったら、負けてしまう。言葉は、やっぱり諸刃の剣。どういう言葉を選んで使うか。

人に色々教えてもらって、聞いてわかったつもりになってもわからない。反対なの。
自分が人に教える側に立たないとダメ。この時に、絶対必要なものは、自分に身に付いてなかったら教えられない。
だから、やっぱり責任感の問題。自分が責任を持って何かするという時は、本物になる。
だから、真祈りを本当の意味で祈りたい、祈れる自分になりたいという時は、まずみんなに真祈りを教えて
祈らせる、バックアップする。その気持ちが大事。

悟りというのは、いつもそう。自分が悟りたいというのは、偽物になる。
みんなを先に悟らせようというのが、本物の悟りになる。だから、支えるという生き方。
みんなを支えて、悟りの世界へ渡す。みんなを支えて、真祈りを祈れるようにする。この気持ちが、大事。
そしたら、真の神さまから支えが来る。全体から、みんなから支えが来る。それで本物に変えてもらえる。
自分に力があるからではない。反対。自分に力があるという時は、もうダメ。
過去をつかんでいる、自分のものをつかんでいるから、間違う。常に真の神さまから、新たに与えてもらうもの
だけが本物。そしたら自分も、自分のものも要らない。自分には何の力も必要ないの。
本当に100%、神さまの力だけ。

本当にここまで絞り込まないと、どうしても小さい自分の我が出たら、間違う。一切過去をつかまない。
我というのは、過去をつかんだら、我が出てくる。一切過去をつかまないのがいい。
過去を手放す、も要らない。新たな自分、新たな自分、がいい。真の神さまの目的、願いを生きる、
新たな自分だけ。真祈りを祈り続けるだけ。ありがとうございますだけで、真の神さまを与え続けるだけ。
一番簡単で、単純で明快。これも、実行するだけ。教えが必要なのでもない。難しいことは何も必要ない。
新たに新たにというのが、すべて神さまのお蔭。自分の努力や力とは違う。
ありがとうございますと祈ると、またありがとうございますが、沸くように出てくる。
これが自分の祈りではダメなの。常に新たな祈り。これが真の神さまの祈り。
だから過去を一切相手にしなくていい。本当に、新たなる真の神さまだけ。
本当に100%、神さまが全部してくれている。それを言葉で認めるだけ。

(平成26年9月6日のお話②)