虚の世界は求めて受ける側が多い。神さまの方は大きく与える側。両者には、無限に無限に大きい違いがある。
虚の世界は、求める通りになる方がいいように、色んな風に錯覚する。
だから縦書き、横書き、どっちがいいかって言うのでも、自分の尺度でどうしても見てしまう。
でも本当は、神さまの与える側から見ないと、本当のことは何もわからない。

まず真の神さまが真実の世界で、どういう言葉を与え続けているか、どういう与え方をしているか。
最高の、これ以上のものは無いっていうプラスの言葉を無限に無限に一杯与え続けている。
全方向から、全方向へ。どういう風に見える?一通りではない。全ての立場から全ての立場へ。
一つの立場から全てを与えるってすごいこと。それが、全ての立場から全ての立場へ、
自分っていう一つの立場から、全方向へ与えるってものすごい働きが要る。
また全方向から自分へ全部が注がれてくるってものすごいこと。お互いが全部、そのようになっているとしたら、
光の言葉の動きは、縦横無尽に無限に無限に複雑な動きをして循環している。全部が必要な働きなの。

神さまの働きには何が必要か。必要なものを与える働きとして、常に最高のプラスの与えかたが、
無限の無限通りある。無限を無限倍しないとダメ。無限の無限通りの方法が常にあるの。
虚の世界は、ほんの一部その足跡、残像として出てくる世界だから、虚の世界に働きかける
神さまのプラスの言葉の動きも無限通り。神さまが虚の世界に働きかけるのは、全方向から。
一か所の一点からではない。ちょうど太陽から光を送るような感覚ではない。
神さまの光は全方向から降り注ぐの。

だから縦書きでも、一つの太陽っていう一点から見ようとしたら、そういう小さい見方も生まれる。
でも無限の太陽が、星空としてあったら、そこから全部光が降り注いでいるって見ると、小さくは受け取らない。
大きく受け取ろうとする、でもそうすると漠然となってしまう。
だから受ける側に、いかに能力がないか。無限分の一も受け取れない。

だから神さまの本当の与える愛の凄さを実感するために、与える側に立とうとしている。
神さまのお手伝いに生きて、与える側に立って、それを実感させてもらおうとしている。
ただ普通は受ける側だと一通りにしか、言葉を一つに定めて一通りにしか受け取れない。
それを無限通りに受け取る練習、更にそれを、無限の無限倍の、無限の無限通りに受け取ろうとする
勉強をしているの。

虚の世界に降り立っている真理の言葉が、縦に降りるのも、横に降りるのも、ものすごい限定。
無限の方向からあってもいい。上から降りる光もいいけど、下から上へ押し上げる、吸い上げて押し上げる
働きの言葉も要る。下から上へ上がる言葉もあってもいいの。縦横無尽に、色んな言葉の配列があってもいいの。
ただこの、表面に出てくる言葉は、無限分の一の足跡、痕跡。行間の凄さもそうだけど、
一字一字の字の間の字間も無限にあるの。隠れて見えない神さまの働きが一番大きい、いつも無限倍。

例えばありがとうございますっていう言葉が表面に出たとする。
「あ」という一字に、無限の方向から、ありがとうございますが加えられて、そこで合わさっているとしてご覧。
たまたま「あ」が一致したから、「あ」が出ている。
例えば、「と」だったら、「と」と一致したからそこに出ている。
この縦横無尽の螺旋の動きでたまたま「あ」と言ったら、そこに一致したの。
そしたら無限の「あ」の中で、自分の見ているのは、無限分の一。螺旋の動きって角度も違うし、大きさも違う。
直線に見ているのも、大きい無限の大きい螺旋のほんの一部だけを見ているのが直線。
だからそういう風に見たら、表面に出てくる言葉のすがたなんて、本当は取るに足らない。
無限分の一よりもっと少ない。

だからほんの表面の言葉だけを、字句を読んで、理解しようなんて、本当は間違い。
その奥の本当の無限倍の、大きい光の言葉を、虚の世界で受け取ろうとする方が、大事なの。
だから字間を読む。行間を読む。陰の隠れた言葉を読み取る。
ここに無限通りあるという風に見ていくのが、正しい受け方。
だから受け方でも、一通りに受けたのでは、一番未熟な下手な受け方になる。
自分が勝手に言葉で限定して、小さく受けているだけなの。

だから受けるんだったら、無限通りに受けないとダメ。大きいプラスの光の流れが、無限通りあって、
一点に集中しているっていう風に受けたら、無限通りの神さまの大きいプレゼントを受け取れる。
常に虚の世界は無限通り、無限通りって受け取るのが、正しい受け方。
それで真実の世界は、またその無限倍、無限の無限通り。それが常に降り注いでいる。

真の神さまは一大循環の相象(すがた)で厳然と今ここに在します。こういう風に断定する。
これが絶対の中心から無限の無限通りの大きいプラスの光の言葉が、
全方向から縦横無尽に降り注いでいるすがた。それをどれだけ自分が実感するか。
受けるだけじゃ実感できない。受けるだけでは無限通りって言うだけしか受け取れない。
与える側に立ったら、初めて、無限の無限通りに実感していく。

だから表面の求める心、思いの心で、いくらこれが正しい、あれが正しいと言ったって、
そんなのは自分勝手な捉え方、思い方。何の役にも立っていないと思う。
縦書きだから光がないか、横書きだから光がないか、そんなことない。
一字にも、無限の無限通りの神さまの光がそこへ集中して込められている。
だからどういう書き方だから光がない、そんなことは言えない。
一字だけで、そこに神さまの無限の無限の光が込められている。だから縦書きだろうが、横書きだろうが、
下から上る字であろうが、何でもいい。

例えば、神っていう字を全部書かないと、神にならないかってそうでもない。
示だけ書いて、そこに光が降りているかもしれない。チョンって書いただけで
神さまの光が入っているかもしれない。ありがとうございますって言わないと真の神さまでないかって、
そうでもない。「あ」だけでも、真の神さまになっているかもしれない。
「あ」ってちょっと書き始めただけでも、神さまの光が無限に一杯かもしれない。

だから形の方、足跡痕跡の方は、大したことがない。そういうので心を縛られて限定する方が、おかしい。
神さまの本当の愛のプレゼントを受け取るって言うんだったら、無限の無限通り、
これをいつも受け取ろうとする方が、正しい。そのために神さまの側に立って、神さまの与えるすがたを、
真似する、神倣うことで、自分の中を通り抜けたすがたで実感させてもらおうとする。
与え尽すありがとうございます、真の神さまを与え続けるありがとうございますが、
本当の大きい実感を与えてもらう方法。

(平成26年5月3日のお話)