正しい信仰のあり方。真の神さまと自分を一対一の関係におくこと。これだけ。
これが根本にないと全部間違ってくる。虚の世界があるとしたら、みんな自分の虚の世界。
本当は真の神さましかない。そこにもし何か思いがあったら、思いは自分の思い。
これに気付かないと、間違ってしまう。だから本当に虚の世界があるかどうか。本当に思いがあるかどうか。
自分がどう見るか。自分一人が真の神さまに対して、何を主張するか。
真の神さまが、一大循環の相象(すがた)で厳然と今ここに在(ま)します。これ以上のものは何もない。
そしたら思いがどこに存在できる?本当の無限のスピードで循環する高い世界なんて、微塵も掴めない。
残像すら、絶対に起こらない。一番末端の方の低い世界の、小さい世界の神さまの表現でも、本当は凄いこと。
その末端の方の低い世界の小さい世界を残像として掴むの。なぜか。神さまの与えてくるのは、
本当に必要なだけを与え続ける。本当に必要なだけってすごいこと。余分なものは、何も与えない。
邪魔する余計なものは一切与えない。これを永遠に続けてくれる。

そしたらあと、何が必要か。神さまが与えてくるもの以上に何が必要なのかって考えたら、何もいらない。
何もないのが正しい。余計なものを加えて、あれもこれもかき集めて、掴んで自分のものにする、
これだけが間違っている。本当に必要なものを的確に与え続けてもらったら、後は何もいらない。
無い方が正しい。無い方が幸せなの。だからこの執着の思い、執着する思いが、一切の苦しみの元凶、
本当の根本の原因。執着したらダメなの。執着する必要は全然ないの。思いを出す必要は全然ないの。執着が思い。
執着し続けた思いが、どんどん増える。過去を掴むのも執着。過去を掴み続けたら、思いがどんどん出る。
思いの霧を出し続けて、自分がその霧の中に入ったら、その霧で周りが見えなくなる。
神さまの世界が見えなくなるだけ。だから自分が思いの霧の発生機にならなかったらいい。
自分一人の原因であり責任。自分が思いを出し続けている。そしたら思いを出し続けるのをやめればいい。
真の神さまだけ。ありがとうございますって確認すればいい。その他に何もいらない。
必要なものを全部与えてもらっているし、与え続けてもらうし、何の心配もない。
つまらないものなんか要らない。ない方がいい。掴んで溜めこんだのは全部マイナスばっかり。

だから虚の世界がどうのこうの、十界がどうのこうの言うけど、全部間違った見方。
自分の他に何かあるって見ている。そしたら真の神さまなんか相手にしていない。
真の神さまと自分との一対一の関係が、完全に破れている。ここが一番の間違い。
真の神さまだけって言わないとだめなのに、その他に虚の世界があり、十界があり、色んな地獄があり、
こう言っていること自体が、間違った生き方を取っている。だから問題が解決しない。
本当に真の神さまだけっていうんだったら、自分の出し続けている思いなんて、自分が辞めたら勝手に消える。
自分の思いだけが自分の見る世界を変えているんだったら、自分の思いぐらい一瞬で消える。

真の神さまが真祈りを伝授するって、みんなが無限の思いを溜めたから、それを全部消しきらないと出来ない、
そんな難しい問題ではない。元から思いの霧なんかない。それに気付かせたいだけ。
思いの霧が立ち込めて宇宙を隠している、思いの霧が虚の世界を作っている、そんな力は無い。作れない。
みんな虚の世界でマイナスの言葉、思いで虚の世界の地獄を作っているのか。本当に作れる?作れない。
でも思いの霧の中に閉じ込められたら、どんな嘘の言葉でも成り立つ。虚の世界は、どんな言葉を使っても、
言葉通りに成り立っているって感じる。自分がこの霧の中に入ってごらん。何を言われても信じる。
周りが見えないから、どんな言葉で言われても信じてしまう。霧が立ち込めていて、ここは平坦な土地だよ、
って言われたら、そう思う。でもここは断崖絶壁だよと言われてごらん、その通りに感じて恐くなる。
全部言葉通りになる。一瞬の一言で、その言葉通りになる。

自分が神さまと一対一で向き合ったら、全ての問題は一瞬で解決する。大きい問題なんか何もない。
自分が思いの霧をちょっと出しただけ。思いの霧がどこに立ち込めているか、もし思いの霧を立ち込めさせた
としても、神さまの世界の一番末端の小さい部分を捉えても、その無限分の一しかない。
そんなものに何の力があるか。自分の心の目を自分の思いで覆っているだけの話。そしたら人は関係ない、
他人は関係ない。自分だけ。人がどうのこうのって人のせいにしているけど、つまらないマイナスの言葉を
一杯並べ立てている、自分の責任。周り全部が真の神さまのすがただけなのに、自分が勝手に周りの誰かが
どうだこうだって言っている。そうじゃない。自分が勝手にマイナスの言葉を並べ立てただけ。
自分のことも含めて全部そう。全体をどう言葉で表現しているか。だから自分自身が使っている言葉通り。
虚の世界は特にそう。

だから真祈りの伝授は元々簡単なもの。真の神さまと一対一で向き合えばいいだけ。
ありがとうございますって向き合えばいいだけ。何もいらない、ありがとうございますって向き合うだけ。
他の一切を言葉にしなかったらいい。祈りってどんな祈りもそうだけど、本物の祈り、真の祈りは、
24時間+αの祈り。一日24時間、祈り言葉を唱え続けること。他の言葉を一切使わないこと。
そしたらそこに真の神さまが降り立てる。人の自由意志を尊重して、応援に立てる。
真の神さまが降り立ったら、それがそのまま真祈り。24時間祈り続けたら、真祈りに変わる。
その気持ちが定まっているかどうか。あれもこれもは、みんな間違い。ちょっとだけ祈って、あとは思いの心、
これも大きな間違い。何にも選んでいない。ここが問題なの。自分の自由意志を本当に発揮していない。
本当に真祈りを祈りたい、この気持ちが本当にあったら、ありがとうございますを24時間ずーっと
唱え続けたらいいだけの話。他の一切の言葉を無視して、完全に否定してありがとうございますに
絞り込んだらいい。そしたら真の神さまはすっと降り立てる。真の神さまが降り立ったら真祈り。
一切の思いが瞬間に消える。思いのない、我のない、本当の無色透明の自由自在心にすぐに一瞬に戻る。

本当の悟りは、一瞬で決まる。時間をかけて修行をして、ではない。これは自分が定めること。
虚の世界がどうのこうのは関係ない。過去に自分が思いをどれだけ溜めたか、それも無関係。
今一瞬に何を選ぶか。真の神さまを本当に選ぶのだったら、ありがとうございますになればいい。
それが本物だったら一瞬に変わる。神さまだけになる。本当にそう。虚の世界なんかない。
バラバラの世界なんか無い。思いで見る世界なんて、何の役にも立たない。
思い通りになって幸せなんて、言えない。みんな思いを溜めて、思いの操り人形になって、
思い通りになって喜んでいる。後で地獄の苦痛を味わっている、こんなのお笑い種。
言葉通りにお芝居をしているような感じ。そんなの元々ない。そんなつまらない言葉をもてあそぶ方が大間違い。
真の神さまだけを言葉にすればいい。ありがとうございます、ありがとうございますって喜び続けたらいいだけ。

(平成26年7月5日のお話①)