虚の世界の我の自分には、なんの力も無い。本当の力は、真の神さまの力だけ。これが根本。
真祈りというのは、本当は、マイナスを消すためではない。虚を消すためでもない。
真の神さまの全てを与え続けるお祈り、最高のプラスを与え続けるお祈り。
本当は、マイナスは一切相手にしないの。最高のプラス、本当に必要なものを永遠に与え続けるお祈り。
これに気付いたら、無条件の幸せで一杯の自分。

どうしたら気付けるか。どうしたら真祈りになれるか。やはり神さまの願いを、目的を持って生きないと
気付けない。虚の世界はプラスが少ないから、求める心を起こす。それをプラスで受けようとする。
与えるにしても、自分の持っているプラスだけを与えようとする、小さいもの。
本当は真の神さまを与えるという大きい生き方が必要になる。

自分一人が真の神さまを与えると言っても、本当は小さい。一生懸命真祈りを祈って、
みんなを支えているといくら頑張っても、無限に小さい。真の神さまはその無限の無限倍。
本心のみんなが真の神さまを与え続ける、その全てを束ねないとダメ。全てを束ねた生き方が、
本当の真の神さまの働き。本当の支え合いのすがたをとっている。本当の真の神さまの支え合いのすがたに
気付くために、色んな勉強をさせてもらう。本心の自分に戻ってからが本当の勉強。
本心の自分に戻るのも、我の自分では何をしても戻れない。絶対不可能。思いの自分、我の自分が、
いくら本心に戻ろうとしても不可能。絶対不可能。我の自分は我を積み重ねるだけ、
思いの自分は思いの自分を積み重ねるだけだから、永遠に不可能。我を消して、思いを消して、
本心に戻してくれるのは、真の神さまの働きだけ。真の神さまの働きが、常に降り注ぐから。

虚の世界全体へ、真の神さまの大きい働きが降り注ぐ。思いだったら、思いを半分引き受けて波を合わせて
消し続ける。人の自由意志を絶対縛ることなく、半分取って消し続ける。常に半分取って、波を合わせてくれる。
半分取った分を消して高め上げてくれる。それをずーっと続けてくれる。小さい自分、色んな無限の種類の
我が自分の中にあるのを、色んな段階で消し続けてもらって、初めて、我のない自分、本心へ戻してくれる。

本当は、虚の世界の全部が、真の神さまの大きい愛の働きによって、自分の我を消してもらっているすがた。
でも消し続けてもらっていると受けるだけでは気づかない。受けるだけでは、無限に小さい生き方。
同じ虚の世界を見るのでも、消し続けてもらっていると全体を捉えても、小さい。
今度は消し続ける側に立たないとダメ。自分の責任で虚の世界の全部を消す、この立場に立って初めて、
真の神さまの生き方と一致する。だからバックアップが大きく降り注ぐ。

神さまのバックアップ、特に真の神さまのバックアップは常に、後押し、応援。神さまが出しゃばってくるの
ではない。本心の一人一人が、虚の世界の全部。責任を持って消しきりたい、この願いを起こさないと、
神さまのバックアップは入れない。だから本心の自分に戻ったら、自分が責任を持って、
虚の世界の全てを消そうとする。その時に、真の神さまがバックアップとして、自分の中を通り抜ける。
そして本当の意味で真の神さまの働きに気付く、気付かせてもらえる。これが無限通りではない。
無限の無限通りがある。

だからこの世で色んなすがた、変化を見せてもらって、どれだけ神さまが大きく働いて助け続けてくれているか、
全てを通してどういう変化をもたらしてくれているか、この世から受けて見て感じる感じ方は、無限に小さい。
いくら無限に数え上げたといっても、無限に小さい受け方、感じ方。でもそれも、何もないよりは、必要なの。
でもそこを卒業するというのが大事。受ける生き方から、本当に支える生き方へ戻らないとダメ。
受ける、与える生き方は、まだ虚の世界の我の自分の生き方。

