みんなで支え合うっていうけど、支えるっていうのは、一番下から。全体を支えるって重たい。
ものすごい力が要る。自分では出来ないことなの。自分では出来ないから、祈るの。
神さまは必要なところに与えるから、そこに降りてくる。支えようとするから、無限の力が必要なの。
だから神さまが無限の力を添えてバックアップする。それで大きい自分に戻してもらうから悟れる。
今自分に出来ることをしたって、どんな力が必要?何も力は必要ない。神さまなんか絶対降りるわけがない。
今ある力、それでいいんでしょうで終わり。

支える生き方がなぜ必要か。大きい力を必要とする自分になるため。そこに神さまが必要な力を降ろしてくる。
それも必要なだけしか降ろさないから。地球を守るためなら、地球を守るためだけの力。まだ小さい。
虚の世界を守るためでもないの。真の神さまの世界の全体を守るのだったら、自分を絶対の中心に置かないと
いけない。絶対の中心の立場に立って、支える。そしたら絶対の中心から、その必要な力が湧き上がるように
出てくる。これが本当の意味の真祈りを祈れる自分。真祈りの伝授も、浅い小さいものではダメ。
ここまで行かないと本物の真祈りの伝授にならない。

だからどれだけ、真の神さまと自分とを一対一の関係におくか。ここに絞り込んでくるか。
自分の他には真の神さまだけってどれだけ断定できるか。真の神さまをそっちのけにして、
自分の他に他人が一杯いるなんて、大間違い。大きい間違った言葉を並べ立てていることになる。
これは真の神さまに対して、どれだけ無礼千万、無礼億兆か。真の神さまが降り立つわけない。
だから思いの奴隷に陥っていく。だから知識は一切いらない。過去にどんな教えを聞いて、
どれだけ素晴らしい教えでも、過去の残像、役に立たない。そんなのお祈りではない。

五井先生はお祈りの神さま、祈りの御本尊と言われた人だけど、五井先生が背後から、教えてもらった言葉がある。
百知は一つの真実行に及ばず。どれだけ百の教えを受けて、知識として身に着けても、一つの実行に及ばない。
一つの祈りに及ばない。誠実真行、正しい真祈りのことだけど、これは万理を知るに勝る。
万の真理を知る以上に、素晴らしいんだっていう意味。だから宇宙全体の教えをどれだけ勉強したって、
何の役にも立たない。思いを積み重ねるだけ。思いを消すのではない。反対になる。
だからそれをいくら伝えたって、人に思いをかぶせるだけ。これも間違い。根本は違う。
祈りを祈ること、真祈りを祈ること。ここだけにしか本物はない。

だから絞り込みってよく言うけど、何に絞り込むか、何を選ぶか。常に無限の選択肢がある。
本当は無限の選択肢が常にある。その中から一つだけ選ばないとダメ。幾つかから選んだのではダメ。
無限通りの中から一つ選ばないとダメ。無限通りを見抜けないのが、思いの心。
執着の心では見抜けない、何もわからない。狭い部分しか見えないから。無限通りあるってわかるのが本心の心。
だから大きい立場に立つっていうことは、無限通りがわかる自分になること。
神さまが与えているすがたに、気付く。でも無限通りに気付いても、その中から一つ最高のものを選ばないとダメ。
何でも沢山あってもいいのと違う。真の神さまの与え方は、最高のものを、本当に必要な一番必要なものをって
見ている。最高のもの、必要なものを見ている。最高のものを選び続けてこそ、本当に必要なものを
受け取ったことになる。それを選ばなかったら他のつまらないものを選んだことになる。

真の神さまと出会うこの本当の幸せ、喜び。これは言葉では表現できない、無限の無限の価値のあるもの。
真祈りを祈れる自分に変わる、これもそう。重苦しい思いを消してもらう、軽くなった喜びなんて、
そんなものは取るに足らない、喜びでも何でもない。そうではない。
本当の喜びは、真の神さまの一大循環の相象を、自分の中を通り抜けるすがたを実感(実観)すること。
これ以外ない。小さいものとは違う。真の神さまの愛の働きを実感(実観)すること。
与え続けるすがたを実感(実観)する。だから真の神さまを与え続ける自分にならないとダメ。
これが真祈りを祈れる自分。真祈りは真の神さまだけを与え続ける。だから一番幸せな自分になる。
だから邪魔する全部を捨てないとダメ。

ヤマタノオロチを退治する話があるけど、スサノオノミコトが最初暴れまわって、天の岩戸隠れって、
天照大御神を隠してしまう。八百万の神に諌められて、罰を一杯受ける、心を入れ替えて、正しく生きようとする。
それでヤマタノオロチと出会う。ヤマタノオロチっていうのは頭が八つということだけではない。
八というのは無限。数字の8は、横に倒すと無限だから。無限の我がある、無限の思いがあるという意味。
それを退治しなかったら、中から、剣が出てこない。名刀は生まれない。だから五欲の奴隷になっていたら無理。
自分がヤマタノオロチになって、暴れまわっているだけ。一切の欲望を切り捨てないとダメ。
必要なだけに絞りこんで、一切の欲望を消しきらないとダメ。色んな我が出て、思いが出て、求める心、
欲の心が一杯出てくる。片っ端から、切り捨ててしまわないとダメ。

ところが自分がヤマタノオロチになっていると、別のヤマタノオロチが向かってくる。ケンカしてかみ合う。
同じ自分なのに。全部一体のものなの。国と国とが争っている。大きいヤマタノオロチ同士がかみ合っている。
共食いくらいじゃないの。ヤマタノオロチは自分の思い。自分の思いの心、欲の心なの。
これを退治できるのは自分しかないの。自分以外のものではない。自分の思いそのもの。
だから周りのすがたを見て、ああ、あれがヤマタノオロチのすがたで、マイナスのすがたをとっていると
見ているのは、自分を見て、笑っていること。ここに気付かないとダメ。

だから人のことを言ったらダメなの。真の神さまだけ、自分の他には真の神さまだけって、断定しない限り
騙される。本当に真の神さまだけって断定出来たら、ヤマタノオロチが消えていく、このヤマタノオロチを
退治するためにお酒を浴びるほど飲ませる。お酒というのは、お神酒、お祈り。真の神さまだけだって祈り続けて、
ありがとうございますを祈り続けて、浴びせ続けて消し切ってしまう。
その時に、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、別名草薙剣(くさなぎのつるぎ)が、そこに出てくる。
普通の斬る刀じゃないよ。一切の我を、思いを、マイナスを一瞬で消し切る力。これが本心の力。
いくら本心があっても鍛えていなかったら、何の力も発揮できない。この無限の思いを、我を消し切る練習を
したからこそ、祈る練習をしたからこそ、名刀に変わる。どんな思いも一瞬で消せる自分になる。
本心も眠っていたら、眠ったままの何の力もない本心。鍛え抜いた自分が初めて本心になる。

だから、その草薙剣(くさなぎのつるぎ)としての本心の自分を天照大御神様に捧げた時から神我一体。
だから、祈り続けてない限りは無理。祈り続けてこそ、天照大御神様に捧げる剣を持てる。
肉体の自分を神さまに捧げても何の役にも立たない。そんな邪魔になるものはいらない。
思いの自分を捧げても、いらないって断られる。本当に捧げるのは、鍛え抜かれた名刀としての本心の自分。
一切の我を、思いを一瞬に消せるだけの自分。

(平成26年7月5日のお話②)