本当の自分の生き方、本心の自分の生き方は、支える生き方。真の神さまを与えるという支える生き方。
一番下から支えるというのは力が要る。全体を支える、みんなを支えるというのは、一番力が必要になる。
力が無かったら、押し潰されておしまい。支えるという生き方の時に必ず、真の神さまが潰されないように、
支えに出てくる。必ず守ってくれる。この支える生き方が、絶対に必要になる。

本心の生き方は、支える生き方を取らないとダメ。でも我の自分、思いの自分が、自分の持っているものを
全部支える、与える、これは偽物の方。我の自分のするのは、支える・支え合いといっても、偽物。
本心の支え方は、真の神さまを与え続けないと、ダメなの。それも全てに、全体に、真の神さまを与え続ける
という、この生き方でないと、本心の支える生き方ではない。

真祈りというのは、真の神さまを、全体へ、全てへ与え続けること。そのために、そういう祈り言葉を唱え続ける。
真の神さまが降り立ってくれる、自分を通って、通り抜けてくれる。その時に、自分の祈りが真祈りに変化する。
祈りと真祈りの違いは、何か。いくら本心の自分が祈ると言っても、本心の自分の祈りもまだ真祈りではない。
そこに真の神さまが降り立って通り抜けてくれた時から、本心の祈りが真祈りに変わる。
だから真祈りになっているかどうかは、厳しいものなの。みんな真祈りを祈っているつもりになっても、
本当に真の神さまが降り立ってくれているかどうかで判断されたら、なかなか厳しい。

ところが真の神さまが降り立つのは、必要なだけ。本当に必要なだけしか降り立たないから、
本当に本気で真剣に、自分が虚の世界全部を消すんだっていう気持ちになれているかどうか。
この地球の色んな問題を消すため、これは、本当は小さすぎるの。
いくら地球を守るため、地球の問題を全部消し去るためにと言っても、やっぱり願いが小さい。
地球だけがマイナスが一杯というのではない。全大宇宙には、もっとひどいところが、いっぱいある。
虚の世界全体を見たら、地球なんて、無の一点と同じ。その虚の世界全体を、本当の意味で、消し去る、
このくらいの大きい気持ちの方が必要なの。そしたら真の神さまはいつでも、自分の中へ入って、
後押し、応援をしてくれる。真の神さまの後押し・応援は、いつも無限倍・無限倍で降りてくる。

だから総責任者と言うけど、責任が重たいほどいい。大きい問題を抱えている方が、本当の意味で
自分の無力感が嫌と言うほど味わえる。自分の力で、というのは、やっぱり我が出てくる。
本当の無力感に打ちひしがれる、打ちのめされるくらいでないと、謙虚になれないの。
自分がしている、自分はこれが出来る、これではダメなの。

みんなまだ、ポスティングでもそう、自分がしている。自分が何かさせてもらっていると言っても、
自分がしているという感覚が強い。本当に、一歩も歩けないような状態になった時、
自分が出来るかって考えてご覧。本当にしようとするか。多分しないと思う。出来ないって言ってしまう。
これはまだ、自分がしているという感覚。神さまがさせてくれる、してくれると言うのだったら、
表面がどんな状態でも関係ない。一瞬一瞬、新たに神さまがしてくるというのは、過去の一切が無関係。
現実の姿は無関係。現実というのは、遠い昔の過去の残像。過去の姿。だから常に今新たに。
真の神さまが、必要あって、自分の中を通り抜けてくれる。これが必要。

そしたらどれだけ大きい気持ちになる必要があるか。真の神さまの目的と願いを、自分の目的と願いに
していかないとダメなの。みんな人生の目的とは何か、考えたことがあると思う。
この人生の目的が、肉体の自分がどう生きたらいいかというのがほとんど。あまりにも小さい。
本当の答えはどこにもない。本心の自分がどう生きるか、これもまだ小さい。
真の神さまがどう生きるか、ここまで行かないとダメ。真の神さまの目的は何か。
そしたら本心の自分の目的が正しく定まる。だから常に真の神さまは、全体へ、全てへ、最高のプラスを
与え続けている。

(平成26年9月6日のお話①)